夏
スマホの画面がいきなり点く。視線を落として確認すると昨日知り合った千早の友人である
『鈴峰 美空』の名前が。
内容は簡単だ。『夏海に気を掛けてあげてね』というモノだ。
まるで子供を気にする母親のような鈴峰に、了解とだけ送る。
学校に着くとどうやらまだ千早は来ていない。変に身構えてしまい、何も変わらない日常の
はずなのに妙な緊張感が身体を重くする。
勝喜は朝練でまだクラスには居ないので結構静かなクラス風景だ。
入り口に近い一番後ろの席には佐々木が座っている。
佐々木はつまらなそうな顔で爪をいじっている。佐々木の周りにはいつもの連中が。と言い
たいが、佐々木は一人だ。仲の良い女子も登校してるけど、話している様子はない。
佐々木の機嫌が悪くて近寄らないだけか? 綾人は軽く考えるが答えは出なかった。
そんなどうでも良いクラス観察をしていると開いた扉から一人の少女が見えた。
教卓がある方からやって来たのは千早だ。
千早が一歩、また一歩と歩く音がクラスに響く。背後に一瞬だけ嫌な空気を感じたので横目
で見ると一部の女子たちが不敵な笑みで千早を睨んでいる。
けれど、離れた席からつまらなさそうにしていた佐々木が深いため息を零すと同時に女子た
ちが萎縮し、何事も無かったような空気へと切り替わった。
千早が席に座る。バッグを机の隣にかけて、背筋を伸ばし、何も無い目の前の景色をジッと
見る。
声を掛けないと。いくら鈴峰がこの場に居ないとはいえ、連絡先をもらって浮かれていたと
はいえ、約束をしてしまったのは自分だ。勇気を出して声を掛けよう。
「お、おはよう。ち、千早さん」
「……おはようございます」
若干震えた情けない声に、少しの間を挟んで千早が目を見て挨拶を交わす。
「えっと――」
「昨日はどこか寄っていたのですか?」
「え」
話題を探していると、何と驚くことに千早の方から話題を提示して来た。相変わらず瞳には
光など宿っていなくて、興味とかもさほど持っていない。
「あ、うん。ちょっと用事があって」
「そうですか」ポツリと呟いた千早は顔を動かさずにジッと綾人の瞳の奥を見る。「そうですか」
何かを悟ったのか、綾人は全てを見透かされているような気がして落ち着かない。
「あ、そうだ! 昨日も公園で練習したの?」
「はい」
「へぇー、毎日大変だね」
「別に」
「あーえっと。休みの日とかは作らないの? リフレッシュとか」
「時には」
「そっか……今日はいい天気だね」
「曇りです」
「……」
嫌な汗を額に浮かべて、何とも言えない笑顔のまま言葉を失ってしまった綾人は、時が止ま
ってしまう。時を止めた綾人に何の言葉もリアクションも見せない千早は、会話が終わった事
を確認して静かに向き直そうとした時――
「オッス!! 何の話をしているの、お二人さん!」
ニシシと、汗の臭いを消す甘い香りを纏った勝喜が少し頬を汚して綾人の前に走って来た。
「勝喜!」
いいタイミング! と僅かに声が高くなる。
「よ、綾人。と、千早?」
「……」
ニコッとヒマワリのような明るい笑みを浮かべる勝喜に対して、青い薔薇のように冷たくク
ールな千早は、勝喜に対して目線も合わせずに言葉だけを贈る。
「あーえっと。もしかして俺、邪魔だった、かな?」
綾人と千早。もう一度綾人を視線で追った勝喜は苦笑いを浮かべている。
「そ、そんなこと無いよ。ねえ、千早さん?」
これはある意味チャンスだ。勝喜のコミュ力があれば少しは千早さんの氷が溶けてくれるか
もしれない。
「私に言われても」
千早は正面に顔を向けたまま空っぽの言葉を放った。
「そう言えば転校して来た初日にヒーロー目指してるって言ってたけど、何かなるための努力
とかしているのか?」
「はい」
「もし良かったらどんな事をしてるか教えてもらってもいいかな。俺さ、ヒーローの存在有る
無しは置いといて、やりたい事が見つからなくてさ。まあそれは隣のこいつも同じなんだけど、
な?」
勝喜はアハハと笑いながら視線で綾人に同意を求める。綾人は勝喜の意志を読み取って相槌
を打っといた。
「だからさ、何と言うかしっかりと夢を持ってる人ってすげぇなって思うんだ。まあ他の人が
どう思っているか知らないけど、参考程度に色々と教えてもらえたら嬉しいかなって」
少し照れくさそうにしている勝喜に僅かな尊敬の眼差しを送る綾人。
勝喜の言葉に嘘はない。何度も千早の事を凄いと言っていた勝喜の言葉を知っているから分
かる。それに勝喜は気に入られるための嘘をつくような人では無い。
照れながらも真っすぐ自分の言葉を言えることが勝喜の凄い所で、綾人には出来ない事だ。
綾人ならもっと遠回しの言い方とか、濁した言い方で結局伝わらずに終わるようなことも、
勝喜はきちんと相手に伝わるように言える。
あまりにもあるコミュ力の差に僅かに顔を歪めてしまう。
「別に普通の事しかしてません。公園で練習をしたり、走ったり、勉強したり。それに私は凄
くありません。私は抜け殻ですので。なので、何一つ参考にはならないと思います」
淡々と話す千早の言葉の一部に首を傾げて視線を綾人に向けた勝喜。綾人は千早の過去を知
っている為、その理由を知っているがとてもじゃないが他人の口から言って良いモノではない
ので、ここは気付かないふりをする。
「公園? 公園ってあの?」
「そうだよ。俺の家の近くにある」
「ああ! あのデッカイ桜の木か! てことは、もしかして二人が話すようになったのはその
公園で毎日会ってるから? それでそれで、一緒に練習を付き合ってるとか? それで――」
「ああああ! 違うって。ちょっと妄想し過ぎだから! 別に何もないから!」
「本当かよ~。いつの間に千早との距離を縮めていたんだ。侮れない奴め~このこの」
目を細めた勝喜は少しニヤニヤしたり、顔を歪めたりと忙しい表情変化で綾人をバカにする。
勝喜の悪ノリスイッチにあからさまに顔を歪める綾人。
「お二人は仲良しなんですね」
「まあ中学からの付き合いだしな」
勝喜が頭の後ろで手を組んで軽く笑い、
「千早は仲が良い人居ない?」
何気なく聞いた勝喜の言葉に綾人は妙な緊張感を覚える。
脳裏に浮かんだのは千早の友人で中学時代のまだ千早が悲劇に見舞われる前に仲が良かった
鈴峰だ。写真や動画から本当に仲が良かったことは伝わる。それを知っているから綾人も千早
の発言に意識が集中する。
千早は口を開ける前に一度綾人の顔に視線を移した。
一瞬目が合うがすぐに逸らされてしまう。
「……いませんね」
千早は一言、そう言った。