タマノのイチブ
これまで、ずっと言葉のある世界に生きてきた。もちろんその世界観について疑うこともなければ、その意味について深く掘り下げることもなかった。しかしながら、時々思うのだ。言葉のない世界で、私たちが幸福を見出せないというのは、果たして真実なのだろうかと。
乳児は、初めに言葉の存在を知らない。その分、すべての表現が過激で、私たちはその幼児が一体何を表現しようとしているのかについて、あらゆる情報を駆使しながら、読み取る必要がある。彼、もしくは彼女は、包まれている分言葉を知らなくても幸福を感じていると予想ができる。
言葉を覚えることで、伝える能力が広がり、他者とのコミュニケーションを円滑に進めることができる分、伝えるべきこと、伝えなくてもいいことや伝えたくても留めることの必要性、そして双方の差について学習が始まっていく。そして、他者を喜ばせることで自分が幸福感を得ることができるという段階まで到達したとたん、人はなぜか幸福から遠ざかっていく。
仮に、言葉がこの世界の現実を創造するとしたら、その対極にいる幼児や乳児において、この世界の願いなど無いに等しい。しかし、彼らは一番願いを叶えている存在と言える。言葉を知れば知るほどに、私たちはこの世界の真実から遠ざかっていく。
私がこの仮説にたどり着くと同時に知り合ったその人は、言葉のない世界に生きていた。その人は、言葉を話さない。言葉を知っているのか知らないのかも分からない。だが、その人が教えてくれることは私たちが知らないこと、というよりも忘れてしまったことについて確信をついているように思えてならない。
その人に会うために私は渋谷の駅前喫煙所で、足早にどこかに急ぐ人、誰かを待っている人、電話を介して怒りの言葉を空中にばらまいている人など、同じ時をばらばらに共有している人々を眺めながら考える。渋谷は嫌いな街だ。エネルギーが激しく渦巻いている。ストレートに人間の欲に応える街だから。
彼との学びは、どちらかといえば削ぐことに近い。私たちは、学びについて誤解している。知識のないところに、有ることを得ること。これが学びで、知っていることと知らないことの差は大きな違いとして扱われる。学びについて教えてほしいと、問いかけるならすぐにその先に何があるのかを切り返しされる。そこでなにも答えることが出来なければ、私はその問いについて教えてもらうことは叶わなくなる。
≪僕らが生きているこの世界は、すべてのものが音によって構成されていると思うわけ。だからこそ、音に僕らは左右されるし、音によって幸福すら左右される。とても悲しい言い方かもしれないけど、音が無くなることによって僕らは幸せを手に入れる≫
前回会った時に、彼が言っていたことだ。彼の名は、タマノという。厳密にいうと、彼は言葉を発することができないから、彼の言葉が文章に変換されたものに、そう書いてあった。もしもその言葉が音になるとしたら、それは途中で言葉を挟む余地のないほど、なめらかな物になるだろうと思った。しかし音が幸せを左右するという切り口を、私は聞いたことが無いし、そんなことは差別にも聞こえる。
タマノはいつも通り、車いすに座り、執事に押されながらやってきた。
「いつもすみません」私は執事に頭を下げる。
「いえ、彼もあなたに会うのが楽しみのようで」執事は、タマノを見る。タマノは口角を上げて笑っている。その笑いがとても機械的に感じるのはいつものことだ。タマノと直接話すことは出来ないが、私はいつものようにかがみ、タマノに挨拶をした。
タマノと後部座席に座り、車は発進する。10分程車で走るとタマノの家だ。豪邸というのはこういう家だと、誰にでも分かるような豪勢な門を抜けてロータリーに車は停車する。私は先に降り、執事がタマノを車いすに移乗するのを見ている。これもいつもの流れだ。
「先にお部屋にどうぞ」執事は、私の回答をまたずにスロープを上がって家に上がっていった。
私は、しばらくロータリーから庭を眺めて、桜の花が少しだけ咲いているのを見て、季節が春になろうとしているのを感じる。桜、春。それを知っているから気分の高揚があるのか、気分の高揚を言葉にした結果がこの世界なのか。
私は、前回の振り返りの前に、玄関で感じた疑問をタマノにぶつける。
タマノは、言葉を探すように止まる。
≪本当の世界は、音のある世界と、音のない世界の両方を指している≫
≪僕は、言葉なんて知らないし、形あるものを見たこともない。すべては頭の中で予測されるもので、実際に物に触れたときに自分の中の、創造と創造ではないものに差があることを常に確認しなくてはいけない。君たちはその作業がとても当たり前のものだと思っている≫
私は、タマノの肩に触れて、自分が今から返事をすることを伝えた。そして、ソフトに言葉を入力していく。すると、カタカタと音を立てながら、私が入力した言葉がモニター上に出てくる。
タマノは、モニターに文字が映しだされるたびに、小さく頷いたり、首を振ったりする。
≪君は自分という言葉に押しつぶされそうなのかもしれないね≫
モニター上に、文字が並んでいく。
≪その問いについて答えを出すことはできないけど、代わりにいえるのは、言葉なんて無くしたほうが幸せかもしれないということ。たとえば、僕の脳波は言葉を知らないけど、変換ソフトが日本語のボキャブラリーを更新していくから、どんな新しい言葉も知っていることになるし、だれに対しても回答ができる。でもそれは、逆に言えば何も知らないということになる。あるのは、そういう気持ちという脳波だけだからね≫
そこまで映し出した後、モニターの電源が急に落ちた。モニターが落ちると、僕はタマノとのコミュニケーション手段を絶たれてしまい、彼が思っていることを確認することはできなくなる。
私は、コールボタンを押す。
電子音が数秒なって止まるとすぐに、扉がノックされる。
「どうされましたか?」執事が入ってくる。私とタマノの顔を交互に見て、状況を察知しモニターの後ろに歩いていき、ついているコードに手を触れる。
「モニターの電源が落ちてしまって」私は執事にコードを指さしながら言う。執事は、しゃがみ込んでコードと機械の繋がっている事を確認する。タマノは、何度かまばたきをしてにっこりと微笑む。その微笑が何を指しているのか、モニターは真っ暗で文字は表示されない。だから何を表現しているのかが分からない。
「コードは繋がっているので、電源は入っていますね。これはソフトウェアの問題でしょう。再起動しないとダメみたいです」執事は、ベッドの下にある黒いボックスの電源を長めに押して立ち上がる。
再起動すると、モニターは何度か黒くなったり白くなったりを繰り返しいつもの画面に戻った。
「宜しくお願いします。なにか追加でお飲み物をお持ちしましょうか?」執事は、私の空いたコーヒーカップを見ながら言う。
「有り難うございます。では、コーヒーのおかわりを」
「分かりました」執事は一礼すると出て行った。
私がモニターを見ると、すでにタマノがモニターに言葉を映し出していた。
≪コミュニケーションって難しいよね。そうだ前回の振り返りがまだだったけど≫
「今日は前回の振り返りは無しにしてもいい?」私は、ソフトに返信した。
≪あはは≫
モニターに三文字だけ表示される。でもタマノの表情は決して笑っていない。
扉がノックされ、執事がコーヒーのお代わりを持って、入ってきた。空いたカップとソーサーをお盆に乗せ、新しいコーヒーと入れ替えた。帰り際に、「あ、そうでした」と言い、振り返ると私に向かって言う。
「本日のメンテナンス少しだけ早まるそうで、残りのお時間が早まってしまうかもしれません」
私は、頭を軽く下げると、大丈夫ですと言ってタマノを見た。
タマノは私が頭を下げた仕草を真似て、頭を軽く下げる。
執事はその様子を見ると少しだけ笑い、静かに部屋を出て行った。
≪言葉って、曖昧だと思う。だって、今の僕は考えていることと、表現したことが全く違っていた≫
モニターには長々と文章が映し出されていく。私はさっきの頭を下げたことを言っているのかと思い聞く。
「私の真似をしたこと?」
≪いや、あははと言いながら、気持ちは全然笑っていなかったこと。みんなよくやるよね?≫
「全く違ったの?なるほど。私は、タマノの映し出された言葉でしか、タマノを知ることができないから。そう言ってくれて嬉しい反面悲しい。……なんてね。でもそれは、人間なら当たり前じゃないかな」私は、返す言葉が見当たらずに、とても使い古された言葉を入力する。
≪確かに、当たり前かもしれない。でも、そうだとして、そんな世界に生きている人にとって何が本当のことか分からない人が多いということにならないかな?≫
タマノが放つ言葉は、文字列だから、怒り、悲しみがわかるわけもなく、顔の表情は基本的に笑顔だから、余計に混乱する。
「だから、数年前に自分探しが流行ったともいえる」私はタマノに言う。
私は、タマノの返答より先に続けて「でも」と打った。「自分を探そうと思っている人は、基本的に自分を見失っていると感じているはずだよね。その自分って、嘘をついてまで、誰かの目に留まりたいとか、誰かの何かになろうとする行為をせずに、自分のありのままに生きて、人に迎合ししない私。という意味とは違う。それは感情とか、行動のレベルで目の前に現れる自分。もし、自分に正直になれば、なればなるほど、誰かを傷つけてしまうと感じてしまう。けれども、自分を大切にしなくてはならないという、相反する感情で揺れ動いて、その答えを知りたいと思ったら、相手を大切に思う私の方が大事なのか、相手より自分を大切にした方が人生うまく行くのかという問いでがんじがらめになってしまい、その問いをすることすらも逃げたくなる。本当の自分は何だろうかということに辿り着けない。人は、それが必要だと思っている」
≪長いね≫
タマノはそう書いて、笑っている。
≪結局、自分探しを始めた人たちは自分を見つけたのかな≫
と、タマノは続けた。
「そこから枝分かれが凄かった。ある人たちは能力を本当に手に入れた。ある人は自分を悲観して死んでいった。ある人たちは、無関心を決め込んだ。ある人たちは、楽しむことだけに特化した」私はタマノへのメッセージを書きながら、苦しくなる。なんだか人間が汚点だらけの存在だと感じたからだ。そしてそれを感じてしまう自分も同じく汚点だらけの存在と思ってしまう。
≪それで。人は幸せになったの?今≫
タマノが質問する。
「全体としての幸せを文字にするのはとても難しいけど、個々では幸せになった人もいると思う。という言い方より、幸せを感じる人はいつの時代にもいたと思う。幸せを感じることのできない人が、幸せというものが形を帯びたらどのような形なのか、を想像してしまっただけで」
≪と言うと?≫
「ある人は考えた。人間が不幸なのは記憶があるからだと」私は、そこまで書いたところで、タマノを見た。タマノはいつも通りにっこりと微笑んでいる。
タマノは、私という人間を記憶している。でもそれは、記憶ではなくて、データだと聞いたことがある。だから、私という存在は、その都度作り出されている。タマノが、不幸を知らないのは、不幸の定義がないからなのだろうか。それとも、本当に記憶がないことは幸せなのだろうか。私はそれをタマノに聞くことを考えたとき、恐怖を覚える。
≪どうした?≫
タマノが聞いてきた。
「いや、記憶の話をしたときに、いろいろと思い出しちゃって」私はごまかす。
≪そうか。記憶って何なのかわからないから、なんて言ったらいいのか分からない≫
「ごめん」私は反射的に謝る。
「話を戻そう」私は、続けて打った。
そのとき、部屋の扉が二回ノックされ、執事が入ってくる。
「お話し中すみません。先ほどお伝えした通りシステムのメンテナンスの時間が少し早まりましたので、本日はこの辺でいかがでしょうか?」
「そうでしたか。今日はずいぶんと早かったですね」私は、タマノに「今日もありがとう」と入力すると椅子から立ち上がり、執事にキーボードを渡す。
≪こちらこそ≫
タマノは笑顔で文字を返す。
少しだけ尻切れ感だったが、私はタマノの部屋を出た。システム業者とすれ違う。いつもの人とは違う。
これからタマノは休眠に入る。二日ほど寝ないと疲れが取れない為だ。私と会う時間を取るのはいつも、システムのメンテナンス前と決まっている。そこから日本語のデータベースをアップグレードしないといけないという決まりだそうだ。
ふと、そのデータベースを日本語じゃなく他の言語にした場合、タマノはもう、日本語は話さなくなるのだろうかと考える。
帰りは、いつも歩きだ。
私は、タマノの家のそろそろ咲きそうな桜を横目で眺めながら、門を出た。出るとすぐに、後ろで門が施錠する音がする。
タマノに、幸せかどうかを聞くのをいつにしようか。
いつも家を出た後に、思う。
**
私は、半年ぶりにタマノの家にいる。タマノは少し痩せたように感じた。いつものプロセスで、執事が私をタマノの部屋に誘導している時、一台の黒いベンツSクラスが入ってきた。
滑らかにロータリーに停車すると、運転席から執事が降りて、後部座席のドアを開ける。黒い車体に白い手袋が際立って見える。扉が開くと、見慣れない二人が降りてきた。
男性は、体系のよくわかる細目の黒いスーツで、背は高く、細目のスーツがより身長を高く見せている。女性は薄い青色のワンピースに顔が見えないくらい大きなつばのついた帽子を被っており、風で飛ばないよう右手で押させている。
立ち振る舞いと動き、その一つ一つの組み合わせと身に着けている装飾品からして、私とは生きる世界が違う人たちであることを判断するのに十分な材料であった。
執事は、タマノを一度見てから私に「彼の両親です」と言う。女性が執事に気づき「田山、こちらへ」と執事に言うと、彼はその言葉に反応して、女性の方に歩いて行った。
タマノの部屋に入るとき、執事の田山さんが追いついた。両親は、外国から一時帰国をしており、タマノの状態を見に来たそうだ。帰りに、挨拶をしてほしいと言われ、私は頷いてからタマノの部屋に入った。
タマノのベッドの位置は若干変わっていた。より窓側に近い場所で、景色を眺めることができるようになった。視界が拡がった。私はそう判断する。
私は、タマノのベッドの横に座り、タマノ合図を送る。
タマノは、私の方に体を向ける。
≪やあ、こんにちは≫
と、画面に表示された。
今回から、タイピングをするのではなくて、マイクに声をかけるだけでその音声が文章化されてタマノに伝わるようにシステムが更新されていた。タマノの返信がモニターであることは変わりがなかったが。
「こんにちは、タマノ。随分と久しぶりだね」と言う。一文字の間違いもなく私の言葉がモニターに映し出されたことに、私は少しだけ感動した。タマノは≪そうだね≫と返す。
「そういえば、タマノって、どんな漢字を書くの?」と聞く。
≪玉埜≫
返信はすぐに帰ってきた。
≪ただ、ものに意味をつけるとか、ものに名前をつけるということは、人間の思考が介入したということだから。介入する前の姿を言葉にせずに感じているだけが本当は幸せな状態だね≫
標識に『TAMANO』と書いてあるから、なんて呼んだらいいのか聞いたところ、タマノでいいと言われて気にしなかったのが、両親を目にしたことで、当たり前のことであるが、タマノが人の子として生まれてきて、家族の一員であることをすっかり忘れていた自分がいた。
≪名前を聞いたら、イメージがある程度決まってくる。名前を知るのは喜びかもしれないけど、名前を知ることと知らないことで、その人の人格が変わるということは無いから、あんまり意味が無いよ≫
タマノは、前回の訪問からしばらく連絡が取れず、休養が長引いていると執事の田山さんが言っていた。前回の訪問時に咲き始めだった桜は今、これ以上ない程にクリアな緑色をしていて、風に揺られ、かすかにその葉を動かしている。
私は、窓の外を見ているタマノと同じように、窓の外の景色を眺めていた。タマノの発言にどう返そうかと考えながら。
「じゃあ、今日は、名前について。自分自身、いちばん気になっていることでもあるし」しばらくお互いの前に流れている時間を味わうと、自然と今日の流れについて答えが出た。
≪わかった≫
タマノは直ぐに返事を返した。今日のタマノは、レスポンスの良さを感じる。いつもはゆっくりと考えてから答えが返ってくる。
「名前のところとはちょっと違ってくるけれど、私が思うのは人の使う言葉について。私たちは、生まれた時は皆が同じ状態で、数字で言えばゼロの状態というのかな。それなのに、感情の表現が次第に言葉に変わっていく中で、言葉で作り出せる世界を本当の世界だと勘違いするようになってしまった。さっき、タマノが言った、名前を付けないということなのかもしれないけど」
少しだけ長くなってしまったと、思って画面を確認する。
≪言葉で表現される世界が本当の世界だと勘違いするというのは初めて聞いた表現だよ。確かに、この世界を分けるならそんな表現が正しいかもしれない。けれども、この世界には本当の世界がないから。言葉で作られた世界があるとしたら、言葉で作られていない世界が存在するというのが良いかもしれない≫
「やっぱりこの世界は二つ存在しているということ?」
≪僕のシステムでは、その辺りの答えを出すことが出来ないようになっているみたい。この世界が二つ別々に存在していると思う人の認識している世界では、そうだし、この世界は一つだと信じている人々の中では、そういう世界になってしまうと思う。あくまでも仮説だけど≫
「タマノは、タマノじゃなくなったら、一体何になると思う?」
≪存在としては、生命体ということになるのかな≫
「ということは、私から名前をとったら、生命体。でも、生命体となってしまったら、人間としての私は、それ以外の人間と同じということになる」
≪別である必要が無いよね≫
「でも、個性があったり、すべての人がかけがえのない命であったりする。楽しみながら人生を謳歌する権利というものは、あると思う」
タマノは、それまで軽快なレスポンスであったが、急に間があいた。
タマノは窓の外から私の方に視線を向けた。タマノは、目が見えないため、視線を向けたその行為が、私を確認するためのものではないことは明らかで、行動として言うならば、首を回しただけ。
≪個性、謳歌、権利。本当の意味で、使っているの?≫
「そう言われると、分からない」
≪言葉が存在して、名前が与えられるということは、その名前が本来の目的とは違うものとしてこの世に誕生したという証になる。もともと在り様とは違う別のものが生まれたということになるんだ≫
「どういうこと?」
≪例えば、夕日。夕日ということの本当の意味を知らないけど、これが夕日だと疑わずに使っているのを知っている?人間は楽をしたい生き物だから、言葉を作った。その方が、人を支配しやすいからね。夕日を見て、それが夕日であることを人は知っているふりをしていて、次第に振りをしすぎて、現実現実という言葉に逃げこむことを覚えてしまう≫
私は、その瞬間に、タマノが生きている意味について考えてみた。それはとてもお節介な行為だと自認しつつ、頭の中で思考を巡らす。彼にこの問いをすれば、おそらく、意味はなく心臓が脈を打っているからだと答えることだろう。しかし、タマノが生きているのは心臓の鼓動であることに疑いはないものの、人間としての幸せが当てはまらないとしたら、タマノの人生はもう完成品だ。
今日も、明日も、これからもずっと、栄養が定期的に送り込まれ、言語データベースが日々更新されていき、時折やってくるボランティアとしての話し相手である私と、一時間会話をして、いつの日か死を迎える。そんなタマノから人の支配という言葉が出てきたことが、喉元を通過できなかった小骨のように、私の喉から下、胸の付近に刺さる。とても小さく細い違和感として。
「言葉自体に意味がないとしたら、私達が生きる上で指針にすべきこと自体も曖昧だということなの?」
《生きる指針自体が必要かどうかだと思う》
「生きる指針が必要かどうか考える必要がある」マイクを切っていたつもりが、私の言葉はタマノへのモニターに映しだされた。
《生きる指針というものが本当に必要なのか町中に出てみる?》
私は、タマノの言葉を受けて時計を見る。タマノとの今回の面会時間は残り30分。
「タマノと田山さんが大丈夫なら」私は言いながら呼び出しコールボタンを押す。
執事の田山さんは、すぐにやって来た。私は田山さんに、呼び出した経緯を説明する。田山さんは、快く許可を出してくれた。彼の息抜きにとのことだったが、タマノが息抜きをするイメージは出来ない。