傷と約束
交わした約束。
(7/30 18:10)
雨が、降っていた。
歩き慣れた道を一人で進んでいく。傘をさす気にはなれなかった。腕を持ち上げることすら、今の俺には億劫だった。風邪をひくとか、服が濡れるとかそういう当たり前のことに頭が回らない程、自分の思考が死んでいるのをぼんやりと感じる。
……もう、全てがどうでもよかった。何もかも投げ出してしまいたかった。結の苦しみにも気付けなかった俺に生きる価値はないし、こんな退屈な世界で生きていく意味もない。自分の苦しみまで隠して笑っていた彼女が「病」という不条理に死んで、どうしようもなく何も持っていない俺が平然と生きているのが許せなかった。この世界で彼女のことを忘れてしまうぐらいなら、いっそ――
そんな俺の思考は、頭上に差し出された傘によって遮られる。花柄の傘の持ち手から、視線で持ち主を辿ると、そこには、見知った顔があった。
「……葵?」
幼馴染みは、今まで傘をささずに走っていたかのようにずぶ濡れだった。そんな彼女の姿を見て何も言えずにいると、葵は乱れた息を整えながらポツリと呟く。
「……ずっと探してたんだよ?」
その言葉はいつもの明るい物ではなく、どうしようもなく重い色を纏っていた。
何故か。そんなのは彼女に問うまでもない。俺自身もとっくに気づいているし、葵はそれを心配していたのだろうから。……俺の精神がまともなモノでないことを。
「もう、俺に関わらないでくれよ……」
「……っ」
言葉を選び、ぐらつくような酩酊感を持つ頭を押さえて、やっと絞り出した言葉は、ひどいものだった。葵を傷つけることなんて分かっていたはずなのに。
人想いな彼女が一番言ってほしくない言葉を選ぶ自分は、間違ったことをしているのだろう。今すぐに謝れば、まだ関係はやり直せるかもしれない。……でも、
「俺のことなんか気にしないでくれ。俺のことなんて忘れてくれよ。……もう、無理なんだよ。生きてくのが辛いんだよ。結のいない日常で俺が笑う理由ってなんだ? 人が死んだあとに平然と過ごすのが人間か? 違うだろ!」
間違っているのは今の社会だ。誰も彼もが俺の心配をするのに、彼女のことは次第に忘れられていく。確かにあった笑顔が、これからの日常に塗り潰されていくと思うと耐えられなかった。何もかもがどうでもよく思えた。生きていくことが辛くて仕方なかった。いっそのこと死んでしまいたかった。
……狂っているのかもしれない。どうかしてると誰かは言うかもしれない。
けれど、大切な人が死んでそう思うことの何が悪い。人はいつか死ぬ。どうせ死ぬのならいつ死んだって同じじゃないか。誰かいなくなっても変わらない世界なら、俺一人消えたって何も変わらないだろう。
「……だから、もう、俺に関わらないでくれよ。頼むから」
これ以上俺の近くにいれば、俺は葵を変えてしまうかもしれない。彼女の『生きること』に対する価値感が塗り変わってしまえば、必然的に『死』は身近なものになってしまう。生への執着がなくなれば、きっと、選ぶ行動はただ一つだけになる。それを彼女に選ばせるわけにはいかない。俺の問題に巻き込むことだけは絶対にしたくなかった。
身勝手かもしれないけれど、葵には幸せになってほしかった。狂っている俺のことなど忘れて、好きなように生きてほしかった。きっと、結を知らない葵は、この世界でも笑っていられるだろうから。彼女ならば、誰かを幸せに出来るだろうから。
だから、俺の言葉は、紛れもない本心だった。彼女に嫌われようが、蔑まれようが、謝ることだけはしないと、そう思っていた。
「…………」
……言葉は、なかった。葵は、俺に対して何も言わなかった。その顔をには侮蔑や怒りの色は浮かんでいなかった。彼女はただ、
泣いていた。
「…………」
……何で、こうなるのだろう。分かっていたことなのに。優しい彼女は、例え何と言われようと、俺を蔑んだりしないことなど知っていたはずなのに。どうしたって幼馴染みは、俺のことを嫌ってくれないなんて気付いていたことなのに。
ただ、傷つけるだけだった。泣かせてしまうだけだった。
何も言えない俺はただ、涙を溢す葵を見ていることしかできなかった。掛ける言葉なんて、なかった。傷つけた俺に、その資格はなかった。
声を押し殺すように泣いていた彼女が、嗚咽を零しながらもポツリと言葉を洩らす。
「……ごめんね。何も分かんない、バカな幼馴染でごめんね」
心臓が止まるかと思った。息が出来なくなるほど胸が苦しくて痛かった。
「私は悠斗が何で悩んでいるかなんて分かんない。……ううん。私は、悠斗のこと知ってるつもりで、何も知らなかったんだね。気づいてあげられなくてごめんね。ずっと苦しかったかもしれないのに、何も気づいてあげられなくて……」
この言葉を引き出してしまったのは俺だ。俺が葵を傷つけた。何も悪くない彼女を泣かせたのは、紛れもなく俺なのだ。
「……っぐ、でもね。私は……私にこんなこと言う資格はないかもしれないけど……私はっ! 悠斗のこと、大切に思ってるから! ……だから、そんなひどいこと、言わないでよ……」
ずっと、嫌いだった。結と出会うずっと前から俺は、この世界が嫌いだった。全てが退屈でしょうがなかった。何もかもが色褪せて見えた。何故だかは分からない。元々生きることに対して希薄だったのか、それとも他人と比べて価値観がズレていたのか。
でも、そんなことはどうでもよかった。ただ生きるのが辛かった。周りから見れば俺は狂ってるのかもしれないけど、俺からすれば、日常的に笑顔を浮かべている奴の方がイカれてるように見えていた。
だから、結に惹かれたのかもしれない。全てに飽きた彼女と俺は、どこか似ていたから。それでも何かを見つけようとする彼女の姿が綺麗だったから。
つまるところ俺は、この世界で結以外の何一つに関心が持てなかった。表面は笑っていても、心の底から何かを想うことなんて出来なかった。全て、どうでもよかった。けれど――
「……ごめん」
葵の泣いている顔だけは、見たくないと思ったんだ。
どうしようもなく身勝手な俺の言葉に、彼女は何も言わなかった。ただ、もう数秒だけ身体を震わしたあと、涙を拭って顔を上げる。その表情には、無理に作った不格好な笑顔があった。
「……ほんとに、ごめん。自分のことしか、考えてなかった」
本当に彼女を想うのならば、何も言わずに去るべきだった。彼女を傷つけない手段を模索するべきだった。
……これもまた、間違った思考なのだろう。最良の手段など最初から決まっている。自分のこれからしようとしていることを辞めさえすれば、彼女が泣くことも、これだけ葛藤することもなかった。葵がまた涙する可能性に躊躇することもなかった。
でも、もう戻れない。俺には何が正しいのかなんて分からない。結のいない世界で笑うことが幸せであるのか。それが何を意味するのかも。
――答えは、『あの場所』にある気がした。
(7/30 18:40)
そのあと俺は、雨の上がった街の通りを葵と二人で歩いて帰った。
薄暗い雲はまだ、残っていた。
「じゃあ、また明日ね」
「あぁ、また明日」
どこかの青春漫画みたいなやり取りをして、彼女が家の中に入っていくのを見送る。ガチャリと小気味のよい音がして、ドアが完全に閉まったのを確認してから、俺は一度だけ深い息を吐く。
――約束なんか、するもんじゃないな。
言葉を交わす度、人はその思い出に縛られる。楽しかったこと、嬉しかったこと、大切だったもの。それを忘れたくないと思うのは当たり前のことなのだろう。大切なものが少なかった俺は、他人よりもそれを理解しているつもりだ。だから、そう思った。
今、確かに俺は、二つの事柄の間に揺れ動いている。何の、とは言うまでもないはずだ。何かを大切に思えば思うほど、決意は薄れていく。覚悟がなかったわけではないけれど、それが確固たるものではなかったのは、今の心境を顧みれば明らかだ。
……俺は、迷っている。この頃にも及んでまだ、本当に大切なものが何なのか量りかねている。
人は、生きる上で意味を探そうとする生き物らしい。なら、俺が求める『意味』は何だ? 俺が生きている理由は何なんだ?
結局のところ、たぶん答えなど最後まで分からない。生きて、死ぬ瞬間初めて、これまでの人生で意味のあったことに気付くだけなのだろう。
――答えは、死ぬその瞬間にしか手に入らない。
結はその時、何を感じたのだろう。何を思い、誰を想ったのだろう。
時間は刻々と迫ってきている。
決断の時は、近い。