2:弟皇子への想い
「私が国を治めると国が荒れる。だからこそ、子珞は絶対殺されてはならない。このままだと、子珞は母が雇った霧に殺されるでしょう。彼らは雇い主が死ねば、契約不履行として、契約自体を処分するそうです。父上、母上に国母を殺した罪に値する刑を」
子穂は渇いた口腔を潤そうと唾を飲み込もうとした。しかし、口の中は渇ききっていた。
「証拠は?」
「母上の行動はすべて紙にまとめてあります。狭良様のお返事も一緒に挟んであります。こちらです」
袂に入れられていた五冊の手帖を手渡される。びっしりと書き連ねられた母の行動、母がの言葉、不審な行動、侍女らの噂等々が書き連ねてある。
子穂は我が息子ながら、その緻密さに背筋が凍った。
「父上の許しを得てから、母上と絶縁しようと思います」
彼は眉一つ動かさなかった。だが、その瞳には誰にも侵せない強い光があった。
「夏家の娘に裁きを下せば、どうなるかわかっているだろう?」と子穂は子孝に確認した。
「夏家は近頃脱税しているとの噂がございました。父上なら既に尻尾を掴んでいるのではないですか」
子穂はこの少年は誰の息子なのか、と恐ろしい存在に思えた。彼は本当に八歳なのであろうか、子穂が同年の頃は遊びにうつつを抜かしていた頃ではなかっただろうか。
子孝は恐ろしく鋭い観察眼を持っている。確かにその情報は入っている。全国に散る耳公・目公がその情報を入手していた。
「ところで、なぜ子珞が"国継ぎの皇子"だと知っているのだ?」
子穂の言葉に子孝は顔をあげた。
「思い出話となりますが」と言葉を添えた。
子孝は幼いころから、表情を殺すのが上手い子どもであった。ヒステリックに怒鳴り散らす母親の夏玉麗を横目に庭先で木刀をふるい、部屋では書物を読んだ。幼い頃、父や祖父から、木刀を構えるにしても、勉学に励むにしても「自由にしてよい」と言われたことがある。
皇族にとっての自由とはなんなのであろう、と自然に考えるのに時間はかからなかった。
子孝にとって、皇子である自分の自由などこの世に存在すべきものではないと考えていた。父の子穂にとって自分は長子である。長子である自分がいつか父に次いで王となり、国を統治していくのだと考えていた。そして、母親もそう毎日叫んでいた。
いや、果たして本当にそうなのか、と父と祖父の言葉に引っかかりを覚えた。
子孝は八歳でありながら、聡い皇子であった。
何百年と続く白澪の家系図を隅から隅まで調べ上げた。そしてある事実に気が付いた。長子の継承が続いているのは近く四代のみ。それ以前は第三子、第五子が王の座についたこともある。他の皇子たちは報奨金を与えられ、一代限りの位に就いているのだ。彼は長子ではない何かが次代の王を決めることになっており、そして悲しいかな、自分にはそれがないことにも気づいた。
それを確信できたのが、唯一の弟である子珞の誕生である。玉麗の執拗な嫌がらせから御内原より去り、参ノ妻狭良と子珞は離宮へと居宅を移した。その発端は子孝が一番最初に発した言葉「悪鬼」であると乳母から聞いている。
折檻に疲れた母の目を盗み、離宮へ忍び込んだ時、狭良は何も聞かず、出迎えてくれた。その優しさにただ涙した。その涙は、子孝自身を受け入れてくれた存在に気づけたことなのか、家族の暖かさに触れたためだったのか、その両方であったと彼は考えていた。
また、子珞の遊びに使えるようにと、小刀で作った小さな龍の木像もすぐに子珞に与えてくれた。暖かい家族という輪の中に自分も入ることができた気がした。
しばらくしたのち、子珞を抱きあげたとき、産着の端からちらりと何か変なものが見えた。魚の鱗のようなものであった。その時、狭良は乳母に用事を伝えに行っており、一時の子守を子孝に任せていた。
誰もいない部屋の中で、子珞の背に見えた鱗のようなものが気になった。その時、運よく、便臭がした。普段から離宮に遊びに来た時は子珞の便の後始末をさせられており、便の処置はお手のものである。彼は迷いながらも、おしめを変える際、子珞の背中にそっと手を滑らせた。そこには背中一面が鱗で覆われていた。
「やはり」と、子孝は独り呟いた。
白澪の国神は龍神であり、初代国王である。その龍の血を継ぐ者が後継者となりうる。そのためには、この鱗を持つものが王となるのだ。
子孝はただの白髪赤眼の“祝福の子”であり、勉学に励もうが、剣術に励もうが、王にはなれぬ存在であった。
「ならば」と子孝は子珞を見つめた。子珞は見つめているのが兄だとわかるかのように見つめ返してくる。
「兄は国の安寧を保てるよう、お前を全力で守り抜く」
彼の脳裏には、必ずこの母子を殺しにやってくる自らの母親の姿があった。
「これが、私の思い出でございます。聞いてくださり、誠にありがとうございます」
再び最敬礼をすると、父は予想通りのことを子孝に伝えた。
「御内原を垣間見なかったために、そなたに苦しい思いをさせていたこと、申し訳なかった」
子孝は悲しそうに笑み、子穂を見つめた。
「大丈夫ですよ。私は狭良様に出会い、救われた。きっと父上と同じでしょう。それに折檻を受けていたのは私だけです。壱ノ媛 照子、弐ノ媛 綾子ともに母君の教育方針で育てられています。二人とも、夫人によく似て、文と武に秀でています。今後とも、彼女らは陛下や父上、子珞の役に立つでしょう」
子珞の行方は未だにわかっていない。油断は禁物だ。子珞が父の後を継ぐ以上、子珞が宮廷に不在である状態は国が不安定になりうる。そしてなんといっても、その安否が気になった。兄として、成長を見守る中で子孝は子珞を強い絆で結ばれた家族だと思っていた。その子珞が五歳の幼さで行方不明になるのは異常である。子珞がこの世からいなくなったら、どのような災いが国を襲うか、と子孝は考えてた。
父の書斎から廊下に出る。代わりに葵ゐが呼ばれる声がする。
「子珞、無事でいてくれよ」と彼は呟いた。