拒絶恋愛
○プロローグ
黄色一色のひまわり畑に僕は佇んでいた。
夏の生ぬるい風が僕の肌に触れる。じわりと汗が額に滲む。脱力した右手に力を入れ、額の汗を拭う。
首からぶら下げているカメラを手に取り、ひまわり畑に向ける。思えば、あの時もこうやってカメラを構えていた。自然にカメラを握る手が震える。
どれだけ僕の生き方がちっぽけだったのか思い知った。僕にとってここ数日の景色は、このカメラのファインダーから覗く景色と一緒だった。
風に揺れる黄色がときどき太陽の光を反射させ、まるで光り輝いているように映る。
カメラのシャッターを切る。
僕は大きく息を吐き、カメラから手を離す。同じ場所で同じように撮っても、あの時のような高揚感はない。
ポケットから、一枚の写真を取り出す。
そこには、黄色一色のひまわり畑に、黒髪で白いワンピースを着た女性が映っていた。思わず力が入り、写真はくしゃりと歪んだ。
また、この景色を見るためにここに来たんだ。
止まった足を動かし出すために。
○一日目
額に煌びやかな汗を滲ませ、僕はカメラを構える。
カメラのファインダーから覗く景色は、黄色一色だった。夏の生ぬるい風が僕の体全体を包み込むように左から右へと吹き抜けていく。
僕が就職してから早いもので、五年という月日が流れた。最初の頃は頑張ろうと意気揚々に夢を語っていた。
出世して偉くなってやると。
しかし、今となってはその出世コースから外れ、寄り添える人もいない。
一人ぼっちの人生だ。
いつから僕は道を間違えたのだろうか。いや、ちゃんとやってきたはずだ。言われたことは正確にこなしていたし、みんなが嫌がるようなことも不満なくこなしてきた。でも、結局何も変わらずに現実は残酷にも僕から時間を奪っていった。
カメラを握る手が震える。
才能がないやつはいつまで経っても平凡なままだ。
僕はいつの間にかひまわりのようにまっすぐ立つことができなくなっていた。眩しいものに目を背けて、暗いところばかりに目を向けている。
思い返してみれば、僕という人間はいつもそうだったのかもしれない。
唯一の趣味のカメラだって、何となくモテそうだからという不純な理由で始めた。いつもそうだ、何かとすることにこじつけて劣等感を感じ、それ自体を楽しめない。
そんな僕が、初めて有給休暇を取った。それも、五日間という微妙な期間である。
休んだところで、特に何もすることのない僕が、有給休暇を五日間取ったところで何の意味もない。ただ、会社に行かなくていいという日が増える。それだけのことだ。
また、カメラに意識を向ける。
黄色一色のひまわり畑は太陽に近づこうと成長を続ける。中には僕の身長を遥かに超えるものもあった。そんな景色を見ていると、この世界を案じているようにも感じた。出来るやつはどこまでも自分を伸ばし続けるが、出来ないやつはいつまで経っても地面ばかりを見つめている。
そうして気がつけば、歴然とした実力差を目の当たりにする。
下に向けられたカメラをそっと持ち上げ、ファインダーを覗き込む。そして、また一枚、また一枚とシャッターを切る。優越としたひまわりが僕にそれでいいのかと語りかけてくる。それに応えるように僕は何度もシャッターを切った。
太陽が自分の頭上に来て、そろそろ今日一番の暑さを迎えるだろうと手で太陽を隠す。視線が太陽から逸れ、ひまわりに再び向けられたとき、僕は運命を迎えた。
黄色一色だったはずのそこに、白いワンピースを夏のその風に靡かせた黒髪の彼女は静かに立っていた。
一目惚れだった。
僕はそっとカメラのレンズを彼女に向ける。
綺麗だった。
黄色と白のコントラストが、互いの良さを引き立たせている。
夏の暑さを忘れた。
僕は彼女とひまわりに夢中だった。
鼓動が高鳴る。
子供の頃によくしていた虫取りのように、取りたい何かを逃がさないように近づく。そして、僕は黄色一色の中で異彩を放つ彼女に声をかける。
「あの……」
彼女は僕の方を振り向く。
「はい……?」
僕には勿体無いほどの透き通る美しい白い肌と二重でしっかりとした目。その綺麗な目が僕を見つめる。
「僕と付き合ってくれませんか?」
自分の口から溢れ出た言葉に驚く。僕みたいな人間は、告白というものをせずに一生を終えると思っていた。
もちろん、僕の言葉に彼女は驚いていた。それもそうだろう、いきなり声をかけてきた冴えない男に告白されたのだから。彼女は複雑な表情で呟くように言った。
「ごめんなさい。今、私は人と一緒にいてはならないの」
僕はその答えにどこか安心していた。いつもどおりだ。普段とは違った行動を取ってみても、結果が変わることはない。
「いや、あなたがという話ではなくてね。これは私の問題で……」
消えていく声に僕は耳を澄ましていた。
彼女は眉間にしわを寄せて、ひまわりを眺めていた。申し訳ないことをしてしまったという罪悪感に苛まれているはずなのに体は動かなかった。
「いや……ね、ちょっとびっくりしちゃってね」
彼女はひまわりを見つめながら口を開く。
「ごめんなさい。失礼なのを承知で……」
その言葉に彼女はこちらを向いて、首を横に振った。
「違うの。私もあなたを見ていたのよ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。相当僕の顔が焦っていたのだろう彼女は笑って、ごめんなさいと謝った。
「私がもう少し……ね」
彼女は俯く。ひまわりが枯れていくような儚さに僕はなぜか不安になった。足元がぐらつくような感覚を必死に耐える。
「もし、あなたがよければ私のわがまま聞いてもらえるかしら」
僕はすぐさま頷いた。
彼女は微笑み、僕の方に視線を向けた。そのとき、僕は少しどきりとした。彼女の表情は笑っているはずなのに泣いているように見えたからだ。
「私はあなたに嫌われるように努力する。そして、あなたは私に好きになってもらえるように努力する……なんて、わがままよね」
彼女はまるで目の前に自分の言った言葉があるかのように手を振ってかき消していた。
「拒絶恋愛」
僕は無意識のうちにそんなことを呟いていた。マイナスをプラスにプラスをマイナスにお互いの想いを拒絶する。もし、彼女といられるのなら、僕はそれでも良いと思った。
「なんだか素敵ね。拒絶恋愛……」
彼女の目は何かを見つめていた。それが僕でも、ひまわりでもないのは明らかだった。
僕は小さく息を吐いた。
「僕が! 僕は……それでも構いません。嫌になったらすぐに関係を切ってもらっても良いので……」
言葉はもっと薄っぺらいものだと思っていた。適当にごまかしたり、繕ったりするための道具だと思っていた。
全然違う。本質を突きつけた言葉はあまりにも痛くて、もどかしくて押しつぶされそうだった。
「ありがとう。私なんかで……よければ」
彼女はどこか嬉しそうでもあり、悲しそうでもあった。その悲しみが今ある僕と彼女との差なら、少しでもいいから埋めていきたい。
「ありがとうございます」
僕はその言葉を噛み締めた。彼女がどこに向かおうと、僕は振り落とされないようにすがりつこうと決意した。
ひまわりが揺れる景色にうもれる彼女にカメラを向ける。彼女は何も言わずにこちらを見て微笑む。
シャッター音とともに何かが始まる予感がした。
後、残り四日。
○二日目
僕の止まっていた時間が動き始めた。あまり現実味のない感覚が彼女との歩くペースを乱す。
今朝早く僕の都合などお構いなしに、彼女から連絡が来た。眠い目をこすり、眠っている意識を起こす間もなく、彼女は場所と時間だけを業務的に伝えて通話は切れた。
恋は盲目と言ったがあれは嘘だ。いくら好きな女性からの電話とはいえ、朝の貴重な睡眠を邪魔されたことに嫌悪感を抱いた。
拒絶恋愛か、と心の中で呟く。
彼女の横顔をちらりと見る。ちょうど彼女の頭が僕の肩あたりにある。昨日と同様に、彼女は白いワンピースを着ていて、そのワンピースから細くて白い腕がすっと伸びている。
「もしかして、会話はあまり上手ではないですか?」
彼女は首をかしげ、微笑んでいた。
「お恥ずかしながら……あまり。何の話をしていましたっけ?」
白い腕が前方に伸びる。
「私はどちらかといえば、話し上手な男性が良かったな。ほら、あそこですよ」
背中に嫌な汗が流れる。幸福が目の前に広がっていると、どうしても不幸なことが起きるのではないかと思ってしまう。そう、あの時のような。
――お前は、ろくた会話もできないのによく会社にはいれたな。
人は当たり前のように人を傷つける。心に負う傷はどんな大きな傷よりも痛むものだ。
乱れた呼吸を整え、彼女の指差すゲームセンターへと向かう。
平日のゲームセンターともあり、人は疎らだった。
彼女はどんどん奥へと進んでいくので、僕もそのあとについていく。
人を好きになるということはそれだけ嫌われたくないという気持ちが強くなる。だから、彼女はこんな僕と一緒にいて良いのだろうかという不安がどこからか沸き上がってくる。
「ねえ……」
「どうしたの?」
彼女は声だけを僕に向け、顔は周りを見渡して何かを探していた。
「僕なんかと一緒にいても大丈夫なの?」
その言葉に彼女は足を止めた。
「それはどういう意味? もう拒絶恋愛をやめたいということなの?」
また悪い癖だと、心の中で舌打ちをした。
「いや、平日なのにお仕事とか大丈夫なのかなって」
「大丈夫よ。今は有給とってるし、それに私がやることなんてたかがしれているしね。あなたこそ、私の心配ばかりしていて大丈夫?」
彼女はそう言って、微笑む。
僕は彼女と出会って、それほど経っていないけれど、彼女はよく笑う人だという印象が強い。そして、その笑顔にも色々な意味が含まれているような気がした。
「そうだね」
彼女の瞳からは生命力が満ち溢れていた。どうしてそこまで強く在れるのか僕にはわからない。まるで僕とは別の人種のように見えた。
「あれとってよ」
僕の袖を引っ張り、指をさす。
そこには、小さなひまわりの人形があった。こんなよくわからない人形で良いのかと思いつつ、僕はお金を入れる。
彼女が神妙な面持ちでそれを見つめていた。ときどき彼女が見せる表情に心臓が跳ね上がる。この表情には、どこか既視感があったからだ。数ヶ月前に僕の働いている会社の一人が自殺した。そいつの見せた表情と彼女の表情が重なるときがあった。そいつも、よく笑う人間だった。
でも、僕はそいつが自殺するまで知らなかったんだ。いつも笑っている人間が裏では泣いているということに。
そいつが自殺する前も僕に微笑みかけていた。いつも通りお疲れ様と言って、その後ろ姿を見送ったのが最期だった。
「やった!」
彼女のその声に僕は我に返った。
無意識のうちに彼女が目当てだったひまわりの人形をとっていた。その人形を大事そうに彼女は抱えている。
「ありがとう」
気がついたら、僕の心の声がこぼれていた。
「死なないよね?」
抱えていた人形が彼女の手から滑り落ちる。その落ちた人形を拾い上げ、彼女は息を吐いた。
「急に変なこと言わないでよ。どういうつもりなの。動揺させようとでもしているの?」
彼女の声はいつもどおりだった。でも、とてつもなく僕の中で嫌な予感がしたのだ。
「ごめんなさい。変なこと聞いちゃったね。でも、何か辛いことがあったら、隠さないで僕に言ってね」
今更償いのつもりなのかと、自分自身に呆れた。それでも、もうあんな思いはしたくない。勘違いでも何でも、やらないよりやったほうが絶対的に良いはずだ。
「あまり詮索する男は好きじゃないわね」
彼女はそう言って、踵を返す。
何を持って人は、安心するのだろうか。けして、大丈夫だという言葉だけでは安心することはない。彼女がどこへと行ってしまうようなそんな漠然とした感覚だけが僕に残る。
「大丈夫? あまり手をつけていないようだけど」
目の前にあるラーメンはのびきっていた。
「ああ、ちょっと考え事をね」
彼女はそうとだけ言って、止めていた箸を再び動かす。彼女の食べ方はけして上品ではない。けれども、食べたいという欲求がそのまま彼女を突き動かしているような純粋さがあった。
僕にはできない食べ方だ。僕の場合、ラーメンを食べている今よりも、食べ終わった後のことを考えてしまう。食べてしまったという満足感よりも食べ終わってしまったという虚しさが心を支配するのだ。とても不器用な生き方だと自分自身でも思う。
「楽しかった。あなたはどうだった?」
彼女は本当に楽しかったのだろう、今朝よりも声のトーンが高かった。
「ああ、そりゃ楽しかったさ」
僕は心の中がもやもやした。これは今すぐに解消できるようなものではない。
「私は嘘をつく人は嫌いだな……顔は楽しいって言っていないよ。さては、私のことを今更不審がっているんでしょ?」
彼女はまた笑う。目を細くして、口角を上げて、優しく包み込むような笑顔だった。僕はそんな彼女をかわいそうだと思った。
「まあ、そんなことはないけど。確かに、厳密に言ったら、嘘になるのかな……。それより、きみはどうして僕とこんなことをしようと思ったんだい?」
雲に隠れていた夕日が僕の目を攻撃し、彼女の表情を隠した。だから、どんな心境でこの言葉を僕に言ったのか全くわからない。
――私はどこまでも生きたいと思っているからよ。
後、残り三日。
○三日目
「どう、これ素敵でしょう?」
彼女はアクセサリーでも見せびらかすように業務用ロープを僕に見せてきた。
「きみが欲しかったのはこんなものだったのかい?」
彼女は首を縦に振った。
「でも、まだ足りないわ。さあ、次行くわよ。今日はあまり時間がないからね」
業務用ロープは僕に嫌な予感を過ぎらせる。女性がそんなものを使う用途なんてそうそうあるものではない。でも、僕は彼女の自殺を止めるほど彼女を知らない。死んではダメという薄っぺらい言葉に彼女の心が動くとは到底思えない。
次に彼女は文房具コーナーで足を止めた。とくにかわいいペンには目もくれず、感触を確かめては別のペンを取るという行為を繰り返していた。
そもそも彼女みたいな魅力的な人間がなぜ死のうと思っているのか不思議だった。死ぬ理由なんて、きっと僕には想像できない非日常的なものだろう。
拒絶恋愛――もしかしたら、それが答えなのかもしれない。
僕の心中とは正反対に彼女は楽しそうに文房具を選んでいる。
「これにしようかな」
お世辞にも可愛いとは言えない質素なボールペン。僕は何に使うのと喉元まででかかった言葉を飲み込む。
「あとは、これかな。ねえ、これ可愛いとは思わない?」
彼女が手にとったのは四葉のクローバーが描かれた便箋だった。僕は彼女の手を掴んでダメだと言いたかった。でも、それをしてしまったら、何もかもが崩れてしまいそうで怖かった。
「……かわいいね」
なんとか出せたその言葉は胡散臭かった。好きになった人間が死のうとしている現実とそれを止めるだけの力が自分自身に備わっていないことを実感すると、とてつもなく叫びたくなった。
「なんか勘違いしているでしょ?」
彼女はいつもと変わらず微笑む。僕にはその真意が全くわからなかった。
「ちょっと喫茶店にでも寄っていこうか」
彼女は今日買った品物をテーブルに並べて、満足そうな表情をしていた。もちろん、それが何に使われるか想像しただけで冷や汗が出る。
「あなたは生きている中でこれはやりたいってことってある?」
彼女は微笑んでいなかった。もしかしたら、初めて真剣な表情を見たかもしれない。
「海外旅行……とかかな」
「あなたは見かけ通りつまらない男ね。もう少し、非現実的なことを言って欲しかったのに」
彼女は本当に切なそうに言った。そして、今にも泣き出しそうな表情を隠すように何度も外を見つめている。
「今日はさ、本当は早く帰らないといけなかったんだけど、もうどうでもよくなっちゃった」
僕の心臓の鼓動が彼女に聞こえていないか心配になるほど高鳴っていた。このまま帰らせてしまったら、後悔してしまうかもしれない。
「あなたはやっぱり意気地なしね」
彼女はそう言って、笑った。笑いながら、目から水滴がこぼれおちた。僕は息を呑み、彼女の口元に全神経を集中させた。
――私、死のうと思っていたんだ。
後、残り二日
○四日目
昨日は酒でも飲んでいないとおかしくなりそうだった。結局、僕は彼女に何もしてやれなかった。彼女の言うとおり、僕は意気地なしだ。
あの後、彼女は意味深な言葉とともに僕の前から姿を消した。傍観者はなぜ止めなかったのかと激怒するかもしれない。でも、言い訳かもしれないけど、僕の身体が石のようになってしまい動けなかった。
口の中は、胃から上ってくる酸の味がした。二日酔いなのか、彼女のことへのストレスなのか分からないが、とても気分が優れなかった。
いつものように連絡が来ているかもしれないと、スマホを見てみるが、彼女からの連絡はなかった。
僕は着信履歴から、彼女の番号に電話をかけてみるが、虚しい電子音だけが鳴り響くだけだった。
そうだと、彼女の家に乗り込もうと考えるが、肝心の住所を聞いていないことに気がつき、僕は壁を勢いよく殴った。
手から伝わる痛みよりも、心の痛みの方がはるかに勝っていた。
これ以上考えていたら、気が滅入ってしまいそうだと重い体を動かす。台所に行って水をぐいっと飲み干し、いつもとは違うことをしようと、シャワーを浴びる。
浴び終わると、再びスマホを取って彼女から連絡が来ていないか確認したけど、来ていなかった。まさかと、最悪が僕の頭を過ぎり、いてもたってもいられず、スマホでかき集められるだけ昨日から今日にかけての自殺者リストを上げた。でも、これまた肝心の彼女の名前をしらない。
時計の秒針の音が耳にこびりつく。うまく身体に力が入らない。こうやって、人は死に向かっていくのかもしれないと思った。
死は平等に僕らの元にやってくる。でも、それがいつどのようにといった詳細を知る余地はない。だから、その運命を自分で決めようとする人間がいる。
僕は一眼レフのカメラをカバンから乱雑に引っ張り出し、玄関の扉を開けた。この景色を僕は彼女に見せてやれば良かった。彼女のファインダーからはこの景気が見えていなかったのかもしれない。
目の前に広がるのは、ビルとビルとの隙間からこぼれる夕日だった。いつも見慣れている景色だからこそ、僕らはこの綺麗な景色を忘れる。
あの夕日が沈めば、万点の星空が浮かぶ。それを知っていても人はいちいち空を見上げたりしない。僕らはどこか勘違いしているのだ。綺麗なものはそれに見合った困難や苦労を乗り越えないと見ることができないと思っている。でも、それは違う。綺麗なものこそ、日常のどこかにふと転がっているものだ。それを見逃さずに自分のファインダーを通して見ているか、見ていないかという差なのだ。
もしかしたら、このカメラを通して、彼女に生きる力を伝えられたのかもしれない。
僕はスウェットのまま、運動靴の靴ひもをギュッと結んで歩き始める。
生ぬるい外気によって、額に汗が滲む。僕もこうやっていつも気がつく。何気なく素通りする景色をどれだけ自分のカメラに収められるかということに。
それでも昨日の事実は変えられない。もし、彼女がもうこの世界にいないのなら、この景色以上の綺麗なものを見ていて欲しい。
彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。どうして強いふりをしているのだ。笑っている裏では泣いているくせに。強くなくたって、僕は受け止めていたはずだ。
涙が止まらなかった。悔しいも、悲しいも、虚しいも、そんな感情で一括りにできるほどのものではない。
周りの目なんて気にならなかった。初めて、僕は僕自身を知れた気がする。今まで表面だけだったものが、奥深く内部まで浸透していく。
暗いワンルームの扉を開けて、すぐに彼女から連絡が来てないかスマホを確認する。
スマホのランプは点滅していなかった。
そして、そのまま汗をかいた不快な状態で僕は眠った。
後、残り一日。
○五日目
今朝、彼女から連絡があった。
でも、いつものような余裕のある彼女とは違って、一言場所だけを弱々しく告げて通話は切れた。
「……城山病院」
意識が混濁する中で、彼女の声を聞いたためか、どうしても現実味がなかった。念のため、着信履歴を辿ると、今朝の六時に着信があったと記録されていた。
ひとまず、彼女が生きていたことに安心したが、どうして病院なのかという疑問は晴れなかった。渦巻く不安と焦燥が手足に汗をにじませ、頭を重くさせた。
僕は今度こそ彼女の気持ちを変えなければならない。それは僕を好きになってもらうこともそうだが、生きるということも好きになって欲しい。
急いで僕は城山病院の場所を調べ、身支度を整えた。そして、玄関を出る際にカメラをカバンの中に押し込めた。
病院はとても閑散としていた。受付のところで、彼女の病室を訊こうとするが、名前を知らないことを再び思い出し、仕方がなく写真にしておいたひまわりと彼女が映る写真を受付の女性に見せた。
「ああ、川島さんですね。お綺麗な方だったのでよく覚えています。でも、こちらの病棟には今はいないと思います」
僕は眉間にしわを寄せて、どういう意味か尋ねた。
「ホスピス病棟ってわかりますか?」
女性の声色が変わった。明らかに僕の様子を気遣っているようだった。
「あいにく医療の知識は乏しいので教えていただけますか?」
聞かなくとも受付の女性の反応でなんとなく察していた。でも、それを信じたくはなくて、自分の勘違いだと思いたかった。
「……では、ご説明いたしますね。ちなみに、ご家族の方ではないですよね」
「はい、違います」
これからなる予定でした。
「そうですか。川島さんからはそのように訊いてくる男性がいるかもしれないと伺っておりました。では、ご説明致します。ホスピスとはいわゆる終末治療とも呼ばれ、がんなどの病気で末期な状態の患者が治す治療ではなく、亡くなるまで苦痛を軽減させて過ごす治療のことを指します。ちなみに……川島さんはがんのステージ四の状態で、半年前からホスピス病棟に入院しています」
身体の震えが止まらなかった。ずれていた糸がゆっくりと軌道修正され、正しいレールの上に乗った。僕は本当に意気地なしだ。
「…ありがとうございます。それで、病室は?」
「ホスピス病棟の三十五号室です」
僕はひまわり畑のことを思い出していた。一面嘘のように黄色で染まり、風によってなびき、太陽によって光る。ただ、その命は一年通して見ることはない。夏が終われば、自然とひまわりは散り、次の世代へと受け継がれていく。
おそらく、僕は泣いていたと思う。いや、怒っていたかもしれない。どうしてもっと早くそのことを僕に伝えてくれなかったのかと、図々しくも考えてしまった。
――三十五号室、川島千恵子。
僕は彼女の名前も知らなかった。ドアノブを握る手が震える。僕はいつだって、やっているふりをして逃げてきた。どこかその気持ちを正当化しようと言い訳を並べてきた。でも、こうやって僕が本当に向き合うべきものに直面すると後悔する。
――僕にとって生きるってなんだろう。
珍しく開けた後のことは考えなかった。スライドして白を基調とした病室があらわになる。優しい夏の風が吹き抜け、そこには誰もいないということに気がついた。
「川島さんならもうここにいませんよ」
僕の後ろに女性が立っていた。女性は病室と同様に白を基調とした服を身につけ、近所の優しいおばちゃんという印象だった。
「ちょっとお話しましょうか。あちらに少し座れるスペースがあるので」
崩れそうになる足元を必死にこらえ、女性の後についていく。すれ違いざまに子どもが「こんにちは」と声をかけてきた。それはもちろん僕にはではなく、女性に対してだ。
「あの子はね。がんなんです。そんな風には見えないでしょう。私たちもここで働いていて不思議なんですよ。とてもあと数年もしくは数ヶ月の命だとか言われない限り気がつかないです。それほど、終末医療も発展しているという証拠なんでしょうけど」
女性は僕の方を見なかった。
僕は死の宣告を受けることがどれほど残酷なことか知らない。そんな宣告を受けてもなお、あれだけ明るく元気に挨拶できる姿に胸が締め付けられた。
「でも、あの子昨日の夜泣いていたんですよ。時々あるんです。死って誰にもわからないし、最初で最後の体験でしょう。やっぱり、怖くなってしまうものなんでしょうね」
女性は椅子を引いて僕に座るのを促した。僕が座るのを見て、女性もゆったりと目の前に座った。
「川島さんずっと終末医療で行くって言ってたんですよ。でも、ここ最近なにかあったようで、どうにか治したいと急に言い出してね」
僕の目の前がモノトーンになった。
「まあ、状態がなかなか厳しかったからね。治療しても何かが変わるという確率のほうが低いと、医者に何度言われても、お願いしますと頭を下げていたの」
女性の顔を見ることはできなかった。声だけが僕の耳を刺激し、心を四方八方に動かした。
「それで、ついに医者の方が折れてしまって、やれることだけやってみようという話になったの。まあ、それだけならよくある終末医療の患者さんの心の乱れとして見れたわ。でもね……流石にロープを病室のベットの足に括りつけているところを見たときは流石に驚いたわ……」
何かにひびが入ったような気がした。
僕が頷くと女性がひと呼吸おいて再び話し始める。
「おかしいなと思った私は彼女に話を聞いたの。そうしたら、どうしても会いたい人がいると、川島さんは珍しく声を荒らげたの。その日は彼女自身の身体の状態があまりよくなかったから病室で安静という指示が出ていたのよね」
女性は一つ息を吐く。
「……それで、私は色々と頼まれたというわけ。おそらく、あなたがここに来るだろうからって」
女性の手が僕の肩に触れる。
「別に我慢する必要はないわ」
僕はやっと許された気がした。今の今まで彼女が、がんになったのは僕のせいではないかとさえ感じていた。
「これ置いとくわね……」
テーブルの上に女性は何かを置いて立ち上がる。きっと今置かれたものが何か僕はよくわかっている。
――それとね、いつも大事そうにひまわりの人形抱えていましたよ。
せき止めていた感情がこぼれおちた。
「……ちょ……ちょっとまって!」
僕の声は病棟に響き渡った。
「彼女は……?」
――大丈夫、まだ生きているわ。
その言葉にかられるように僕は走り出した。
あと残り少し。
○あなたへ
便箋はクローバーを基調にした緑色。とても綺麗とはいえない折り目と、たどたどしい文字が僕の目に飛び込んできた。
『名前のしらないあなたへ
あなたがこの手紙を読んでいるときはもう私はこの世にいないことでしょう。まず、こんな境遇に巻き込んでしまってごめんなさい。
私はステージ四のがん宣告を受けてから、ホスピスで治療を受けていました。ただ、最近死を待つだけでは退屈だから、なにかしようと思い、なんとなくひまわりが好きだからという理由だけでひまわり畑に行ったのです。それが不幸だったのか幸福だったのか……複雑です。
そこで私はあなたと出会いました。間違えなく私はひまわりよりもあなたのことを見ていました。何かが起きればいいなと無意識のうちに神様に願ってしまったのかもしれません。
あなたは私に話しかけてきてくれた。それも、私との交際を申し出てくれた。それだけでがんが治ってしまうのではないかとさえ思いました。しかし、現実はそう上手くいくことはありません。私は傷つけたくないと思い断ろうと思いました。でも、ダメでした。
だから、私はあなたに嫌われようとしたのです。あなたが嫌いだと言ってくれれば、もう諦めがきっぱりとつきます。でも、これもダメでした。あなたは嫌いになるどころか、私の核心に迫ってこようとするのですから。
そして、気が付けば私はどんどんあなたのことが好きになっていました。私には家族などの身内もいませんから、なるように身を任せようと思っていましたが、あなたとの時間を過ごしたい一心にがんを治す治療に切り替えました。お医者さんには怒られましたが。
でも、どうやらダメみたいです。なんとなく人間はそういうことが本能的にわかります。だから、こうやって手紙を書いているのです。
私は神様に願いました。ひまわり畑で起こったような奇跡が起きて欲しいと。
私はもっといきたかっ……』
手紙の文章はそこで切れていた。便箋には所々黒いシミがあった。そして、そのシミと重なるように僕の目からもこぼれおちた。
○エピローグ
会社には退職することを伝えた。それは誰もが驚いていたが、止める人間はいなかった。
再びカメラを構える。
このファインダーを通して、死のうと思っている人に生きる希望を持って欲しいという思いでシャッターを切る。もう中途半端はやめることにした。終わりを見ないで今を見ようと思う。
たったの五日間。思いを噛み締めるように遠くを見つめる。僕らは常に生きるために死を忘れる。でも、ふとした瞬間にそれは僕らを蝕む。
生きるということはこの五日間のようなことをいうのだろう。何も難しいことではない。
ひまわり畑はそよ風によって優しく揺れる。僕はカメラを構え、シャッターを切る。
そして、止めていた足を少しずつ前へと進める。
僕は光に向かって歩き始めた。
そう、まるで太陽に向けて花開くひまわりのように。
<了>