4:悪夢
大師は宿舎ではなく、入り口から一番奥にある棟の最上階に住んでいる。珞はそこまで歩いていき、棟の螺旋階段を上っていく。ところどころにある窓から朝日の色の変化が見えてとても美しい。そういえば、この塔に上ったのは初めてだったと気づく。さらに階段を上っていくと、硝子細工で彩られた扉の前に行きついた。平屋に広い庭、塀が普通の白澪において、塔や硝子細工など珍しい。珞は、父が母に直接渡した西の国の交流品にあった硝子細工の品物を思い出した。
扉の隣に呼び鈴がある。軽そうな鈴が上から吊り下がっていた。珞が鈴を鳴らそうとしたその時だった。
「おはよう。お勤めご苦労だったな」と硝子細工の扉が開き、大師が顔をのぞかせる。
「いえ、おはようございます」
「入って座りなさい」
大師は皆の前では厳しいが、一対一になると優しくなることで有名だった。そして差別をしない。誰に対してもその態度である。だからこそ、皆の心に大師を尊敬する念が芽吹くのかもしれない。
珞は大師に言われた通り、部屋にあった敷物の上に正座した。そして、扉を開ける石を机に置く。大師は机を挟んで、珞の向かいに胡坐をかいた。そして、持ってきた白湯を珞の手元に置く。石は手に取り、腰についていた膨らんだ巾着に押し込んだ。
「逃亡した者はいませんでした。しかし」
珞が言いにくそうにしていると、大師が微笑んで代弁した。
「赤い髪の娘、翠だろう? 皆が寝静まった頃に早々に外に抜け出し、島を一周して戻ってきたよ。どうも、島の全体像を見渡しておきたかったらしい。そして、ちょうど見回りをしていたそなたと出会ったと」
「はい」
「あの子はどうであったかね」
その問いに、彼は押し黙った。どうであったか、という問いは彼の中で、どのように返事すればよいのかわからなかったのだ。
「身軽で、今まででいなかった者のように感じました」
大師は頷いた。
「そうだな。彼女は少し変わった経歴の持ち主なのだよ」
大師はそこまで言うと言葉を切る。そこから先は本人から聞け、とでもいうように。珞は大師が出した白湯に口を付けた。微かな蜂蜜の味がした。
「随分と親密に話していたな」と時を重ねるようにして、大師が言い、珞は思わず飲んでいた白湯を吹き出しそうになる。
「見ていたんですか⁉」
「起きたのが早かったものでね」
珞はため息をついた。見られるなんて恥ずかしい。
「単に亡くなった母に似ていた、それだけですよ。大師のお考えになるようなことにはならないでしょう」
大師は恋仲にならないかどうかを気にしているのだ。人間の心の変化として、恋愛感情を抱き始める時期はちょうど県土島にいる時期と重なるのだ。淡い恋で済むなら良いのだが、過去には相手に入れ込んでしまい、先に剣奴として本土でお披露目された後死んだことを知り、発狂して入水した少女がいた。そのためか、色恋沙汰には大師や師たちは敏感なのだ。
「どちらかが死ぬなんてことはあってはならんからね。そなたたちは特に群を抜いて秀でているから」
大師は自分用に入れた白湯を飲み干した。
「さあ、帰りなさい。半日眠って、昼からの武術訓練に出るといい」
「はい」
そのように軽く話を済ませると、珞は螺旋階段を下り、宿舎へ戻った。宿舎では、同室の三太が着替えを済ませて待っていた。
「おかえり。どうだったよ」
「逃亡者なし。一人だけ、塀から外に出て、島を見物して、扉を開けさせようとしたやつがいたけどな」
「翠だろ」と三太が即答する。「なんか変なことしそうだもんな。大師はなんて?」
「翠に対しては何も言っていなかった。俺は昼からだとさ。とりあえず寝かせてくれ」
珞は着物を脱ぐと、布団の近くに畳んで置いた。そして、肌着一枚になると、布団に潜り込む。
「おやすみ。飯の時に起きてこなかったら、起こしに来てくれよ。師に鞭打たれたくない」
目を閉じたままそう言うと、部屋の入り口から三太の声が遠く聞こえた。
「へえへえ、おやすみなさいな。起こしに来るのは時と場合によるわ」
起こせよ、と言う間もなく、珞は眠りに吸い込まれた。
珞は夢を見ていた。後ろに業火が迫っている。業火から逃げるように走ろうとした。しかし、粘りつくような黒い物体が上半身を包み込み、足元からは誰かの手が絡みついた。
『子珞、母を助けて』
母の手と共に、彼女の真っすぐな髪がうねるように、珞の右足に絡みついた。
『子珞様、私を置いていかないで』
乳母で女官だった波蘭も強い力で左足を押さえつけて、走らせないようにしてくる。そして、上半身に絡みつく黒い物からは白香神の声が聞こえてきた。
『お前は、逃げられない』
「いやだ、いやだ!俺は、俺は……!」
もがき苦しんでいると珞の目線の先に一つの光が見えた。それを必死で掴み取ろうとする。絡みつくすべてのものを無理やり剥ぎ取り、その光に向かって走り出す。
「……っ助けてくれ」
光を掴んだと思った瞬間、手をひんやりとした感触で満たされる。
「珞、起きて」
珞はうっすらと目を開けた。その視線の先には、珞の右手を両手で包み込んでいる翠の姿があった。部屋の戸口には、三太が呆れ返ったような表情で立っている。
「あ、あぁ。ありがとう」
肌着は汗でぐっしょりと濡れていた。
「汗かいてる。着替えるでしょ。私いない方がいいし、先に食堂行っているから」
翠は素早く手をほどき、そそくさに部屋を出ていく。珞は戸口に立っていた三太にある疑問をぶつけた。
「俺、寝ている間になんか言っていたか?」
三太は呆れながら、事の顛末を珞に伝えた。昼が近づいてきたため、三太が部屋を訪れると、珞がもがき苦しみながらなにかを掴もうとしている様子であったこと。そして、「翠、助けて」と叫んでいたというのだ。そのために、師に理由を説明し許可をもらって、翠を部屋に呼んだというわけだ。本来ならば、宿舎は男女分かれており、互いの行き来は禁じられている。珞の様子を少々大げさに師に伝えたのであろう。そうでなくては許可はもらえないはずだった。
珞は顔を覆った。
「お前が色恋に関係することがあるとは……。長い付き合いの俺でも想像もつかなかったよ」
三太の声がさざ波のように揺らいだ。