3:惹かれる心と義務感
「馬鹿。これくらいの高さ、自分で着地くらいできる。それより、貴方。腕大丈夫?」
翠の顔が珞の顔の正面に来て、瞳をのぞき込む。翠の無表情さに妙な違和感を覚えた。翠は軽く飛ぶように珞から離れ、珞の着物の袖をまくり上げた。夜の冷気が体に入ってくる。
「腕見せて」
「大丈夫だって。俺だって、鍛えているんだから」
実際、重かったのは体重の重みというよりは落ちてきた際の衝撃によるものが大きい。翠の身体は羽のように軽かった。
「お前、ここに来る前にどこかにいたのか?」
珞は手合いしたときの様子から、翠がどこかで武術を習っていたと推測していた。それにあの見たことのない二刀の武器が気になった。
疑問を口にし、翠の方を見ると、彼女の瞳は暗く、口は一文字に結び、微かに震えていた。珞はとてつもない焦りを感じ、すぐに言葉を正す。
「いや、言いたくなければいいんだ。誰だって秘密はあるし、俺だって人に言いたくない過去はある」
弐ノ皇子だった過去は誰にも言わなかった。背中の鱗についても誰にも知られていない。三太あたりは何か感づいているかもしれない。
風呂に入るときも、呪われた痕跡があるからと“先輩”を脅して最後に風呂に入らせてもらっていた。背中の鱗は昔に比べて刺青のように滑らかになり、皮膚と一体化しているようだ。昔はもっとガサガサしていたのに。
暫くの沈黙の後、翠は口を開いた。
「今は言いたくない」
「それでいいじゃないか。自分にとって重い過去でも、この人なら言えると思える人ができたときに、その人に言えばいいし。まあ、その時はその時で、その人が受け止めてくれるかが、不安になってくるんだけどなぁ」
ふふっと、翠は無表情のまま笑ったようだった。
「貴方って面白いね。面白いと心が軽くなる。もっと楽しく生きたい」
剣奴というこれからの未来にはあり得ない将来を翠は言葉に紡いだ。しかし、珞にとって、翠は人生を諦めているような意味合いが入っているのではないかと感じた。
「『明日から大変だから寝ろよ』っていうのが正しいんだろうけれど、ちょっとここに座って、少し話でもしていかないか」
門を背もたれにして、珞は地面に座った。胸が高鳴る。まともに翠の顔を見られなかった。拒否されたらどうしようと、頭の中ではぐるぐるとそのことばかり考えてしまう。
立ったままだった翠は、表情なく、じっと珞を見つめた。
「いいよ」
翠はそう言うと、珞と少し距離をあけて、地面に座った。沈黙がその場を支配する。翠の視線を感じ、珞は彼女の方を見た。
「髪の毛、一房だけ金色なのね。珍しい。白い子たちはみんな白いのに。触ってもいい?」
翠は興味本位で聞いたのだった。しかし、珞にとって、珍しがられることがあっても触ってもいいかと聞かれたのは初めてである。右の前髪にも若干かかっている一房の金色の髪は幼い頃にはなかったものだ。最近になって、髪を洗うごとに濃くなっている。なぜだかは珞にもわからなかった。
「いいよ。俺もその赤い髪、触っても?」
翠は少々黙りこくると、暫くして「うん」と呟いた。
二人の左腕が交差する。翠の豊かな赤い髪は程よいうねりがあり、とても柔らかい。珞が翠の髪を触れている間、翠も珞の髪を上から下から触りまくっている。
「白い子たちはみんな白いのに、貴方のは銀色みたいに輝いて見える。月明りだから?」
「そうじゃない?」
珞は浮ついた声で返事をする。彼女の髪が記憶の中の母と同じ質感で、集中して触りたくなってしまう。
「素敵だ」と思っていたことが思わず言葉に出ていたことに気づいたのは、言葉が外に出てしまってからだった。
「え」
翠の瞳に戸惑いの色が灯る。珞は正直に理由を明かした。
「俺がこの島に来たのは五歳の時だった。その時に死に別れた母の髪質と似ているんだ。ずっと触っていたい。懐かしい気持ちになれる。なんて、自分から言っておいて、さすがに気持ち悪いわな。嫌な思いをさせたらごめん」
瞳を閉じて自嘲ぎみに笑うと、両方の頬に冷たい手がそっと添えられた。思わず眼を開けると、鼻と鼻がくっつきそうな位置に宝石のような碧色の瞳があった。
「気持ち悪くなんてない。五歳で死に別れなんて、今まで辛かったでしょ。私もそれくらいの時期に死に別れているから、わかる。今までがむしゃらに生きてきたってことくらい」
表情のない顔から、一生懸命紡がれるその言葉は、珞にとって癒しの言葉だった。そして、無意識のうちに頬を涙が伝って落ちるのを感じた。
「なんで泣いているの。泣けるだけマシってもん。私は何か思っても、感情が表情に出せなくなっちゃった。もう一生出ないって言われている」
翠は珞の涙に濡れた手をぺろりと舐め、「しょっぱい」と呟いた。
「私も泣いてみたいし、笑ってみたいなあ……。珞のお母さんも私と同じ容姿ーー"悪鬼"だったの?」
珞は着物の袖で涙を拭うと、「“悪鬼”なんて言うなよ」と怒った口調で呟いた。
「なんで? みんな、私のこと見て、コソコソ“悪鬼”って言っている」
「“悪鬼”は白澪の先住民族だった民族の血が濃いから出るものだろう。別に悪神の使いでもなんでもない。俺の母も赤い髪に碧眼だった。髪は真っすぐだったけど、俺は翠の髪のほうが好きかも。柔らかくてふわふわしている」
「よく知っているのね。そのこと知っているの、今では島の出の人たちばかりだと思っていた。実は私はたまたま、赤髪碧眼になっただけで、血が濃いわけでもない」
珞はぎくりとした。“悪鬼”のことは城に居たときに民族や白澪の歴史について学んだ時に読んだ。それが市井には伝わってないとは、盲点だった。
「昔、本で読んだ。でも、血が濃いわけじゃないから、その瞳はいろんな翠が混じっているんだな」
「ふうん」と翠は興味なさそうに呟いた。無表情であるために、余計興味がなさそうに見えた。
「さて、もう行くか。もうすぐ夜も明ける。明日からは、いろいろやることがあるからな。俺は今日の見回りの係だから、もうちょっとここにいるけどな」
「確かに明日から大変そう。私はあの…師?たちは皆怖そうだった」
「師は強いものは強くしてくれる。あの人たちは、剣奴の中でも勝てるものがいなくて、異国の猛獣も倒してきた人らだ。特に大師は段違いだよ。まずは学術からだから、剣術はもう少し後になるけど。たぶん、俺や三太と混じることになるから楽しみにしていなよ」
翠はぎこちなく口角や目元を動かそうとして喜びを表そうとしているのがわかったが、それができないと断念すると、嬉しそうに首を縦に何度も振り、手を振って宿舎の方に戻っていった。
記憶の中の母の瞳に、先程の翠の瞳が重なる。表情のない顔とは違い、瞳は言葉に合わせて表情を変えていた。母と似ているからではない。今日、新参者たちがやってくるとき、目を奪われた。彼女の声、癒しの力を持つような言葉、表情の変わる瞳に惹かれているのがわかった。
「嘘だろう……そんなの許されない」
珞は弐ノ皇子だ。弐ノ皇子は六年前から御嶽に籠っているという噂を耳にしたことがある。それは朝廷側が民を安心させるためにでっち上げた嘘に違いない。いつか、父か兄が自分を見つけて、城に戻るのであろうか。想像ができなかった。
珞はもっと広い世界が見たい。城に居たときは市井の様子なんて知らなかった。自身が売られる時は、あの時の老婆を恨んだが、今は違う。ここに来なければ、知らなかったに違いない。。剣奴がただの剣奴を養成するのではなく、困窮する家の子どもらが将来身を立てられるよう、育成する場所の役割を担っていることを。
そんなことはきっと城にいれば、書面や巡行などの表面上でしかわからないことだ。もっと広い世界を見れば、人生にとってもとても良いことになるのではないだろうか。しかし、果たして、それが許されるのかと、珞は苦しい思いをしていた。
『無理だな。今のところ、九割九分無理だろう』
頭の中に響く、白香神の声に珞は眉を顰める。
「出てくるなよ。あと心読むな」
『私はそなたで、そなたは私だ。鱗がだんだんと肌馴染みよくなっているだろう?成人までには鱗はそなたに完全に取り込まれるぞ』
白香神は時折出てきては余計なことを珞に吹き込んでくる。
十六の成人を迎えたら、完全に鱗は珞の体と馴染むのだそうだ。そして、祖父が崩御した後、国王となった父の後を継ぐ皇太子にならなければならない。十六まであと五年……その間に何ができるか。皇太子になれば、自由はきかなくなり、好いた女を御内原に挙げれば殺される。そんな危険を翠にはさせたくなかった、とここまで考えて、珞は根本的な問題に気が付いた。
「そもそも翠に好かれるにはどうしたらいいんだ」
ひとりごちる間に朝日が宿舎を囲む林から垣間見え、自分の見回りの時間が終わることを認識する。扉を開ける石を大師に返さねばならない。




