結の手紙
彼女が遺したもの。
(8/2 10:30)
長い、夢を見ていたような気がした。徐々に明けていく視界の中で、ぼんやりと見た夢の内容を思い出す。
――屋上と結と僕。懐かしい記憶の断片。もう二度と言葉を交わせない彼女との小さな思い出。
意識が次第に覚醒していき、明確だった夢の内容も薄れていく。彼女に置いていかれるみたいで、とても悲しかった。
「…………」
知らない天井だ。白く淡い光を放つ電灯が視界に映る。……ここは、病院だろうか。だとしたら僕は、死ねなかったらしい。失敗だ。結が出来て僕が出来なかった理由なんて幾らでも思いつくけど、やっぱり僕は最後まで、弱くて臆病な人間だったのだろう。
ゆっくりと辺りを見回すと、誰かの目と視線が合った。僕と似た顔立ちの男女。見慣れた人だった。
「……父さん、母さん?」
掠れた声でそう言うと、彼らは驚いた顔をした後、すぐに僕の手を掴んでくる。……何で、泣いてるんだよ。普段はちっとも泣かない癖に。
両親の顔をぼうっと眺めていると、慌てたように医師や看護師が病室に入ってくる。僕が起きたぐらいで皆驚き過ぎだろう。そんなにすごいことでもないだろうに。
……こうして僕は、ロクに死ぬことも出来ずに、今も生きている。
(8/2 14:00)
結局のところ、僕が足を複雑骨折したのは、「ついうっかり学校の屋上から足を滑らせただけ」ということになっている。僕がそうした。……無理のある言い訳だとは分かっているけれど、自分が結の後を追って死のうとしたことは、誰にも話す気はなかった。自分だけが知っていればいいと、そう思った。
会社を休んでまで、僕が目覚めるのを待ってくれていた両親は、僕の言い分に完全には納得してなかったけれど、「生きていてくれればそれでいい」と最後には言っていた。もちろん、たっぷりと説教はくらったけれど。
意識のなかった僕の面倒を見てくれた医師曰く、僕は飛び下りた時に奇跡的に足の方から落下し、着他すると同時に、骨が折れた痛みに耐えかねて気絶したらしい。……着地する瞬間までは覚えているけれど、まさかそうなっていたとは思わなかった。死ななかったことが不思議でしょうがない。
両親が帰ったあと、入れ替わる形で級友がぞろぞろと病室に入ってきた時は、さすがに驚いた。何故か幼馴染の葵に至っては、涙を流して抱きついてくる始末だった。……愛されているのだろう。それぐらい僕にだって分かる。今の人生が自分にとって幸せでなくても、決して不幸せなどではなくて、余りあるくらいの愛を注がれていることは間違いないのだから。ただそれが、僕の求めた『生きる幸せ』でなかっただけ。
騒ぐだけ騒いで帰っていった彼らを見送った後、最後に病室に入ってきたのは、結の母である香苗さんだった。
「すみません、わざわざ来てもらってしまって」
「いいのよ。葛原君が入院したって聞いて、慌てて来ただけなんだから」
彼女は相変わらずといった様子で、柔らかい笑みを浮かべながら僕の容態を聞いたあと、肩にかけていたバックから、何の変哲もない白い封筒を取り出した。
「何ですか、それ?」
思わずそう聞くと、彼女は複雑そうな表情を見せた後、
「結が、あの日の前日に、『悠斗が入院した時に渡して』って言って私に預けてきたものなの。……受け取ってもらえる?」
差し出された封筒を受け取って、中身を確認しようとすると、香苗さんが、
「見られたくない内容かもしれないし、今日は帰らせてもらうわね。またお見舞い来るから」
そう言い残して、颯爽と病室から去っていってしまった。……何から何までお世話になってばかりだ。ただただ頭を下げるしかないな。
「…………」
誰もいなくなって静穏とした病室で、僕はそっと息を吐く。手元に残っているのは、結が残した封筒だけ。「入院した時に渡して」というのは、この封筒の中身が、一度入院した僕にしか分からないものだからだろうか。
――何が、書いてあるのだろう。
僕に言い忘れた伝言か。それとも平然と生きている僕への恨み言か。楽しみでもあったし、怖くもあった。けれど、読まなければ何も始まらない。そう思って僕は、封筒の中身を開けてみる。
中に入っていたのは、これまた何の捻りもない、無地の折りたたまれた紙一枚。手紙……ということなのだろう。女子力の低かった結らしい贈り物だ。せめて、もう少し色合いのある紙を選んでほしかった。
思わず表情が緩むのをどうにか抑えて、僕は手紙を広げ、それに目を通した――
『拝啓。この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもう、この世にはいないのでしょう。手紙なんて滅多に書かないから、拙い文章になるだろうけど、そこは気にしないでください。(敬語も面倒だからやめるね)
……はい。堅いのはナシにして、書きたいことを書くよ。伝えたいことがいっぱいあるから。伝えなかったことも沢山あるから。
私は、あなたが好きでした。
どうしようもないくらい、あなたといる時間が幸せでした。あなたの笑顔が好きでした。
でも、弱い私には、あの日、あなたにそれを伝えられませんでした。だから、今の私が伝えます。もうこの世にいない私なら、素直に伝えられるから。
私は、あなたのことを愛しています。心の底から、本当に。
あなたと行った遊園地も、あなたとしたカラオケも、あなたと見た星空も全部、あなたがいなかったら楽しくなかった。あなたがいてくれたから、今を好きになれました。あなたが私を変えてくれました。
修学旅行にも行きたかった。結婚して子供と遊びたかった。あなたと愛し合いたかった。将来とか、夢とかのことも考えたかった。
全部、あなたが気付かせてくれたんだよ。私に生きる理由を与えてくれたのはあなただった。
……病気のことはごめんね。これだけは誰にも知ってほしくなかったんだ。弱い私は、本当の私じゃないから。
死の期限が決まっているのって変わった気分なんだよ。自分は元気なのに、筋肉だけは次第に弱っていくの。体は動いても、細胞とか骨だけは見えないまま壊れていくんだ。怖かったよ。気付かない内に命が吸われていくみたいで恐ろしかった。病気の前じゃ才能なんて役に立たなくて、ただ辛かった。
だから、私は探してたんだ。死ぬのは怖いから。死ぬまでに少しでも幸せを感じていたかったから。
生きたかった。死にたくなかった。生きていく意味も、死にたくない理由もなかったけれど、ただそう思った。そして、彷徨って、足掻いて、あの屋上に辿り着いて――私は、あなたと出会った。
あなたと初めて会った時、私が最初に感じたのは、私とは違う『危うさ』だった。あなたは、この世界の全てに飽きていたから。希望も渇望もなくて、ただ緩慢と日々を過ごすその姿を見て私は、私の死への恐怖と同じぐらい怖いものをあなたに感じたんだ。
私は、死にたくないから幸せを探してた。だけどあなたは、生きるのが退屈だから幸せを見つけようとはしなかった。真逆だった。あなたは何も持っていなかったけれど、私は持っていた物の価値すら気づかずに、ただ当てもなく何かを探してた。
『すぐそばに大切なモノがある』。そう気づかせてくれたのはあなたなんだよ。あなたが、生きていくことの意味を、私が生きたい理由を与えてくれた。
あなたは、あなたが思うより、ずっと強いと思う。私はそう思う。無責任かもしれないけど、悠斗ならきっと、何かを見つけられる。だって、私の好きだった悠斗だから。絶対に。
だから、死ぬことだけはやめて。私は、あなたのおかげで笑うことができた。辛いことも、苦しいことも、楽しいことも、生きていたから感じれた。その大切さを、愛おしさを、あなたと知った。
私は今、笑ってる。だから、笑って。精一杯、今を生きて。私が出来なかったことを沢山して、今を生きることを楽しんで。私の分まで、幸せを見つけて。
頑張らなくても、泣いても、迷ってもいいから、最後は私のことを思いだして、笑って。それが、私の願いだから。
大切なあなたに伝えられることは、これぐらいしかないけど、私は、私の愛しい人の幸せをずっと願っています。
優しくて、不器用で、大好きな悠斗へ。 結より。』
――そこに書き綴られていたのは、紛れもない、結だけが知る苦悩と、彼女から送られた、二週間遅れの告白だった。
「――――」
勝手だ、と思った。伝えたい気持ちだけ一方的に伝えて、僕には何一つ言わせてくれない。こっちの事情も関係なしに「笑って」なんて言われても、笑うことなんて出来やしないのに。君のいない世界で笑うことなんて出来ないのに……。
「ちくしょう……」
最後まで彼女は、僕を振り回してばかりだ。屋上に連れ出されていた一年前と何も変わらない。変わったのは、僕が涙脆くなったことぐらいか。
――あぁ、何でこんなにも涙が出るのだろう。
泣きたくないのに。せめて、君の告白の時ぐらいは、笑って聞いてあげたいのに。
泣き止もうと何度顔を拭っても、涙は勝手に溢れていく。零れ落ちた水の雫が、ベットを次第に濡らしていく。
――好きだった。ただどうしようもなく、僕も君を愛していた。
君の笑顔も、声も、優しさも、何もかもが大切だった。何一つ忘れたくなんかなかった。ずっと傍にいてくれるだけで、それが僕の生きる理由になったのに。
――僕の声はもう、彼女には伝わらない。僕はもう、君とは笑い合えない。
その事実が、痛いほど苦しくて――
誰もいない病室で僕は、声を押し殺して泣き続けた。