選んだ答え
動き出す。
(―――)
結の自殺から一週間が経った。彼女と関係の薄かった人たちの記憶からは、彼女の死は風化しつつあるようだった。無理もない。人は忘れる。そうやって生きている生き物だ。何もかも覚えていたら、きっといつかは壊れてしまう。
……でも、忘れることは悲しいことだ。失われた命が時間を刻むことを止めた時計と例えるなら、俺らは止まった時の先を行く時計だ。彼女の死んだ春を超えて、残りの季節を平然と過ごす。また夏がやってきても俺らは結を思い出せない。そんなのは嫌だった。彼女を忘れてのうのうと生きるなんて耐えがたかった。
――だから俺は、まだ探していた。彼女が死を選んだわけを。彼女があの時見つけたものを。
いくら探してもそれが見つかることはないなんて、とっくに分かっていた。でも、見つからないものを探そうとすれば彼女を忘れることはないと思うから。一生俺は、彼女の死に囚われて生きていくことになるのかもしれない。初恋の少女の影を惨めにずっと追い求めて、何も為さぬまま死んで行くのかもしれない。
けれど、それでも構わないと思った。何も見つけられなかった俺が、何かを探そうと思えたのは、間違いなく結のおかげだったから。俺を変えてくれた彼女を追って死ぬのも悪くないと思った。
……だから、俺は一人、答えを求めて彷徨っている。彼女が隣にいないことに一抹の寂しさを感じながら。
(7/30 16:30)
「おじゃまします」
七月三十日。俺は、結の両親の元を訪れていた。
結の母――香苗さんに案内され、居間を通させてもらう。
「座って待っててね」
そう言い残して、香苗さんは台所の方へ消える。結の父は仕事で不在のようで、今この家には俺と彼女しかいないようだった。
「…………」
俺がここに来たのは、『何か』を知りたかったからだ。形のない、結の見つけたもの。それがこの家にあるかもしれない。そう思った時には、何も考えずこの場所に来ていた。
運のいいことに、結の葬式で「結の彼氏」として言葉を交わしていた俺を、香苗さんは快く家に入れてくれた。……友人と言わなかったのは、関係が弱いと思ったのか、それとも見栄えのためか。どちらにしろ、また嘘が一つ重なったことを自覚する。が、『何か』を知るためにはなりふり構っていられなかった。俺は、知らなきゃいけない。彼女の死の意味を。
一分ほど待っていると、お茶の入ったコップをトレイに乗せた香苗さんが戻ってきて、机を挟んで対面に座る。
「はい。良かったら飲んで」
「ありがとうございます。……すみません急に来てしまって」
「いいのよ。葛原君が来てくれて、結も喜んでるわ」
そう言って彼女は朗らかに笑う。自分の悲しみに蓋をして笑える人の強さを、俺は量ることができなかった。大切な人を喪う重さを理解することなんてできなかった。
……俺は、その優しさにつけ込むことになるのだろう。思い出したくもないはずの辛い記憶を聞きだし、意味のない理由を知るために彼女を悲しませる。
それは、人のすることじゃなかった。結を失った香苗さんにやっていいことでは決してなかった。それでも、俺はどうしても知りたかった。この問いが、自分の中で固まりつつある考えを左右する、大事な選択だと思った。だから――深呼吸してから、俺は話を切り出す。
「香苗さんから見て、結はどんな人でしたか?」
(6/30 17:30)
最初に言ってしまえば、俺の問いによって香苗さんが涙するようなことはなかった。一時間ほど前と変わらない笑顔で、結との思い出を、彼女から見た結のことを語ってくれてた。もしかするとその内心は複雑な感情が渦巻いていたかもしれないけれど、俺がそれを察することはできなかった。涙を隠していたのか、悲しみすら笑みに変えていたのか。どちらにしても彼女には感謝してもしきれないし、謝らずにはいられなかった。
「――ありがとうございました。あと、すみませんでした」
「何で謝るのよ? 私は楽しい話ができてよかったわよ」
彼女はそう言って笑うが、やはり俺のしたことは正しいことではない。称賛されることでも決してない。
……やはりと言うべきか、香苗さんから語られた結には、俺の知らないところが沢山あった。当然だ。どれだけ近くにいても誰かの全てを理解することなんてできはしない。ましてや他人に興味のない俺なんか尚更だ。
香苗さんの話の中で最も驚いたのは、彼女の思いがけない一言だった。
「……そういえば、あの子があなたに話していないことがあると思うのよ」
「あの子はね、治らない病気を患っていたの」
……そんな様子は少しだって見せていなかった。嘘なんじゃないかと思ってしまうほど、現実味のない言葉だった。
香苗さん曰く、結が病名を告知されたのが二年前。原因不明で、徐々に患者の体力を奪っていくという「老衰」に近い症状を持ち、この病気を発症した人は皆、眠るように死ぬ、というものだったらしい。
結が今年、かかりつけ医から受けた余命は、二ヶ月。――それは、結が命を絶った日と、重なった。
……何も信じられなかった。何も考えられなかった。脳が動きを止めたみたいに思考が停止し、喉から声が出なくなって、ただ呼吸だけを繰り返す。
「あの子は「最後まで好きに生きたい」って言って入院を断ったわ」
「だから私も結の意思を優先したの。あの子に笑顔でいてほしかったから」
それが、あいつの自殺。最後の最後まで生きた証。
……俺は、何をしていたのだろう。彼女の苦しみにも気付かずに、おこがましくも生きる意味を探していた。死の恐怖に、少なからず怯えていた彼女に、何一つ声を掛けてやれず、最後の最後まで何も知らずのうのうと生きていた。
「……大丈夫、葛原君?」
香苗さんの声を聞いてはっとする。気づけば、彼女が俺の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
「……はい、大丈夫です」
平常心を装って、なんとか笑みを作って答える。
「そう、ならよかった」と香苗さんは呟いてから、部屋にかけてある時計を見て、
「あ、もうこんな時間。夕食つくらないと。葛原君も食べていく?」
「いえ、大丈夫です。……あの、帰る前にお焼香を焚かせてもらえますか?」
彼女の了承を得て、仏壇の前に座る。遺影の中の彼女は、たまに見せた、少しはにかむような笑顔をしていた。その笑顔はもう二度と見れないけれど。
(7/30 17:50)
帰るために玄関で靴を履いていると、見送りに出てくれた香苗さんが、思い出したようにポツリと呟く。
「そういえば、あの日、結宛てに電話が掛かってきたのよ」
何か、厭な符号があった。気づいてはいけないことに、気づいてしまった気がした。
だから俺は、恐る恐る問う。
「……その相手は――」
「秋園泉って名乗ってたわ」
終わらせる前に、一つだけやっておかなければいけないことが増えたようだ。
彼女に聞かなければいけない。
あの日のことを。
結のことを。
――秋園。お前はあの夜、何をしていた?