秋4
千早 夏海は今日もいつものように日常生活を送っていた。
アラームよりも一分早く目を覚まして、コンフレークを食べて、学校で授業を受けて。
学校に来る事が最近、少しだけ楽しい気がする。
理由は分からないけど、千早の身近で立て続けに色々な事が起きすぎて、転校して来た時よりも状況とか、考えとか変わりつつあって、そんな未知数の変化が少し怖くて、興味深くて、そこが少し楽しくて。明確な理由は分からないけど家にいる時よりも明るい気持ちで居られる気がする。
しかしクラスでは妙な空気が漂っていた。その正体を千早は多分知っている。富田たちは気付いていないけど、その空気は夏頃から気配を醸し出し、最近その姿をあらわにした。
怖いもの知らずの千早でもハンカチを渡す事が出来なかった。
自分じゃない誰かに迷惑が掛かってしまうから。
気付くと授業が終わって放課後になっていた。
富田は用事があると早く帰り、いつものように千早は独りになったので、静かに席を立って帰ろうと廊下を歩く。
しばらく千早だけの寂しい足音だけが廊下に響き渡る。校舎はもう人が居なくて外から聴こえる新チームとなった運動部の声がより大きく聴こえた。
「?」
廊下の端が少し濡れている事に気付いた千早は首を傾げた。
千早の進行方向に合わせて水滴は大きくなって行き、その先は校舎裏の方へと続いている。
「あ」
千早は薄々気付いていた。何故水滴が廊下に垂れてそれが続いていたのか。
それは千早も数多く経験して来た事であるから。
校舎を曲がった所で千早の視線の先に映ったのは複数の女子だった。五人ぐらいの女子が萎れた花のように元気の無い一人の女子を押さえていて、対面する女子が白銀の輝きを放つ鋭利なカッターを持って今にも走り出しそうな状況だ。
千早は考えるよりも早く、鍛えた瞬発力を活かして走り出した。
何とかギリギリといった所か。鍛えていなかったら間にあわなかった。
弾丸のような速度で刃の先に立ち、勢いを殺す為に生身の手で受け止めた千早。
鮮血が無表情の地面を染めて、手の内側から熱さが脳にまで届く。
「え」
震えた声音と何が起きたのか理解出来ない女子たちが視線を泳がせて言葉を失っている。
「あんた」
萎れた花のようにターゲットにされた女子が呟く。
その瞳は希望の光を見るというよりも、疑念に染まった瞳であった。
「何をしているのですか」
千早は耳を貸さない。ただ、カッターを持つ女子に冷めた言葉を淡々と送る。
「あ、あんた何でここに!?」
「放してください。それを」
千早はカッターを放すように申すけど、震える手を精一杯制御して放す気配は無いようだ。
「あんただってこいつに滅茶苦茶にされた一人でしょ!? 何で庇ってるの?」
「別に滅茶苦茶にされていませんし庇ってもいません。気づいたらここに立っていたまでです」
千早の言葉には温度が無い。機械のように無の言葉が淡々と口から出ているだけ。カッターで手をえぐられ、複数の女子たちに囲まれている絶望的な状況でも千早は一切動じない。
力強い千早の姿に怒りを感じた女子が手を出そうとするけど、
「あなたじゃ私には勝てません」
もう一つの腕で千早を叩こうとするけど、動かした瞬間に千早に止められた。その速さ、千早の人間離れした動きに一瞬時間が止まったように沈黙が走る。
冷たく突き放す言葉で威圧する千早に、腰を抜かしてしまう目の前の女子。その喉元には千早の手刀が寸止めされていた。
「早く立ち去ってください」
これ以上長居するのは誰もが良くないと思った千早の常識を超えた動き。そして千早が作った沈黙は熱くなった女子たちの脳を冷ますには十分な時間だったようで、一人が「もう行こう」と言い出したのがきっかけに早々に立ち去って行った。
残ったのは千早と被害者の女子だけだ。
「大丈夫ですか」
千早は振り返って一言。彼女の綺麗な顔にはアザがいくつもあり、少し醜い顔になっていた。
ばっちり決めていただろう化粧が大量の水によってぐしゃぐしゃになり、制服も透けてとてもじゃないけどこのまま帰れる恰好とは思えない。
「うるさい」
その女子は顔を背けてボソリと呟く。千早は女子の顔を見て記憶を掘り返し、すぐに答えに辿り着く。それはこの場所も関係があったからだ。
以前千早は似た状況に遇った事がある。
びしょ濡れの千早に善意ではない言葉で、ハンカチを渡してくれた人を思い出す。
同じクラスで名前は確か――佐々木だ。
「佐々木さん、これを」
千早は自分のハンカチを佐々木に渡そうとする。
「なに、同情してんの? 要らないわよ。そんなの」
佐々木は睨みつけてハンカチを手で払う。けれど千早はもう一度ハンカチを差し出した。
「ダメです。そのまま濡れていたら学校に迷惑が掛かります。現に校舎は濡れていましたし。あなたの勝手な行動で他に迷惑を掛けるのは間違っていると思いますけど」
千早の淡々とした言葉に舌打ちをして、黙って受け取る佐々木。
「あと、これを」
バッグからもう一つ、あの日から返せなかった佐々木のハンカチを取り出す。
「あの時、あなたから借りた物です。何度も返そうとしたのですが、タイミングが合わなくて」
「は? タイミングなんて幾らでもあったでしょ。同じクラスなんだし。それとも何? 同じクラスっていうのも忘れてたって言いたいの?」
佐々木はどのような状況でも強気な姿勢を崩さないらしく、千早に言った言葉も茨のようなトゲトゲしさがあった。
「いえ、違います。忘れていません。ただ、もし私があの空気の中、渡していたらきっとあなたはもっと酷い目に遇ったのではないかって思ったので渡せなかったのです」
千早はこうなる事をうっすらと気付いていた。春から夏始めにかけて自分は虐めにあった。その経験が無意識にもそれらの序章を読み取る事が出来るようになったらしく、今回の始まりを薄々勘づいていた。だからこそ千早は話しかけられなかったのだ。
「あっそ。気遣いどーも。てか、何で助けたの?」
「気づいたら走ってました」
「なにそれ。陰で見とけばいいじゃん。クラスで偉そうにしてた奴が転落する光景を。あんたも本当は笑いたいんじゃないの? あいつらの言葉を借りるなら学校生活をメチャクチャにした張本人な訳だしさ」
佐々木は自嘲するように天を仰いだ。顔つきは悔しさというか、弱さが見える。
「それは違います。あなたは私を『嫌い』と言いました。確かにそれ以降周りの方たちは私に対して冷たくなり、世間一般的に見れば酷い態度を取ったでしょう。けれど、最初のそれ以降あなたは私に関わって来ませんでした。なので、あなたを笑う意味も、張本人という言葉も間違っていると思います」
佐々木が千早に接触したのは転校初日のみだ。その日以降佐々木は接触をせず、佐々木の囲いたちが千早に嫌がらせ行為をしていたのを千早は知っていた。
淡々と話す機械のような千早に「なにそれ、キモ」と零す佐々木。
「あのさ、この後暇なの?」
佐々木はゴクリと唾を飲み込んでゆっくりと口を開ける。
「なにもありませんけど」
「ならちょっと付き合いなさいよ」




