7:涙
「『そなたが私を呼んだ御子か』」
狭良は舞うのを止めた。目の前に立つのは息子ではなく、偉大なる白香神なのだ。咄嗟に最高礼を取れば、彼女は頬を赤くして言った。
「今は子珞の母でございます。狭良と申します」
『またまた良き器を産んでくれたものだ。そなたもまさか自分の息子が私に憑かれているとは思っていなかったろう?』
子珞、いや白香神は妖艶な笑みを浮かべた。
「はい、驚きました」
素直に述べれば、子珞の顔をした白香神はニンマリと笑った。
『それで? お前が頼みたいことはなんだ。頼みがあるから、呼んだのだろう?』
すべてお見通しだった。もう御子ではない、一介の女が頼んでよいことではないのだ。そんなことは彼女は百も承知の上である。狭良が頼みたいことはただ一つだった。
「今夜、霧が来るでしょう。私はこの子を波蘭と共に逃がします。私の命と引き換えに子珞を生かすと約束して下さいませんか」
『霧』狭良の頼みには返事をせず、白香神は怪訝な顔をした。
『何故、奴らの名が出てくる? お前の先見の能力は歴代の御子たちの中でも群を抜いていたから本当に奴らは来るのだろうが、奴らに狙われることをお前はしたのか?』
「なぜか、壱ノ夫人のお怒りを買ってしまいましてね。入内してからろくなことがありませんでした。この離宮に住み始めたのも、元はと言えば白粉に毒が仕込んであったことが始まりでしたし。ですが、離宮に移動してきても、謎の毒が仕込まれてしまい、近々死んでしまう呼ばれる予定なのです。私、死相が出ているでしょう?久々に先見をしてみたら、霧が来るなんてことを知りました。嫌ですね、自分たちが殺しの対象になるというのも」
『逃がすとなるとそなた、死ぬ気か』
白香神の問いに狭良は微笑んだ。
「言わずともいつか知れること。私は自らが成したことに後悔はしない主義でして。最後に子穂にも会えましたし」
白香神は黙った。しかしすぐに返事をする。
『いいだろう。だが、私の加護をもってしても、霧の追跡から逃れることはできぬ。奴らは依頼主が死ぬまで命を狙ってくる組織だからな』
彼らは目標を狙い続け、その命を奪うまで、その依頼を遂行する。
「付け焼き刃だということはわかっております」
狭良は眉を寄せ、言う。白香神はため息を吐いた。
『ならば良い』
彼は瞳を閉じた。張り詰めた空気が緩む。二重に結界が張られていたのだ。狭良が張った結界よりも、何倍も強い結界。
子珞の中で、白香神の意識が溶けていき、子珞が目覚めていくのが狭良にも見て取れた。
「母上? なにか、あるのですか?」
険しい狭良の顔を見て、子珞は問いかけた。狭良はしばらく考え込むと、静かにその言葉を口にした。
「私を置いて、波蘭と逃げなさい」
子珞の顔が一気に青ざめた。
「どういうことですか、ちゃんと説明してください!」
焦燥に満ちた表情をして、彼は彼女に詰め寄った。狭良の瞳は静かであった。
「説明は…波蘭から聞きなさい」
子珞が何か言い返そうとしたその瞬間、その首に手刀が叩きこまれた。段々と暗くなっていく意識の中で、彼が見た最期の母は涙をこぼしていた。
「ありがとう、波蘭」
狭良は服の袖で涙を拭うと、崩れ落ちた子珞を支える波蘭に礼を言った。波蘭は静かに問いただす。
「後悔しないのですか? このままじゃ、この子は罪悪感にまみれて生きることになります。母の身体のこと、私たちに起こっていたこと、全てを気付けなかった自分の無力さに。それでも良いのですか?」
よくない、と彼女は心の中ではわかっていた。できることなら、ずっと子珞のそばにいてやりたい。だが、それができないことも理解している。
「今朝、吐血したの」
その言葉に波蘭が息をのんだ。
「持ちこたえて三日くらいだと思うわ。遅効性の毒なら、吐血した時点で死期が近いってことだと思う。死ぬ姿は子穂には見せたくない。もちろん、子珞にも貴女にもね。それに、霧たちが狙って来るわ。奴らは今夜必ず来る。だから、逃げて。私は屋敷に火を放つわ」
狭良の考えは当たっていた。彼女は知らなかったが、この毒は吐血してからの方が毒の回りは速い。眠るように死んでいけるが、死んだ後は腐るのも早いものであった。
波蘭はもう何も言わなかった。黙ったまま、小さく頷く。
「子珞には、眠り香を嗅いでおかせて。文と髪を後で持たせるわ。あと、以前、祭の出店で描いてもらった絵札も」
そして、波蘭には言えないが先見玉も一緒に入っている。
「わかりました。ご命令に従います」
波蘭の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「ありがとう、最期まで迷惑かけちゃって、ごめんね」
狭良の言葉に波蘭は首を横に振った。そして二人はそれぞれ最後の準備に取り掛かった。