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令和2年の蜘蛛の糸

作者: 高岡たかを



 社会の底辺に座り込み、うつむいて手元のスマートフォンばかりを見ていた。

明かりと言えばスマートフォンが放つ青い四角い光だけだ。それが数百もの数が集まりボクらの血色の悪い顔を照らしていた。

 そう。『ボクら』だ。

 ボクによく似た人々が集まって、さながら冬の寒さに耐えるために木の洞に集まった虫のようになっていた。妙な安心感と連帯感が細い糸になってボクらを一繋ぎにしているが、身を寄せ合うとは少し違っている。

 お互いの存在を体温として気にしつつも、けして触れ合うことのない距離感というものをボクたちはわきまえていた。

 会話はない。誰も彼も真一文字に結んだ口を開けることはない。スマホの中では饒舌でも、現実のボクたちはこんなものだ。耳にするのは誰かの咳と鼻をすする音。そして肩と肩の間をすり抜けていく冷たい風の音くらいだった。

 そんなボクたちだったが、誰もが周りの奴らと自分は一味違う、一緒になんてしてくれるな、なんて思っているのだから悪い冗談みたいだった。

 地面に尻をへばりつかせてからもう何年経ったかなんて覚えちゃいないけれど、少しでも高いところから見下ろせば、ボクらなんて黒い塊にしか見えないだろう。ボクがそう思ったのだ。きっと周りの連中だって内心シニカルを気取って同じようなことを考えているのに違いなかった。



 ボクたちはずっとその場所にいた。

 岩かなにか、そういったオブジェクトのように。

 以前まではこことは違う場所にいたような気がしないでもないが、思い出そうとするだけで胸の奥が傷む。だからそれ以上は考えない。

 考えても仕方のないこと。

 割り切れない事を痛み出す前の胸の奥にしまい込んで割り切ったふりをするのは重要なことだった。

 SNSに書き込まなければ、どんなことでも起きていないのと一緒なのだから。

 まるで息を止めているかのような日々。

 不平や不満はネットの中にぶちまけて、現実では常識的な大人の顔をしてみせる。義務教育で学んだ大事なことだ。

 そんな日々を過ごしている。

 もう体のどこが腐っているのかも分からない。この身が完全に風化しきるまで、同じ一日は繰り返されるのだろう。そう思っていた。


◆◆◆


 ある日のことだった。

 どこかの誰かのタイムラインにうっかり引っかかってしまわぬよう、人に不快に思われないよう、精一杯気を使ったツイートで生存報告をしようとしていると、光る画面の片隅に反射する何かを見つけてしまった。

 細い細い蜘蛛の糸だ。

 それははるか頭上の彼方、天の果てから降ろされているように思えた。

灰色の空と鈍色の雲を背景にして、蜘蛛の糸はわずかなキレイな光だけを集めて照り返しているようで、時々眩く輝いてみせる。

 それがとても綺麗だったから、思わず手を伸ばしてしまった。

 引っ張ってみれば心許ないながらも、糸は切れたりしなかった。

 もしかしたら、この糸を伝って上に登れるのではないか。

 そう思ってしまった。

 なにかが起きるのならば、もっと分かりやすいものが欲しかったのに。エレベーターや階段なんて記号的なものではなくても、せめてロープで。

 そうすれば。そうであったなら。

 お得意の言い回しで見なかったことにできたのに。

 逡巡はわずか。ボクは糸をよじ登ることにしてしまった。

 その様子を動画で撮って面白おかしく編集して公開すれば、ボクみたいなのでも少しは道化を演じられたのだろうが、あいにく、そんな気の回る奴はここにはいない。いるとしたらもう少し『上』だろう。

 正面にいた奴がボクを見ていた。

 近くにいる奴の動揺を異変と感じ取って顔を上げたのだろう。ボクたちは奇行をとろうとする人間の予兆に敏感だ。

 土気色の生気に乏しい肌。死んだ魚のような目がボクを見ている。ボクも同じような顔をしている。こんな近くで顔を合わせたのに、視線が重なることはない。

 口は小さく動いたが、声はかすれて聞こえない。それでも伝わる。「どうするんだ?」。多少ニュアンスは違うかもしれないが、同族間同士でなら何を考えているかはだいたい分かった。


 ――行ってみようと思う。


 声は出なかった。誰かと話をしようというのが久しぶりで、喉も唇も錆びついてしまっていた。

 ボクを止めてくれるのか。それとも笑われるか。

 ボクがこいつの立場ならどうするのだろう。

 決まっている。

 関わらないようにして、最初から見なかったことにする。


「そうか」


 短い返事があった。

 もう一人のボクはこれ以上言うことはないとばかりに下を向いた。元の状態に戻ったのだが、まるで何事も起きなかったかのようだった。

 糸を掴み、一度息を止めると力を込める。

 弱弱しい力だった。

自分で思っていたよりもボクの腕の力は弱かった。当たり前かもしれない。今まで自分自身を鍛えるようなことは何もしたことがなかったのだから。

こんなか細い腕で自分ひとりの重みを支えようとしているのか。

 正気とは思えない。やめておけ。悪いことになる。

 そう思うのに。

 心のどこかはそう警鐘を鳴らしているのに。

 蜘蛛の糸はひどく蠱惑的で、ボクの心を絡めとってしまっていた。

 甘い魅力に逆らえない。確かに警鐘を耳にしながらも、ボクの心はどこか凍り付いたように頑なで、自分の在り方を決めつけようとしていた。

そうしてボクは空に向かって登り始めた。

 異変に気付いた周囲の何人かがボクを見ていた。

 この地の底から這い出せる可能性を見ればボクのように誰かも糸を登ろうとするかもしれない。

 そうなったら、この糸は大丈夫なのだろうか。人の重みに耐えきれなくなって、あっけなく途切れてしまうのではないか。

 後に続こうとした誰かのせいで、ボクが落とされる。

 そんなのはダメだ。阻止しなければ。だけどどうやって?

 他人の蹴落とし方なんて習っていないから知らないのに。

 ボクの心配をよそに彼らは視線を少し上に向けただけですぐに興味を失い自分の世界に戻っていった。

 他人が興味を向けてくれないと、自分のやろうとしていることの正当性を確かめることもできないのだと初めて知った。

 周囲と異なることをしようとすることは、ボクにとって経験したことのない孤独なことだった。

吹き抜けていく風がより寒く感じた。少し登っただけでも、自分の体一つで風を受けなければならなくなったからだ。

 凍えぬためにも登るしかなかった。

 それでも己の胸の内熱を信じた。と言うよりも、そうとでも思わねば恐ろしくて身動き一つできなくなりそうだった。


◆◆◆


 いつの間にか時間は過ぎ、そのうちに地面が霞んで見えなくなった。

 こんなにも長い間頑張って登ったのだから、もう何かしかの天に手が届いても良さそうであるのに、まだなにも見えない。

 ボクの手は蜘蛛の糸を掴んで離せない。

 天は下から見上げた雲の向こうはまだずっと遠く、ボクの手は疲れと寒さで限界だった。

 最後の一線を支えるのは意地でも落下死への恐怖でもなかった。

 ボクが情けない悲鳴をあげながら落ちてしまえばボクの生涯は終わる。

 それは良い。仕方ない。

 問題は落下死という死に方がどうやっても誰かに迷惑をかけてしまうことだ。

 底にいて、今もうつむいてスマホを見つめている誰かの頭上にボクが落下してしまえば、その誰かを殺してしまうかもしれない。幸運に恵まれ誰にもぶつからなかったとしても、粉々になったボクの死体を一体どこの誰が片づけてくれるというのか。死んでしまっているボクにはどうしようもない。自己責任の範疇を越えている。

 死への恐怖よりも、死の後に迷惑をかけてしまうことがボクを怯えさせた。

 手はもう限界だけれども、自分から手を放すことはできない。「最後まで一応の努力をしたのだ」という姿勢を取り続ける必要があった。自分自身に対して。

 これ以上登ることはできない。

 降りることもできない。もう少しも動くことができない。

 身動きができなくなったボクは、いつしか糸に対して願うようになった。

 こんな状態のボクを見限って糸の方から自然と切れてくれないものか、と。

 そうすれば、楽になって死ねるのに。


 ボクは願うばかりで動けない。

 目指した高みよりは遥か下の場所で、元居た場所にも戻れぬまま。

 寒さと疲れに苦しめられながら、どうすることもできない。

 それでも糸は切れてくれないのだった。


  了


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