始まりの春
それは突然だった。
いつもと変わらない日常。桜舞う温かな気温が世界を包む四月の終わり。
進級し、ある程度クラスが一つになって来ている時期。
そんな中、窓際の一人の少年は空っぽの瞳で、つまらなそうに外を見ていた。
それは突然とやって来た。
黒板の前で担任が何かを話す。
どうぞ、と担任が言うと静かに扉が開いた。それに合わせてクラスがざわついて、何となく
少年は前に顔を向けた。
少し赤みかかった髪色はまるで夕日のように美しく、窓の隙間から流れ込んで来た風にその
髪はなびく。
まるで絵画のように絵になる一人の少女は、淡々と冷たい足取りで担任の隣に立つ。
クラスがまたしてもざわついて、担任が静かに、と少し声を張って言った。
「私の名前は千早 夏海。ヒーローを目指しています」
少女は言った。言い切った。
何一つ恥じることなく、真っ直ぐな瞳で言ったのだ。
感情の無い機械のような表情を持つ少女は、しかしその瞳の奥に強い不思議な何かが宿って
いる風に少年には見えた。
千早が口にするとしばらく沈黙がクラスを支配する。
先程まで希望に満ちたというか、美人な転校生と噂されているだけあって、クラスのボルテ
ージは頂点に達していたのだけれど、千早が言ったその言葉で空気は一変する。
誰かが最初に鼻で笑った。それは連鎖するように次第に大きくなるようにクラスには無数の
笑い声が響く。
担任が声を荒げるけど、止まらない。担任の声音にも動揺が混ざっているからだろうか。
クラスが嫌な空気に包まれている中、けれどその原因を作った千早は表情一つ変えずにただ
立っていた。その姿に迷いとか羞恥心は感じない。
小声で担任と何か話して、真っ直ぐと凛々しい足取りで空いた席――少年の隣に静かに座る。
一切動じないその光景にクラスメイトは目を丸くして静かに千早を見つめた。初めて発見さ
れた未知の生物をみるかのような眼差しで。
少年も同じように千早を視界に捉える。
まるで氷みたいな少女だと少年は思った。
瞳の奥に感じる強さ以外は冷めている。そんなイメージだ。
けれど、千早が言った言葉は空っぽの少年の心をくすぐって、いつから止まっていたのか覚
えていない少年の心を動かした気がした。
※※※
高校生になって早くも二年が経過した。
高校三年生の少年・富田 綾人は今日もいつもと同じように学校に向かっている。
いつもと変わらない様子で目を覚まして、朝食を済ませ、時間までに学校に向かう。
どこまでも続く澄んだ無限の空には、白色を付けるように真っ白な雲が泳いでいる。
綾人と同じように会社に向かうサラリーマンとすれ違い、どこかに荷物を配送する配送業者
が運転するトラックのエンジン音を耳にする。
何も変わらない日常。いつもと変わらないつまらない日々。
綾人は地面を見ながら歩く。
「おーい、綾人!」
背中で声が聴こえて綾人はゆっくりと振り向いた。
「勝喜」
少しだらしなさそうに制服を着こなして、バッチリとワックスで髪を決めている男が、綾人
の名前を呼んで駆けて来る。
彼の名前は、仙田 勝喜。
中学時代からの知り合いで同じ高校に通う綾人の友人だ。
「今日もつまらなそうな背中してるな!」
勝喜は綾人の背中をバシっと叩いて、にっこりと太陽のように笑った。
その笑顔には穢れはなく、眩しいぐらいに輝いている。
「うるさいよ。お前はいつも楽しそうでいいな」
勝喜は綾人とはまるで反対の人間だ。帰宅部であまり目立たない綾人に比べると、勝喜はま
さに太陽のような人間だ。
サッカー部である程度の地位におり、クラスでもいつも笑って、皆を元気にさせる素質があ
るから常にクラスの真ん中にいる。
そんな真逆の勝喜とこうして声を掛け合って一緒に過ごすのは唯一同じ中学から受験したと
いうのが強い理由だろう。
元々地元から離れた高校を選んだ理由は、綾人は何となく少し遠くに行きたかったからで、
勝喜はサッカー部が強いから選んだと言っていた。
「まあそれなりに楽しんでるけど、なんだよ、まだそんな紙、気にしているのか?」
勝喜は手を後ろで組んで、綾人が険しい顔して持つ一枚の紙に視線を向ける。
「そう言う訳じゃないけど」
綾人が持つ紙は『進路希望調査書』であった。
これは新しいクラスになった時、担任が渡して来た。
高校三年になったばかりでまだ早いだろうと皆、目を向けることなく、バッグにしまったり
机の奥底に眠らせたり、とその反応は薄かった。
綾人も最初こそバッグにしまおうとしたけれど、その紙を目にした時、心臓を掴まれた感覚
に陥ったのだ。
それは、この紙を記入する自分が見えなかったから。
そんな未来が本当に来るのか不安になり、怖くなった。
今まで考えた事が無かった。というよりも考えないようにしていた。と言った方が近い。
初めてその紙を目にして自分の将来とか、未来とか、残酷な現実が目の前に現れた。
いつか就職する。いつか結婚する。いつか、いつか――
いつか起きるだろうとしていた事は、自分が考えるよりも何倍も近くにあり、そしてそれを
真剣に考えないと行けない時期なのだと、その時綾人は思ったのだ。
隣を歩く勝喜は呑気な顔をしている。あまり危機感を持っていないようだ。
「勝喜は高校卒業した後とか、考えているの? プロサッカー選手を目指すとか」
綾人の言葉に一度天を仰いだ勝喜は、大きく息を吸ってから何事もなく口を開く。
「いや、別に。プロとかなれねーだろうし、まあまだ働くとか考えられないからテキトーに大
学に進学するかな」
「大学、か」
大学に行く分には綾人の学力から考えても難しい事ではない。けれど、何もやりたいことが
無いのに行くのは何か違う気がして、綾人は進学の道を考えてはいなかった。
「お前はずっとそんな紙と睨めっこしているけど、何かあるのか?」
「うーん」
綾人は眉を丸めてため息に近い声を漏らす。
「まさかお前、ヒーローになりたいって言わないよな?」
「ヒーロー、か」
冗談半分に言う勝喜の言葉を聞いて無限に続く青空を眺める綾人。
ヒーロー。
勝喜は冗談っぽく言うけれどそれも仕方ない。
何しろそれはある日突然発表されたのだから。
――近い未来、世界は滅ぶ。だからヒーローを募集する。
何の前触れもなく、それは突然にテレビで発表された。
その時は多分、全国民が口をアホみたいに開けてポカーンとしていただろう。
それは冗談では無かった。政府は至極真面目に話し、『予言』で世界が滅ぶ未来が決められて
いる。というのだ。そんな未来を回避するためにヒーローが必要らしい。
政府の突拍子の無い言葉にもちろん国民は疑問を覚え、訴えかけた。
国民の税金で作られた内部不明のヒーロー学校に噂では武器の開発も。政府も最低限の事し
か言わなかった――何度か詳細を説明したが、信じてもらえず――ことから暴動がいくつも起
きたのだが、政府は一切弱気の姿勢を見せなかったのだ。
だから政府が迷走した『ふざけた職業』として半ば都市伝説としてよくネタにされている。
今のように勝喜が笑いながら言うのにも納得出来る。
けれど綾人は笑えなかった。何一つ、面白いと思わなかった。
初めて政府がそれを生中継で発表した時、綾人は家で見ていた。
それが流れた時は家族で居たけど、皆理解出来ずに鼻で笑っていた。けれど綾人は違った。
目を大きく開き、まるで吸い込まれるようにテレビに夢中になり、気付けば席を立っていた。
同時に頭に電撃が走ったのを覚えている。
点と点が繋がるように頭の中は見えない力でいっぱいに弾けて気持ち良かった。
綾人は幼い頃、本当に幼くまだ記憶が曖昧な頃、たまたま綾人は裏道に迷ってしまい、その
時に地面からモヤっと黒い霧のような物が現れて綾人を襲って来たのだ。
怖いとか不安とか。そんな感情が芽生えるよりもそれは早かった。幼い綾人はただその脅威
を見ている事しか出来なかったのだ。
気が付くと綾人の目の前は赤いマントを羽織った大きな男が立っていた。高校生になった綾
人よりもゴツくて大きくて、たくましくてカッコいい。そんな印象だ。
男は笑いながら後ろの綾人に語り掛ける。
――遅れてすまない、ボク。もう大丈夫だ、私が来た。
その言葉は世界の何よりも綺麗で眩しくて幼い綾人の心を開花させる。
そこからはあまり覚えていない。気が付けば綾人は家の前でただ一人立っており、興奮だけ
が綾人の心に残っていた。
何度も何度も親や友だちに話しても信じてもらえず、綾人も時間が経つにつれて夢だったと
か、幻だったとか。そんなつまらないモノへと変化していった。
だからテレビでそれを見た時、自分が見たのは夢じゃ無かった。幻じゃ無かった。と確信す
る事が出来たから心の奥底で本当にヒーローが存在しているんだと綾人は今も思っている。
なので綾人はそれ関連で笑う事は出来なかったのだ。
もちろん、なりたいか、と聞かれれば。
「なる気はないよ」
「だよな。まあなりたいとかマジで言ってる奴、見た事ないしな。本当にあるかすら危ういし。
噂だと人体実験とかしているらしいぜ?」
「まさか、流石に嘘でしょ」
「いーや、解らねーぞ」ニシシっと悪ガキっぽく笑う勝喜。
「もういいよ、その話題。俺的には強豪高校のサッカー部でレギュラーを取るぐらいの実力が
あるんならプロとか目指した方が良いと思うけど。まあそう言った勝負の世界知らないからあ
んまり下手な事は言えないけどさ」
「うーん。別にサッカー大好き! って訳じゃないしな。何となく小さい頃からやってるから
続けているだけだし。何かマジになった事ないっつーか、冷めてんだよな、俺」
「ふーん。色々あるんだね」
「そーだ。人気者の勝喜さんにも色々あるんだよぉ」
「自分で言うんかい!」
「あ、そう言えば今日我がクラスに美人転校生が来るらしいぞ!」
「そう言えばクラスで話題になってたね」
「お前はそう言うのに対して反応冷めているよな」
目を輝かせていた勝喜はそんな綾人に対してため息を吐き、少し冷たい視線を送る。
「そうかな」
「そうだよ! いやー楽しみだわ。今日一日頑張れるな!」
勝喜は朝一で見せた眩しい笑みを浮かべる。そんな輝かしい笑みを見るとなんだか自分が惨
めに思えて少し勝喜から距離を取ってしまう。
「単純かよ」
最後にボソッと綾人は呟いて二人は学校に到着する。
四年前に書き切った作品ですので、粗がありますが、お暇な時にどうぞ。