ぐしょ濡れ
千早の言葉を聞いて何故か胸が痛くなる。何かが喉から込み上げてくるが、言葉にすること
はできなかった。
「そうなんだ。じゃあさ、高校生活も後一年だしさ、俺たちといっぱい思い出作ろうぜ!」
グッと親指を立てた勝喜は、冗談っぽさを含めて眩しい真っ白な歯を見せた。
勝喜の予想にもしていなかった豪速球に驚き、不細工な顔で勝喜に視線が行ってしまう。ま
さか氷の壁に真正面から挑むとは。流石、今時男子勝喜さんだ。
「いえ。そう言ったのは。また壊れてしまうので――」
ボソッと最後に何かを千早が口にしたが、それはチャイムにかき消されてしまい聴こえない。
「もう授業かよ。早えな。じゃあまた話そうぜ、千早。綾人も抜け駆けすんなよ」
最後にいたずら好きの子供のように無邪気に笑った勝喜は担任が来る前に駆け足で自分の席
に戻っていく。
「なんか、ごめんね。悪い奴じゃないからさ」
「はい」
最後にポツリと呟いた千早の表情はどこか寂しそうに綾人には見えた。
今日も一日乗り切れて、終わりのチャイムと同時に安堵の息を漏らす。
少しだけクラスに残って翌日の宿題を終わらせて校舎を後にした。
「あ――千早さん!?」
校舎を出て校門に向かおうと歩いていた綾人。そんな綾人の視界の端に身体を水で濡らして
ボーっと立っていた千早が見えて、気付くと大きな声を発してそちらに駆けていた。
「どうしたの、つめたっ!」
「水を掛けられました」
特に感情の込められていない言葉。髪の毛の先端からぽたりぽたりと水滴が地面を濡らす。
「このままじゃ、風邪ひいちゃう。あ、これ。ハンカチ。使って!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないって。ほら!」
受け取る意思が見られなかった千早に対して我慢の限界を迎えた綾人は、自分からハンカチ
を押し当て水分を取り除く。
「もしかして、これ。佐々木たち?」
「いえ、彼女は関係ないと思われます」
誰がやったのかは、あのクラスの人が見たらすぐに顔が浮かぶだろう。我がクラスの女子の
頂点に立つ女、佐々木 志穂梨だ。
現場に居なかったから断言は出来ないけど、何かしらの形で関わっていると綾人は考える。
「とにかく保健室に行こう。風邪引いちゃうから」
「大丈夫です。私は練習があるので。ハンカチありがとうございました」
そう言った千早は何事もなかったように校門を出ていつものように公園に向かってしまう。
綾人はしばらくその場から動く事が出来なかったが、ふと我に返って千早の後を追う。
「千早さん! ま、待って!」
息を切らせながら何とか千早に追いつく事が出来た綾人は、顔を上げて袋を差し出した。
「これ、タオルと温かい食べ物。お金とかいいからせめて使って」
近くのコンビニでテキトーに選んで買った物を千早に差し出す。
「大丈夫だと――」
「いいからっ! 流石に見てられないよ。そんな姿。本当に気にしなくていいから、お願い。
一生のお願い。だから使って!」
綾人はこれまでにない至極真剣な顔で無理やりタオルなどが入った袋を突き出した。
ここまで頼まれたらほとんどの人が断れないだろう。それは千早も同じだ。すいません、と
呟いて袋を受け取る。
正直自分にこんな行動力があるとは思っても見なかったけど、何とか行動に移せて良かった。
丁度公園に着いたのでベンチに千早と綾人は座り、千早はタオルを使って髪を拭いている。
「ありがとうございます」
ある程度水分をふき取った千早がポツリと呟く。けれどもまだバッグは濡れていた。
「それよりも大丈夫?」
「はい、これ。返します」
千早はぐっしょりと汚れたバッグから財布を取り出して水滴の付いた小銭を綾人に差し出す。
「お金は大丈――」
「ダメです」
グッと突き出された手。たった一言のその言葉には妙な力があり、千早の無を具現化したよ
うな瞳の奥に炎のような意志が感じ取れた。
「は、はい。ありがとうございます」
意志の弱い綾人は、千早の気迫みたいなモノに負けてしまい、小銭を受け取ってしまう。
何とも格好がつかない自分が少し情けなく思えたがまあ良しとしよう。
「半分どうぞ」
千早が差し出して来たのは、先程綾人が買って来た肉まんの半分だ。
ホカホカした湯気が内側から外の世界に飛び立つように香りと共に広がっていく。
「え、でも千早さんの為に」
「私だけでは食べられません」
肉まんから溢れる肉汁を宿した蒸気が千早と重なる。時期的にもこれから肉まんたちは冬眠
に入って、一季節を超えるまでお目に掛からなくなる。だから最後に噛みしめよう。
「じゃあ、半分いただきます」
ぎこちない会話の末、綾人は肉まんをもらい、会話無くそれを口にする。
「あの、千早さん。前にも聞いたかもしれないけどさ、辛くないの? そのー色々と」
「別に。私はただヒーローになれればいいので」
どこか遠くを眺めて千早は口にする。
本当に辛くはないのだろうか。あんなひどい目にあって壊れてしまったとはいえ、人間であ
るのは違いない。全ての感情を、痛みを、思い出を消せることなんて出来るのだろうか。
千早の中ではもう鈴峰 美空は居ないのだろうか。
「もしさ、嫌じゃないとしてもさ、何かあったら言って――」
「では、私は練習をしますので。今日は色々とありがとうございました」
スッと立ち上がった千早は、綾人の言葉を遮り、軽くお辞儀をして一歩、歩き出す。その行
動は意図的か偶然か、解らない。




