7:翠との鍛錬
宿舎に戻ると、いつもと同じように三太の出迎えがあった。
「おかえり、珞」
「ただいま、三太」
こんな風に家に帰ってきたような気持ちになれたのはいつ振りだったろうか。普段であれば、やんややんや修行の文句を言いながら同じように部屋に入る。それが、今回は違う。珞は一種の安堵感を覚えた。
「疲れた」
久々の布団にごろりと横になった。ふと天井を見る。誰かが暗器を放り投げた跡がある。
「珞、お前。泣いているの?」
三太が心配そうに珞に近づく。珞は手で頬を伝うものを確認した。
「なんで」
言葉に詰まる珞に、三太は静かに言った。
「安心したんだよ、きっと。お前は昔からずっと頑張ってきたよ」
涙は県土島に来た時から流したことはなかった。どんなに罰として鞭打たれようとも歯を食いしばった。生き残るのに、駆け抜けるのに必死だったのだ、と珞は気づいた。
「あぁ、そうかもしれないな」
薄く涙を流しながら笑う珞に、三太は彼の目の前に指を突き付けた。
「この場に安心できたのは嬉しい。だがしかし! 気は抜くなよ」
そして、ニヤッと笑った。
「ちなみに、翠は挨拶がなくて、若干しょんぼりしていたんじゃないか? あれから元気がないように見えるけれど。会いに行かなくてもいいのか?」
珞は首を痛めかけそうになるくらいグイッと三太の方を向いた。
「行ってくる」
「風呂に入ってから行けば?帰ってくるってんで、温めてくれているみたいだけど」
「いや、先に翠に会ってくる」
三太はいつも同様呆れかえった顔をした。
「はいはい。いってらっしゃい」
「いってきます」と珞は返事をし、荷物を置いて部屋を飛び出した。
「翠は暗器術の鍛錬しているって聞いたぞー」と三太の声が風に乗って聞こえてくる。
まったくお節介が過ぎる奴だ、と珞は笑みを浮かべ、翠のもとへと翔けた。
翠は三太の言っていた通り、暗器術の鍛錬場にて鍛錬に励んでいた。他の者たちもいるが、暗器術の師はおらず、自主的な鍛錬だと珞は見立てた。彼は、彼女の下へ翔けた。他の年少者が振り向いている様子を目の端に捉えるが関係ない。珞は翠しか見ていなかった。
「翠!」
後ろから名前を呼びかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。相変わらずの無表情だったが、耳が少し紅潮していた。
「おかえりなさい。お疲れさま」
他人行儀な様子に衝撃を受けたが、珞は翠の手をとった。翠の持っていた暗器が音を立て、地面に落ちる。
「俺と一緒に“洞窟の試練”、来てくれるか? 五日後、森で一緒に修行してくれる?」
その率直な言葉に、翠の喉が動いた。彼女は口を開く。
「心配してたのに、勝手に森に行っているし、この大馬鹿!」
翠は両手でこぶしを作り、珞の胸に何度も打ち付けた。珞はその姿に愛おしく思い、翠が落ち着くまで、彼女の背を何度も優しくなで続けた。
五日間、珞は昏々と眠り続けた。よほど一月半の疲れが溜まっていたのだろうか。食事の時以外は眠り続けた。珞自身、剣術の稽古をしたい気持ちもあったのだが、どうしても瞼が落ちてくる。結局五日間、一度も稽古せずに食べては寝てを繰り返した。しかしながら、起きている必要がある時間もあり、眠気と戦いながら、一月半の森での生活でボロボロになった服を一新し、必要なものを準備した。ただ、師の宿舎に住んでいる給仕の老婆の下に服を取りに行くだけであったのに、それだけでも眠気を要した。
そして五日目、いつもより目覚めが良かった。今日から一月の間、翠と寝食を共にして、森でまた獣たちと戦う。そしてまた霊獣を弑し、食す日々が始まる。
準備を整え、部屋を出るとき、三太はまだ眠っている様だった。起こしてはならないと珞は何も言わずに外に出た。しかし、ふと何かを思い出したように立ち止まる。そして、また部屋の中へ戻った。
「三太、今から行ってくるから」と若干いつもより大きな声で呼びかける。すると、三太はパチリと目を開けた。
「起きていたのか」
「なんにも言わずに出ていこうとするなんて寂しい奴だな、と思っていたんだよ」と起き上り、髪を手櫛で整えた。
「今からだろ。気をつけていくんだぞ。翠と一緒だからって、調子こいて怪我したらだめだからな」
「あぁ、わかっているさ。しかも俺は調子なんぞこかん」
二人はお互いニヤリと笑い合い、互いのこぶしをぶつけた。
「また一月お前がいなくなるのか。俺寂しいわ。……でもまた一月、無事に帰ってきてくれよ」
「頑張ってくる」
そして、宿舎の外に出た。朝日がまだ闇に染まるその場所に、彼女は立っていた。まさか待っているとは思わず、翠の下へと急ぐ。
「待っていたんですけど」と無表情ながら、すねたように感じられた。
「俺と過ごすのが楽しみすぎて?」
つい意地悪で冗談を言えば、翠は速攻で珞の脛を蹴り飛ばした。力加減を調節してくれたのか、思っていたよりも痛くなく、彼女の優しさを珞は感じた。
「うそうそ。すぐ出発できるように待ってくれていたんだろう?」
何も言わずに、首を縦に振る翠を見て、その耳がまとめられた髪と同じ赤い色に染まっていることに気づく。珞は愛おしさと恥ずかしさを隠すように、「さあ、行くか」と翠の背中を軽く叩いた。




