ヒーローは居ますか。
相変わらずクラスの空気はピリピリしていて控えめに言っても早く家に帰りたい。けれどま
だ授業すら始まっていないのでスタートラインにすら立っていないのだ。
綾人が席に座ってしばらくしてから千早がやって来た。背筋が伸びていて姿勢も良く、絵に
なる女性だと見るたびに思ってしまう。
千早がクラスに顔を出すと女子たちから嫌な気配が漂って空気が変わるのが判る。
千早が隣に座るが、綾人は声を掛ける事が出来ない。
汚れ一つないバッグから今日の授業で使う教科書を千早は取り出して机にしまっている。
相変わらずポーカーフェイスというか、周りに関心が無いというか、クラスの空気の変わり
ようにも千早は表情一つ変えなかった。
やがて授業が終わり重苦しい空気から解放された綾人はいつもと変わらない放課後を過ごす。
夕方頃に学校を出た綾人の足取りはいつもよりも軽くて、気を抜くとスキップしそうであっ
た。けれどそんな綾人の気持ちも判らなくはない。何しろ今日は金曜日なのだから。
明日から二日間学校に行かなくて良いのは最高のご褒美だ。
いつものように裏道を通ってあの公園を通りかかる。
今までは何も思わず公園を少し眺めて帰っていたけど、三日前に一人の少女を見つけてから
少し公園の前を通るのに勇気が必要になった。
やましい事をしてないから普通に通ればいいのだけど、クラスメイトであり隣の席の住人で、
けれど会話もした事無いという何とも言えない微妙な距離感だから、もし目が合ったらどうし
たらいいのか判らなくて少しだけ公園の前を通るのが怖かった。でも、この裏道が好きだから
綾人は帰り道を変える気は無い。何か道を変えたら負けた気もするし。
公園の近くで一度足を止めて綾人は唾を飲み込んだ。そして息を吐いてから一歩前に進む。
大きな桜の木の下で今日も千早は素振りをしていた。
最初に見つけた日は転校して来た日。つまり三日前でその日から毎日、千早はこの時間にこ
こで剣を素振りしている。こちらには多分気付いていないだろう。
綾人が通り過ぎようとした時、一つの変化に気づいた。
バッグだ。
木の下に置かれている教科書とかが入っているバッグ。今朝までは新品に見えたバッグがぐ
しょぐしょに濡れていた。濡れているせいか空から落ちてきた桜の花びらがバッグにくっつい
ており、すぐに目についた。
バッグが汚れるような授業は無いし、ヤンチャ坊主みたいなキャラでもない千早が一日でこ
んなに汚したと言う事は、クラスの雰囲気から察するに佐々木たちの仕業と見て間違いないだ
ろう。
多分、放課後とか人目が無い時にやられたのだ。
流石の綾人も無意識のうちに拳に力が入っており、心が赤い気持ちで満たされて行く。
けれど勝喜のようなコミュ力もなく、行動力もない綾人は、目の前でいきなりメガネを外す
素振りを見せた千早に驚き、そそくさと去ろうとしたが、足を躓いてしまい壮大にこけてしま
う。
「うっ……!」
膝に痛みが走ると同時に、公園の方に視線を向ける。
「あ」
綾人の口から無意識に言葉が漏れる。何しろ視界の先には千早が読めない感情の顔でこちら
をジッと見ているのだから。ライオンに睨まれたウサギみたく綾人は動く事が出来ない。
バッチリガッチリ目が合ってしまった事で一瞬時が止まったように感じた。
気づくと膝の痛みは消えており、代わりに耳元が熱くて顔が真っ赤になっている事に気づく。
千早も多少驚いていたのか、しばらく動けずにいたが時間が解決したようで倒れて恥ずかし
い姿の綾人に一歩ずつ歩んで来る。
「あ、えっと。そのー、大丈夫で、す!」
綾人は自分でも驚く速度で立ち上がり、何とか弁解しようと頭に浮かび上がった言葉を考え
ずに口に出す。
一応綾人の思いは伝わったようで千早は歩みを止めて、ただジッと綾人を見ていた。
逆に気まずいその視線!
綾人は心の中で叫ぶ。せめて何か一言言ってくれればいい感じに誤魔化して帰れたが、しか
し言葉もなくただジッと見られるとこちら側から何か行動を起こさないと行けない衝動に駆ら
れて凄く気まずい。
「えっと、そのー大丈夫、それ」
綾人は後頭部を掻きながら、目元を泳がせて言う。
「?」
はっきりしない綾人の言葉の意図が理解出来ず、千早は首を傾げた。
「えっとだからそれだよ。バッグ」
綾人は覚悟を決めて千早に視線を交わす。そして千早の背後で花びらをくっつけた汚れたバ
ッグを指さした。
「特に何も無いです」
「何もって、朝までは綺麗だったじゃん。バッグ。それって佐々木たちにやられたんでしょ?」
「佐々木? いえ違います。彼女とは関係のない女子が私のバッグにいたずらしたようですね」
淡々と言葉を並べる千早。言葉の温度は冷たくてそんな千早を不気味に思ってしまった。
普通ならもっと暗い顔をしたり、泣いたりしてもおかしくないのに、千早は一切表情を変え
ずに言っていたので何だか怖かったのだ。
「なんで、何でそんな冷静でいられるの? 学校とかでも酷い扱いされているんじゃないの?」
だから綾人は尋ねた。普通の人なら耐えられない事を何事もなく耐えている千早に。
「冷静、ですか」
またしても首を傾げる千早。けれど今回は綾人の言葉の意図を理解したようだ。
「私は、壊れてしまったんです。だから少し人とは違う感性を持っているかも知れませんね」
「壊れている? それってどういう――」
「もしかしてこの公園が好きなんですか?」
綾人の言葉を意図的かそうではないのか判らないが断ち切った千早は、全く別方向の質問を
投げてきた。
「いつもここの公園で練習をしている時に、前を通っていたので。その時に公園の方を見てい
た気がしたので尋ねたのですが」
気づいていたのか。忍者のように気配を殺していた綾人だが全くの無意味だった。
「まあ、好きかな。結構広くて遊具も豊富で、何よりその桜の木。めちゃくちゃ綺麗だよね。
人を魅せる力があるのに、けど不思議と人が集まらない所が何か好きなんだよね」
「分かります」
千早は表情を変えずにボソッと話して、
「私も好きです。理由は全く同じでとても静かな特別な感じが好きですね」
千早は振り返って散り始めている桜の木を眺めて呟く。
声音には優しさとか、温かさは感じられない。ただの言葉だけど綾人は何故かそんな千早に
吸い込まれるように意識が集中してしまう。
多分、意外だったんだと思う。大人っぽくて謎に満ちた千早が意外にも会話をする人であっ
たことに。勝手に作られたイメージが崩れていくその様子に意識が持って行かれたのだ。
「どうかなさいましたか?」
ボーっとしていた綾人に気づくと千早が首を傾げていた。
「いや、何と言うか意外と千早さんって話す人なんだな、って」
「変、ですか?」
「いや、そんなことは無いよ。ただ、学校だとあまり話しているイメージが無かったから」
「そう言う意味ですか」
千早は興味が無いのか、どこか遠くを見るように見えない壁を感じるような口調で話す。
「余計なお世話かもしれないけど」
綾人は一度大きく息を吸って、言う覚悟を決める。
きっとお節介に違いない。他人の自分が言う権利は無いけど、だけど現状を見てほっとけな
いと思ったから綾人は、余計なお世話だと解ってても言う事にした。
「学校でも話してみたら? 多分だけどさ、佐々木とかが千早さんに酷い事をするのってあま
り知らないからだと思うんだ。未知の存在って怖いじゃん。だから――」
「別に良いんです。そんなに会話が好きな訳では無いですし、誰かと仲良くなりたいとか思い
ません。私はただ聞かれたから答えるだけ。ヒーローにさえなれればいいのです」
相変わらず言葉に温度は無い。淡々と話す彼女を見ていると機械と話している気分になるの
はオカシイのだろうか。
本人がそれで良いというのならそれ以上他人である綾人が言っても何の意味も無い。
「一つ尋ねてもいいですか」
「いいよ」
「あなたも他の方と同じようにヒーローは――」
「居るよ」
「……」
「あっ」
綾人は無意識に言ってしまった事に驚き、何故か熱くなってしまった自分に恥ずかしさを覚
えてすぐに言葉を引っ込め、視線を無表情の地面に沈めてしまう。
「分かりました。では私はそろそろ練習に戻りますので、また学校でお会いしましょう」
「え、あ、うん! じゃあ」
綾人は戸惑いながらも何とか別れの言葉を言えて少しだけホッとする。
最後に千早の背中を見送ってから何事も無かったように帰路に戻る。
「最後、少しだけ笑ったように見えたな」
気のせいだったかも知れない。見間違いだったかも知れない。だけど、うっすらと口元が緩
んだ千早の顔が綾人の脳にハッキリと焼き付いている事から夢では無く、きっとヒーローの存
在を信じる者が他に居て千早は嬉しかったのだろう、と綾人なりに答えを導き出した。