5:心の灯
清らかな雨水の音で子珞は目を覚ました。
確か町を出て、この数日は生ごみを漁り、そのたびに烏につつかれながら、歩いてきた気がする。どこまで歩いてきただろう。今はどこかの山にいる。数日、泥水しか飲んでいない気がした。彼はただ、清らかな水が欲しかった。葉に溜まっていた雨水を飲み干すと、久々の清水に喉が清められた。
「母上」
町で治ったはずの足の皮膚は既に破け、革靴の中を血で濡らしていた。しかし、子珞にとってそんなことはどうでもよかった。
彼は今、猛烈に腹が痛い。数度、既に下しているのだ。産まれたときから、清潔な食べ物を食べていた子珞にとって、生ごみは食べ物ではなかった。変なにおいが若干する握り飯、熟れすぎて虫が食いつぶしかけている蕉子など。だが、それらを食べなければ、自分は生きていけない。今更、城に帰っても、逆に命を狙われるだけであると彼は考えていた。
「僕はどうしたらよいのですか」
死んだ波蘭から拝借した母の形見は、文と髪、以前屋台で買った絵札、そして小さな水晶玉だった。
「なんだこれ」
水晶玉のことについては母から聞いていなかった。だが、重要なものなのだろう。彼は母からの文を開けた。それは古代白澪語で書かれていた。難しい古代白澪語は現代の白澪人には読めない。学ぶのは、皇族、中央の御嶽で祈る神女、地方で祈る神官や祝女くらいだろう。その古代白澪語を物心ついた時から、子珞は母から毎日教育を受けてきた。
子珞は手紙を目を移した。
この文を読んでいるということは、母は死に、貴方は城以外の場所でさまよい歩いているのでしょう。母を殺した者たちが憎いでしょうが、憎んではいけません。憎しみは連鎖し、自分に跳ね返ってきます。すべてを許せとは言いませんが、自らの運命だと考えるのです。母は神女になる前は、元々白継島の御子でした。白香神を信仰している島です。本島から南の方角にあります。困ったら、白継島の香月という神官を訪ねなさい。助けになってくれるでしょう。
子珞、貴方の名前は父上の子であり、龍神であった澪蕭神の子孫であるという意味の皇族のみが名乗れる「子」と、玉を繋いだ首飾りの「瓔珞」のように人々を繋いでいってほしいという思いが込められています。
何が起ころうとも、自分が何者かであることを決して忘れないで。今後どんな苦悩があろうとも、貴方は神が守ってくださっています。母もいつも貴方のそばに居ます。どのような道に進もうとも、母は貴方の味方です。
水晶玉は《先見玉》というものです。母が生まれ故郷から持ってきました。貴方が愛する者に手渡すその時まで、なくそうが盗まれようが手元に戻ってきます。便利な代物でしょう。
父上は貴方を探します。貴方が国継ぎの皇子だからではありません。貴方が私たちの愛すべき子だからです。もし、貴方が城に戻りたかったら、その選択をなさい。ですが、これからの人生、違う道を選びたい場合も出てくるかもしれません。その選択をするときは何かを犠牲にする必要があるかもしれません。それは覚悟しておきなさい。
生活が落ち着いて、自分で自分の人生が決められるようになった暁には、父上にお会いするかどうか考えなさい。
最後に。子珞、愛しています。貴方は父と母が愛し合って産まれた、宝玉です。どのような状況になろうとも誇り高く生きなさい。命を大切に、体を大切になさいね。
子珞は零れそうになる涙を腕で拭き、文を小さくたたんで、巾着の中にしまった。もう自分しかいないのだ。頼れる者は誰一人としていない。巾着は誰かにも取られないように下着の中に隠す。刀は背負った。
「南なのか。白継島というところは」
南にある喜矢武岬まで四里だ。町を通っていかなければならない。
しかしながら、今いるところがどこかという話なのだ。
「とりあえず、山を下ってから、南がどちらか決めよう」
子珞は下山を目指した。
今は朝方、どれくらいの時分かわからないが、おおよそ予想がつく。日は東から昇り、西に沈むのである。
「南は山の上じゃないか…」
南側の山に登ってしまったようだ。西から進んで海岸沿いを通っていくのが一番良いだろう。これから、西側に日は沈んでいく。このまま西に歩いていけばいい。
どこまで歩いただろうか。全くわからない。続く山々に獣道だ。
「くっそう。どれだけ進めばいいんだよ」
つい弱音がでる。彼はまだ五つの幼子なのだ。誰がこんな山奥のところで、足を血で濡らしながら歩いているというのだろう。
思わず嗚咽が漏れる。涙も出てきた。涙が出ると、疲れるというのに。
日が暮れ始めた。まずい。夜は獣も出て動くのが難しくなるのだ。子珞は小さい足で、西に向かって駆け出した。日は暮れているが、木々の隙間が広くなっている。外が近い証拠だ。
そして、山が開けた。村があった。その一軒に走っていく。
「こんばんは」
中から出てきたのは優しそうな老婆だった。
「あれまあ……」
「どうか寝床と水を恵んでください」
老婆は何か事情を察したのか、子珞を家に上げ、湯船や夕飯を用意した。
「迷子かね」
「ええ、南の方の親戚を訪ねる予定が、間違って山を登ってしまって」
子珞は湯船に浸かるときに背が見えないように気をつけ、形見の入った袋と刀は傍に置くようにした。しかし、老婆は何も気にすることなく、新しい着物や下着を出してくれた。ごわごわとした木綿の着物はこの数日着ていたものに似ていた。
「小さいお子さんがいらっしゃったんですか?」
「あぁ、孫の着物だよ。隣の村に住んでいるからね」
「そうなのですね」
眠い。この数日の疲れが出たか。老婆が片づけをしているときに、袋を下着に挟み込む。子珞は刀は抱いて、眠りについた。
子珞は夢を見ていた。大きくなった自分が、兄や父、母に認められて、軍の大将になっている夢だ。幸せな夢だった。
彼は何かの気配を感じ、薄く目を開けた。
老婆が大柄な男に金をもらっているところだった。
「服を変えていても誤魔化せまいよ。いいところの貴族の子どもだからね。高くしといてくれよ。たまたま迷い込んだんだ」
「それもこの坊主の運命ってところだろうな」
何か悪いことが起こっていることは分かった。
「ごめんねえ。私たちも生きていかなければならないんだよ」
老婆の声が子珞の方に向けられる。恐らく、何者かに売られたのだ。
「何いつまでも寝てんだよっ」
大きな声と共に腹に鈍い痛みが走る。男に蹴られた。子珞はよろりと立ち上がった。
「騙したんだな」腹の底から鈍い声が聞こえた。
「仕方なかったんだ。生活がかかっているんだよ」
誰かを騙すために優しくするなんてものは初めてだった。自分が最悪の状況にあることにも気づいた。大男は子珞の首根っこをむんずと掴み、柱に向かって放り投げた。
柱に打ち付けられたとき、内臓が揺れ、吐き気を催した。
「残念だったな坊主。お前は今から剣奴になるために島に送られるんだ」
絶望的だった。
剣奴とは、その名の通り、剣を使って娯楽のために戦う奴隷のことである。奴隷制度が廃止された白澪においても、庶民の娯楽のために剣奴だけは廃止できていなかった。
剣奴から選抜されて宮廷入りする者もいるため、国全体の問題としてなくしては立ちいかなくなるものであった。しかし、剣奴からそのように出世するのはごく一部であり、特に幼いうちに剣奴になった者は死に絶えるといわれている。それほどまでに剣奴の養成所は厳しい。また、剣奴になってからもいつ死ぬかわからない生業であった。
「剣奴になんて、俺はならない!」
吐き捨てるように子珞が言うと、大男は目を吊り上げた。
「もう買い上げたんだ。お前に拒否権はない!」
大男は子珞の刀を奪い取ろうとした。しかし、鞘は子珞の身体に磁石のようにぴったりと吸い付いたように離れなかった。
「ちぃっ、刀はいいもんだが。離れやしない。長物はいるから、お前はその刀でいいな。……おい小僧、名は?」
子珞は考えた。名前に「子」が付けられるのは皇族の象徴だと、母の手紙には書いてあった。ここで皇族の人間とばれるわけにはいかないと本能で察していた。
「……珞」
「珞、か。大層な名前持っているな。そんじゃあ珞、自由になれる方法を教えてやろうか」
剣奴が自由になれる方法? 皇族や士族・按司などに買われる以外にあるのか?
子珞、いや珞は眉を寄せた。大男はにやりと嗤う。欠けた前歯が見えた。
「買われた金の分の賞金を自分で貯めるんだ。ただし、剣奴としてお披露目するまでの生活費諸々は借金として積まれる。珞、お前は五歳で六金で買い取った。大体、十二の歳でお披露目する奴が多いから、七年分の金が積まれる。生き残っていれば、二十五には完済できるわな。勝ち残っていればな」
珞は「死ぬわけにはいかないんだ。約束したんだ」と呟いた。
自分に憑いている神、白香神との約束だ。死ぬわけにはいかない。それに、そのお披露目が早ければ良い話ではないか。もうこの契約は成されてしまった。そのために、自分は早く自由の身になることを考えなければならない。彼は、売人を睨み付けた。
「わかった。島に行く。でも、俺は生き残る」
何があっても生き残ってみせる。そして、自由を取り戻す。
子珞の胸に小さな灯が宿った。