6:守り刀と神降ろしの舞
狭良は来るときに向けて準備を始めた。
彼女は白継島という小さな孤島の出身である。白継島はその名の通り、白香神が直轄で守っている“守護地”であった。彼が初めて支配下に置いた島として知られている。そのため白香神信仰が非常に強く、白継島で生まれた子供は幼い頃より、“神の使徒”として神殿で育てられる。
小さな島ではあったが、本土からの往来も多く、血が濃くなることはなかった。子ども達は神殿で、「神鎮めの舞」という踊りを教えられ、古代文字も読めるよう指導される。神鎮めの舞は、祭や歌垣などや祭祀などで舞われる。白香神ならびに国神含む他の神々に捧げられる舞のことだ。
子ども達の中には時折、見目麗しく、覚えの良い子が生まれることがある。その子供は“白香神の御子”と呼ばれ、特に重宝された。その子らは、神鎮めの舞とは別に「神降ろし」という舞を教えられる。神鎮めの舞が二人舞であるのとは違い、神降ろしは男女の舞である。神事で、神に降臨してほしいと祈願する舞だ。もし神がそれに応じれば、白香神の御子や使徒のみ、その姿を見ることができる。
狭良が白継島の神殿に住まう御子から、御嶽の神女になったのは必然だった。中央の御嶽の神女は二十年に一度、半分ずつの入れ替えがあり、守護地の神殿や御嶽から集められる。新しく迎えられる神女は主に十から十二の生娘で、二十五には中央の御嶽を出される。
その日、狭良は泉で禊をしていた。それを見かけて、選んだのが以前の上司である真壁大むしあられである。濡れた薄衣を身に纏った姿は御子の名に相応しかった、と大むしあられが他の大むしあられに伝えていたほどである。
当時、白香神の御子は狭良の他にもう一人いた。香月という少年である。神官や祝女たちは、香月がいることをいいことに狭良の御嶽行きを承認した。あの時は香月を恨んだが、神女になって良かったと思う。神女になったから、外の世界を見られた。香月もそのままいけば、神殿の神官になっていることだろう。
島を出るときに、狭良は自分の守刀を持って来ていた。御子に選ばれた際に、神殿の泉から取り出した。自分に残された時間を考えると、守刀を子珞に託す必要があった。
狭良は子穂から刀を託されたと嘘をつき、子珞を呼び出した。彼はすぐにやってきた。微笑ましく思える。
「母上!」
子珞は上がった息を整えながら、狭良の部屋に入った。
「子珞です」
狭良は椅子に座ったまま儚げに微笑む。以前は波蘭のように屈託なく笑う人だったのに、今にも霧のように散ってしまいそうな笑顔を子珞に向けていた。
「子珞、いいところに来たわね。父上から預かり物があるのよ」
狭良は指で持っていた細い針を針山に刺すと、手招きした。子珞は彼女の方へ歩いていき、狭良の前で膝を折った。そうした彼の頭を優しげに撫でる。子珞は狭良の膝に頭を埋めた。
「父上が僕に、ですか」
胸を高鳴らせながら、子珞は怖ず怖ずと訊いた。
「少しそこにいてね」
狭良は立ち上がると、自分の寝台に置かれているそれを持って彼の下へ戻る。
「長刀ですか」
それは黒い刀だった。闇色の、すべてが染まるようなその色は、白香神のようであった。子珞の腕にはだいぶ重かったが、持てないわけではない。彼はその刀を抜いた。狭良が息を飲んだ。子珞がそちらを見ると、彼女は深刻な顔をする。
「子珞の憑き神は」
今度は子珞が驚く番だった。
「母上、何故それを?」
狭良は何も言わない。彼も押し黙り、母の言葉を待つ。
「子珞、その刀を持って庭に出なさい」
彼は言う通りにした。
「子珞、そこに立って」と狭良は庭の一角を指し示した。
あの刀は子穂が置いていったものではない。狭良の守刀である。先程子珞が守刀を手にした時、あれの波動が大きくなった。
この国の国王がその身に神を宿していることは、当時神官たちが自分と香月にのみ教えた。もしかしたら子珞に宿っているのは白香神なのかもしれない、そう思った。
子珞は何も分からず、示された場所に立つ。
「子珞、今から私が行う唄や舞は覚えておきなさい。一度しかやらないから」
昔覚えた唄が口から流れ出る。それは古代白澪語であり、白香神を恋う唄。俗に『香恋歌』と呼ばれる。遙か太古の昔、白香神は人間の娘と愛し合ったから。
貴方の心はわたし一人を
愛してくれないでしょうけど、
わたしはいつでも 貴方のことを
心よりお慕いしております
闇を下す我が君は
まるで鴉を従えているよう
御存知ですか
鴉は時に儚げで 時に美しく 時に冷たい
まるで貴方様のようでございますね
闇を愛する貴方は
以前わたしにこう仰いました
「お前はまるで私の月だ。
明るく照らして私の指標になってくれ」と
わたしは貴方の月になれましたでしょうか
あぁ、わたしも神として生まれたかった
これほど人の身であることを呪ったのは
生まれて初めてです
日に日に老いてゆく私の隣には
出逢った頃と同じ姿の貴方がいる
わたしも出逢った頃のままでいたい
姫神にならせていただける程
わたしは善い人ではなかったように思う
次に生まれ落ちるならば
貴方の隣に立つ女神がいい
それまで待っていていただけますかーー
空気がざわりとよどめいた。子珞は唄いながら舞う母の姿をじっと見つめていた。その姿は一度見ただけでまぶたの裏に焼き付くほど、感慨深いものであり、言いつけ通りしっかりと脳裏に焼き付けた。
シャラン シャラン シャランラン
規則正しい鈴の音が聞こえ、それが母の足首についている鈴だとわかった。紅い紐で結んであるそれを彼女は外したことがなかった。だが、その音を耳にしたことは一度たりともない。
狭良は唄い終えてもなお、舞い続けていた。その舞と鈴の音を聴いていると、だんだん眠くなっていく。その代わりに自分の奥から、何か別の存在が這い出してくるのを感じた。
子珞を取り巻く気が鋭いものへと変わった。