笑うために
そして――
(7/30 24:00)
夜の風が、いやに冷たかった。秋園の言葉を聞いて、俺は、結の思っていたことを知ることができた。彼女の強さと優しさを知った。
――愛されていたことを知った。
喜びと温かさと、それ以上の喪失感が心を強く締め付ける。様々な感情が頭の中で渦巻いて、まともに思考を続けられなくなる。少しでも気を抜いてしまえば吐いてしまいそうだった。
――苦しめたのは、俺だ。
言うまでもなく、彼女に自殺を選ばせたのは俺だった。殺したのと何も変わらない。残りの未来を、俺と出会ったばっかりに摘み取ってしまった。
――全て、間違いだったのかもしれない。俺のしてきたことも、俺の抱いた想いも、何もかも。
そんな思考を遮ったのは、どこか苛立った口調の秋園の声だった。
「……あんたが、何を考えてんのかは知らないけどさ」
大切な何かを侮辱されたような、煮え滾った声。それは、これまでの彼女怒りとは全く違うもので――
「あいつは、あんたが好きだった。名前は出してなかったけど、絶対に。……それだけは、伝えとく」
「…………」
俺は、どうすればよかったんだろう。何が正しくて、何が間違っていたのか、もう分からなかった。
――ただ、愛されていたことが嬉しかった。
結は、僕の人生に『色』をくれた。退屈でどうしようもなかった人生に、生きる意味をくれた。
好きだった。ただ好きだった。恋人になれなくても、想いが伝わらなくても、傍にいてくれるだけで十分だった。笑っていてほしかった。
僕を変えた彼女は、もう、どこにもいない。二度とあの声を聞くことはできない。彼女と笑いあうことはもう出来ない。
――僕はもう、笑えない。
そう思った時には、無意識の内に体が動いていた。屋上の隅まで駆け寄って、いつも体を預けていた手すりを乗り越える。当然、転倒防止の柵はない。少しでも足を滑らせれば、この屋上から下へ真っ逆さまだ。ここは四階。上手く着地さえしなければ確実に死ぬ。着地したとしても、足の骨はバラバラだろうけど。
「あんた……何してんの?」
僕の後ろで秋園が、理解できないというように呟く。これから僕がどうするかなんて見れば分かるはずだ。結と同じだ。今から飛ぶだけだ。――ただ、死ぬだけだ。
意外にも僕は怖くなんかなかった。足も震えていないし、目前に広がる闇を見ても、声は上擦ったりしなかった。
「……僕は、ずっと思ってたんだ。この世界はどうしようもなく退屈だって」
結と出会うずっと前から、理不尽なほど変わらない日常を、ただ怠慢に僕は過ごしてきた。誰の言葉も薄っぺらくて、何もかもが色褪せて見えた。嬉しいことも悲しいこともどれ一つとして他人と共感することは出来なくて、笑うことも、笑いたいと思うことも一度だってありはしなかった。価値観も考えもズレていたこの世界は生きづらくてしょうがなかった。他人の意見も視線も全てかなぐり捨てて、誰もいない場所に生きたいと何度も思った。死にたいとすら本気で思っていた。
だから僕は、この屋上へと足を踏み入れた。そして――結と出会った。
「僕は、笑いたいんだ。死んで、この笑えない世界から抜け出したいんだよ」
彼女がいたから僕は生きる意味を見つけられた。結がいたから僕は笑うことができた。あの不器用さを、優しさを、笑顔をもう二度と見れないのなら、生きていて何の意味があるのか。そう思った。
きっと、いつかは忘れてしまう。どれだけ彼女との思い出を大切に胸に仕舞っておいたとしても、月日が経てば、それは朧気にしか思い出せなくなる。
――そんなのは厭だった。
生きていくために必要なことだけを機械的に頭に詰め込んで、本当に大切にしなきゃいけないものを忘れていく人生なんて、絶対に送りたくなかった。人が死に、時間が流れ、次第に誰もが忘れていく。仕方のないことだ。仕方がないと簡単に言えてしまう、そんな社会が嫌いでしょうがなかった。
退屈で、下らなくて、結のいない世界は、地獄みたいだった。例え、ずっと彼女のことを覚えていたとしても、彼女が生きることのできなかった人生を、平然とした顔で生きていくのは無理だと思った。
「あいつは、そんなこと望んでなんかいない! やめろ!」
……分かってる。こんなのは間違ってることだって。誰も望んでなんかいないって。僕は狂ってるのかもしれない。でも、生きていることが本当に正しいか? 死ぬことの何が悪いんだ? 平然と大切な人のことを忘れられる人間なんて、生きていない方がマシだ。
「…………」
僕は、必死に叫ぶ秋園に背を向ける。止まることは出来ない。止まる気もなかった。
……今になって気づいたけれど、僕は何故か笑っていた。おかしいな。今から死ぬっていうときに。
笑えてる。僕は今、下手くそでみっともないけど、確かに笑ってる。
――君は今、笑っていますか?
夜の空は綺麗です。
僕もすぐにそっちへ行くから。独りにはさせないから。
「……さよなら」
僕は、飛んだ。