8.目覚め
目覚めた瞬間、木目調の見知らぬ天井に驚き飛び起きた。背中から汗が伝う。慣れない場所での睡眠だったせいか体が痛い。一呼吸を置き部屋を見渡すと、ようやく昨夜の記憶がスノーの記憶に追いついた。室内に外への窓は無い。それでも明るいのは隣の部屋へ続くドアの丸窓から朝日が差し込んでいるからだろう。左側のドアの丁度向かいの壁にはクローゼットと思わしき大きな引き戸がついている。ベッドと硝子ランプとサイドテーブル、自分が寝ているソファーは同じ物が全部で三つ、机をコの字に囲むように置かれている。家具はそれだけであった。机上に置かれたままのペットボトルに手を伸ばし喉に流し込む。強い酸味が口内を刺激しながら沁み渡っていく。この不快な味には覚えがあった。
「――……スノー?」
名を呼ばれ顔を上げると、ベッドの上でナイトが上体を起こしていた。眠気の抜けきっていない瞳から生理的な涙が滲んでいる。
「ナイト」
ペットボトルを放る様に置き、すぐさま駆け寄る。ベッドに乗り上げ、ナイトの顔を覗き込む。血色も良く、呼吸も正常だ。スノーの顔を鏡のように映す目が細められ、ぷっくりとした唇がゆるやかな曲線を描く。
「元気だよ。心配かけてごめんね」
スノーの質問より先にナイトが答えた。昨晩の記憶はしっかりとあるようだ。気遣う必要性が無いと判断したスノーはいつも通りの冷やかな声で咎める。
「誰が無茶をしていいと言ったんだ」
「ごめんってば。なんかあったかいかもなー? って感じる頃にはどうしようもなくなっちゃったんだよ」
「だからお前と外で仕事をするのは嫌なんだ。わずかに目を離した隙に怪我をしたり、倒れたりする。俺はお前の介護士ではなく仕事上のパートナーだ。潜入はどういった危険性を潜んでいるか分からない以上、もっと慎重な行動を――」
と、そこでスノーの視界にナイトの白い肌が大きく占めている事に気付く。昨夜、介抱の為に解いた帯は車内に置き去りであった。胸元は大きくはだけ、浴衣の下に着用された白い肌着も汗で貼りつき女性らしさのある曲線をなぞっている。
「スノー?」
続きを促す様にナイトが首を傾げ、その動きに合わせて浴衣の襟がなだらかな肩を滑った。スノーは咄嗟にそれを掴むと肩に掛け直し、長く深い息を吐いた。
「とにかくお前は思慮が浅く、無防備すぎる」
ナイトにその言葉の真意が伝わった様子は無い。首を傾げたまま肩に置かれた手を見やり、それからまたスノーを見つめる。
「これでも気を付けているんだけどね。なかなか普通にはなれないや」
「お前の特殊さは分かっているつもりだがな……」
彼女の持つ感覚は、常識の範疇を大きく超えていた。頭ではお互い分かっているつもりなのだろう。だが、結局のところ何一つとして理解していないのだ。彼女の肩を痛いほど掴んでも、込められた想いが彼女にどれだけ伝わるというのだろうか。言葉で、行動で、感情で。あらゆる手段を用いたとしてもこの情報が伝わる事は無い。夜の静けさのような沈黙が続く。
やがて何かを諦めたようにスノーが手を離した。ドアに目を向け、声を掛ける。
「ウィル、いるんだろ? 入って来いよ」
一瞬の間をおいて、ドアが開かれた。医者らしい典型的な白衣を纏ったウィザードはドア横のスイッチを押す。白い照明が部屋を照らし、ナイトが眩しげに目を擦った。
「大人しく立ち聞きするとは珍しい」軽い口調でスノーが茶化す。
「どう邪魔をしようか思いあぐねていただけだ」
無愛想に答えながら、サービスワゴンを部屋に押し入れると机の前に停車させる。ワゴンにはできたての朝食が湯気を上げて載っており、焼けたパンのいい香りが鼻孔をくすぐった。
「おはよう。ウィザード」
ナイトが微笑みかけると、ウィザードは目を見開いたままナイトの待つベッドへ歩を進める。スノーとは逆側のベッドサイドに到着すると、深々と頭を垂れた。
ナイトは困ったように笑い、安心させるようにウィザードの肩を撫でた。
「ウィザードのおかげで私は元気だよ。心配掛けてごめんね。治療してくれてありがとう」
「なんともったいないお言葉……。謹んで頂戴致します。私の力が発揮される事は決して望ましい状況ではないが、ナイトに必要とされるのが私の生きる意味だ。貴女が今日、私を救ったのです。どうか礼を言わせてほしい。愛していると――」
瑞々しい手を取り、甲に軽くキスをする。仰々しいウィザードの所作に二人は慣れていた。
「うん。良く分かったから点滴外してくれないかな。もう邪魔」
「それとコイツに適当な着替えを渡してくれないか。目のやり場に困る」
「承知した」
さっと隣室から必要な物が入ったステンレスの膿盆を持ってくると、丁寧に針を抜き止血する。それから首に掛けていた聴診器を着けると、ポケットで暖めていたチェストピース部分をナイトの首元に押し当てた。首から胸、腹部まで丁寧に押し当てていく。当然服がはだけていくが卑しさ一切感じさせず、医者としての顔を見せるウィザードに欲情の色は無い。一通り聴診を終えると、両手で聴診器を外し枕元に置いた。
「問題無いな。さあ愛しの姫君よ、どうぞこちらへ」
ウィザードがクローゼットの大きな扉を開く。クローゼット内の明かりが自動的に灯り、煌びやかな衣類に彩りを添える。一見して仕立ての良い物だと分かる衣服が整列している様は壮観であった。スノーは呆れたように額に手を当て、ナイトは素直に感嘆の声をあげる。
「すごい数だね。こんなにたくさんどうしたの?」
「全てナイトに着せたいが為、取り揃えた物だ。もちろんサイズはナイトに合わせてあるぞ。おすすめはこのウェディングドレスだな。フランス在住の日本人デザイナー天野由美にオーダーメイドで仕立ててもらった極上の――」
「ジャージでいいよ」
「仰せのままに」
ウィザードの差しだしたジャージは黒を基調とした至ってシンプルな物であった。しかしそのなめらかな光沢を見るに、決して安価なものではないだろう。他のドレスに引けを取らない美しさにウィザードの拘りが窺えた。
服を受け取ったナイトは傍らに立つ二人の男を交互に見つめる。
「じゃあ着替えるから。二人とも、そっち座ってて」
「退室させろよ」
至極真っ当な意見に彼女はきょとんとした表情で首を傾げた。
「面倒じゃん。色々話したい事もあるしさ。私は今更見られて困りはしないし、覗き防止なら相互監視でいいでしょ」
「分かった分かった」
議論するだけ時間の無駄と悟ったスノーがベッドに背を向けるソファーに腰掛ける。ウィザードもそれに倣い、クローゼットを閉めた後スノーの隣に着席した。
しゅるりと衣服の擦れる音にナイトの声が重なる。
「すごく今更だけど、ここってウィザードの家なの? 以前遊びに行った高層マンションと雰囲気違うね」
「一応ここが本邸にあたる。だがここからではアジトも都心からも離れていて不便でな。普段は専らマンション暮らしだ」
「なるほどねー。高層マンションの夜景も楽しかったけど、こっちの静かなお屋敷みたいな雰囲気もいいね」
「気に入ってくれてなによりだ。いずれナイトもここで生活し、愛を育むこととなろう。自分の家だと思って寛いでくれ」
「うん。ウィザードって時々真顔で面白い事言うよね」
ベッドが軋み、とんっと床板が鳴る。着替えを終えたナイトにウィザードが席を譲った。そのままワゴンに乗せられたままの朝食を机上に並べ始める。
「パンケーキ、トースト、サンドウィッチ、サラダ、ハムエッグ、ウィンナー、野菜スープ。飲み物はアッサムティー。デザートにヨーグルトとリンゴを用意してある。病みあがりの身体だ、無理せず食べられるものだけ食べてくれ。コーンフレークやフルーツグラノーラも用意はあるがどうする?」
「ここであるので充分だよ。私はパンケーキがいいな。ソースは何があるの?」
「ジャムにバターにはちみつに。ホイップクリームやキャラメルソースもこちらに全て」
「わー。さっすがウィザード! 分かってるー!」
はしゃぐナイトと対称的にスノーは黙ったまま料理の数々を眺めた。そこらのレストランやホテルの食事よりも出来がいいと見ただけで判断できる。銀製のナイフやフォークも細工が凝っており、曇り一つ見当たらない。文句のつけどころのない朝食であった。
「スー? 具合でも悪いのか」漠然と何かを感じたウィザードが問う。
「いや、問題ない」
スノーの顔を覗き込むように、ナイトが上体を傾けクスリと笑った。犯人を指名する名探偵の如くピンと人差し指を突き出し、図星を突く。
「スノー、めっちゃお米食べたいって顔してる」
「あぁ、失念していた。スーは和食好みだったな。すぐに手配させよう」
「出された物に文句を言うつもりは無い」
ウィザードに座るよう手で制し、トーストを齧り咀嚼する。何も付けずとも豊かに香るバターと牛乳の風味に、スノーは素直に美味いと呟く。呟きを聞いた二人は何も言わずに笑みを交わし、当たり障りのない話題を口にした。
「ナイトはリンゴを食べるだろうか? 私に皮を剥く役目を与えてくれまいか」
「食べたい。うさぎさんにしてくれると嬉しいな」
「任せてくれ」
サービスワゴンの下段にあるウェットティッシュで手を拭い、ナイトの隣にあるソファーに腰掛ける。銀色のナイフと紅玉のように輝くリンゴを手に取りナイフを滑らせた。それを皮切りにウィザードがさて――と前置きをした。
「食べながらで構わないが、昨夜の説明をしてもらおうか。ナイトより、スーの方が全体を見ているだろう? 報告を頼む」