7.夜更け
「着いたぞ。スーは立てるか」
「あぁ」
ウィザードの動きは早かった。すぐに降車し、後部座席のドアを開けるとナイトを軽々と抱きかかえ歩き出す。スノーは彼女の巾着袋と下駄を手に反対側のドアから降車した。焼けたタイヤのにおいとオイルのにおいが鼻を突く。余程急いていたのだろう、エンジンの熱が伝わってくるようだった。
ウィザードに続いて玄関を抜ける。靴を脱ぐスペースは無く、吹き抜けの大きなホールが三人を出迎えた。
「こちらへ」
ウィザードが肘で壁際のスイッチを押すと、同じく壁際にある階段が照らされる。息を吹きかけたら消えてしまいそうな淡い光。照らし出された床板と絨毯は建物の年月を感じさせない清潔感を保っており手入れが行き届いている証であった。古い建物にありがちな鼻がくすぐったくなる埃っぽさも無い。
階段をのぼり二階へ。解放感のある大きな窓から月明かりが差していた。厚い雲の合間からようやく月が姿を見せているらしい。ぼんやりとした暗闇の中、二人分の足音が響く。
「スー、この扉を開けてはくれまいか」
ウィザードの言葉に従い、示された扉のノブに触れる。ひんやりと冷たいノブを回し、部屋の中に進む。扉の向こうはおだやかな闇に包まれており、スノーが数歩進むとソファーとおぼしき家具に躓いた。
勝手の分かるウィザードが部屋の奥にあるベッドまで容易に辿りつくと、ナイトを寝かせる。傍らのアンティーク調のガラスランプが灯された。暖色系の朧な光が部屋を満たす。まるで星の瞬きのようにおだやかで、眠りを誘う光であった。幻想的な光に照らされてなお、ナイトの顔色は優れない。ぐったりとしたまま胸を上下させるだけだ。
「スーには悪いがナイトを優先させてもらおう」
ウィザードは部屋の左側にある扉を開け、隣の部屋から医療器具を運び込む。そのついでと言わんばかりにペットボトルに入った飲料をスノーに手渡した。ラベルの無い飲料はこの光の中では不透明だという程度しか分からない。何かしらの薬剤が入っていると思われるそれをスノーは迷わず口を付ける。ウィザードへの信頼が伺える瞬間であった。
少々舌に甘さが残るが決して不味くは無い。体が求めていた水分に生き返る心地であった。一息で半分程飲みほし口元を拭ってから、ナイトを見やる。すでに点滴による処置が施されており、ウィザードの手際の良さに少なからず感心した。
ウィザードが氷嚢をナイトの頬にあてる。ナイトの長い睫毛が揺れ、今にも零れそうな潤んだ瞳が焦点を探すように移ろいだ。
「…………ウィザード? あれ……わた、し……」
まだ意識も覚束ないのか、声にも力が無い。そんな彼女を安心させるよう、ウィザードは優しく語りかけた。
「今は休息が必要な時だ。全てを委ねて安らかに眠るといい」
「ん……。そっか。よろしく……」
彼女の意識は夢に融け込み、規則的な寝息が現実とは違う時を刻み始める。冷たいタオルで頬と首元を拭うといくらか顔色が良くなったように見えた。
ウィザードが大きく息を吐き、タオルをサイドテーブルに置く。畳まれた白く薄い布団を広げ、彼女に掛ける。それからスノーの方に向き直りソファーに座るよう手で促した。木目調の艶やかなテーブルを挟み二人は向かい合ってソファーに腰掛ける。思い起こせば今日、ウィザードと落ち着いて顔を合わせたのはこれが初めてであった。特徴的な見た目ではないものの落ち着いた品位ある佇まいはいつ見ても美しい。年齢はスノーよりも高いことは明白であったが、いくつかと問われれば返事に窮するだろう。時間の概念に囚われない不思議な魅力が備わっていた。
深い森の奥から響いてきそうなテノールがなめらかに耳を撫でる。
「一先ず安心してくれ。早ければ明日の朝にでもナイトは目覚めるだろう。あとはただ、このまま私の理性が保たれるのを願うばかりだ」
悩ましげに頭を抱えるウィザードをスノーがせせら笑う。
「こんな時でもその変態っぷりは変わらないものだな。患者に欲情するとは医者の風上にも置けない」
ウィザードが眼鏡を押し上げ、真剣な面持ちでスノーを見つめる。長い指を二本、スノーに突き出す。
「二点、訂正しておこう。私は患者に欲情するのでは無く、愛する者の美しき裸体に興奮を覚える至極真っ当な人間であり、決して変態では無い。そしてもう一点。私は医者では無い。情報屋だ」
「並の情報屋は趣味で闇医者とストーカーをやっている訳が無い」
「闇医者は趣味でも、ナイトへの愛情を注ぐ行為は趣味ではない。生き甲斐だ。それに情報屋の仕事は大抵ストーカーじみている。職務を全うしているといえよう」
「あぁ、違いないな」
ややあってどちらともなく笑い声をあげ、ナイトを気遣ってかまたすぐに声を落とす。
「スーも早めに休んだ方がいい。自身の体調の異変は気付いているのだろう?」
いや――と否定の言葉が舌先まで出かかるがぐっと飲み込み、そうさせてもらうと呟くように同意した。すでに緩みきったネクタイを解き、机上に置く。
「ソファーで寝るつもりか? 部屋はいくらでも空いているぞ」
気遣わしい提案をスノーは素気無く断った。確固たる意志を持って首を横に振る。
「ここでないと駄目だ。ウィルにナイトを一晩預けたと知れたら他の連中に袋叩きにされる」
「疑り深い連中だ。いくら私といえど病人に手を出すような真似は月に誓ってでもしないというのに」
やれやれと肩を竦めるウィザードにスノーはまた笑った。そのまま道化師じみた軽い調子で頭に浮かんだ台詞を読み上げる。
「毎夜姿を変える月に誓うだなんて不誠実なロミオ。ロマンチストだなんて聞こえがいいだけ。言葉の裏に潜むあなたの真の姿は飢えた獣だわ」
「これはこれはずいぶんと毒気の強いジュリエットだ。しかしどうか赦してほしい。私が愛するのは夜そのもの。月に誓う事こそ夜への誠実さの証である。改めて誓おう。今宵私は愛する者の眠りを妨げる事は決してしない。私は夜の魔術師だ。夜を愛し、夜と交わり、夜と呼吸しよう。あぁ言葉がいくつあっても足りやしない。愛している? 月が綺麗? そんな陳腐な言葉では足りないのだ。私の愛は、夜の尊さは、誓いも契りも超え――」
ウィザードの言葉を遮ったのはスノーの投げた巾着袋だった。あらゆる面で優秀なウィザードはことナイトが絡むと途端に暴走するのだ。スノーが止めなければ一晩中愛の言葉を紡ぎ続けるだろう。それだけで済むならまだ良いが、その愛を注ぐべき標的が力無く横たわる今、過ちが起きないとは言えない。出来うる限りその気にさせない配慮が必要であった。
ウィザードは巾着袋の中から湿ったハンカチを取り出す。興味深げに片眉を上げる。
「それに染み込んでいる液体の成分を調べてくれ。ナイトからの依頼だ」
「ほう。ナイトからの依頼であれば無下にはできないな」
ウィザードがテーブルの下から試験管を取り出すと、ハンカチを搾った。採取から時間が経過している為、ごく少量が試験管の底に溜まる。しかし量は少なくとも、その白濁とした液体はスノーが受け取った時の状態を保っているように見える。
ウィザードが試験管の口を手で仰ぎ、臭いを嗅ぐ。しばらく記憶を辿る様に黙り込んだ後、小さく頷いた。
「どこかで嗅いだ事のある甘いアルコール臭だ。大よその見当はつく。分析にはそう時間はかからないだろう」
「手がかりになるかは分からないがソーマと呼ばれる代物だ。宗教団体の信者曰く、とても神聖な飲み物で男の血肉から作られており、女が飲む物だと。だが、ナイトによればそんな逸話は無く、インド神話に出てくる興奮飲料としか言っていなかった」
ウィザードが苦々しい笑みを浮かべた。
「男の血肉で生成される白濁液など、私の卑しい発想では一つしか思い当たらない。スーはどうだ?」
「悲しいかな、全くもって同意見だ。特にあの団体の持つ裏の顔を垣間見た俺からすれば、そうとしか考えられなくなっている」
ふと、今頃あの空間では何が行われているのだろうかと疑問が生じる。城野の口ぶりから察するにSMショーの後には男の醜い欲望を具現化したひと時が待っており、めくるめく快楽に耽る事ができるのだろう。現実とかけ離れた淫蕩な宴で振舞われるソーマとはさしずめ、享楽の美酒といったところか。
スノーの思考を見透かしたウィザードがひとり言のように答えた。
「宗教に性的な事柄が絡むのはそう珍しい事でも無い。むしろあって然るべきだろう。精飲を想起させるこの液体もまた同じ。神秘的かつ淫靡な小道具だ。これに精液や麻薬が混ざっていようとも私は驚愕しない。しかし、私が冷静であるには絶対的な前提条件がある」
ウィザードの言葉が途切れると同時にスノーは弾かれたような勢いで顔を上げ、身構える。ウィザードから注がれる視線は痛いほどに冷たく、それでいて荒々しい殺意を帯びていた。
スノーは呼吸するのも忘れ、ウィザードから目を逸らせないでいた。たった一瞬でも隙を見せれば死ぬ。それは疑いようの無い事実として眼前に突き出される。
「私が過ちを犯さぬよう確認をさせてくれ。ナイトはこれを口にしたか?」
「……いいや」
「他の男が薄汚い手でナイトに触れてはいまいな」
「当然だ。俺がそんな事を許す訳が無い」
永遠のように長い一秒が過ぎた。張り詰めた糸が急速に緩む。それに伴いウィザードの殺気も嘘のように消えた。
「杞憂に終わってなによりだ。ナイトの熱中症の件はスーに責任を取らせるつもりは毛頭無いが、それ以外となると話は別だ。なんにせよ、二人が無事で安心している」
スノーがようやく強張った身体の力を抜く。ウィザードから本気の殺意を向けられた点について怒る事はしなかった。仮に自分とウィザードの立ち位置が逆であったならば、同じ事をしていたと断言できるからだ。また、予期せぬ殺意はスノーにとっていい薬となった。城野に対する怒りでいっぱいになっていた思考が、生命の危機に対処する思考に切り替わる。そしてその思考もすでに不要になった。激情や本能の後に残されるのは理性のみだ。当然怒りが消え失せたわけではないが制御が可能になっただけでも大きな進展である。
余裕の現れか、背もたれに身体を預けゆったりと足を組む。
「これだからナイトを現場に行かせるのは嫌なんだ。あやうく身内に殺されるところだった」
彼なりに精一杯の皮肉とユーモラスさを織り交ぜて愚痴をこぼす。
ウィザードもまたリラックスした表情で試験管を揺する。長い指先で弄ばれる試験官は、ともすればワイングラスのようにも見えた。
「彼女を止めるのは無理な事よ。彼女の意見は尊重せねばならない。その為の組織だ。スーが一番知っているだろう」
「分かっているとも。だがこっちの苦労も分かってもらいたいものだ。たまには痛い目に遭って反省してくれればいいんだが……」
「それこそ無理な話だ」
「……だな」
ふいに沈黙が訪れる。ウィザードが天使が通ったと笑った。試験管にゴム栓をし、懐にしまう。
「話し過ぎてしまったな。スーも疲れているのに無理をさせてすまない」
立ちあがったウィザードはベッドに歩み寄る。それとなく点滴の残りを確認し、横たわるナイトを愛おしげに見つめた。身を屈め、甘い声で囁く。
「Good night,meet me in your dream」
返事は無い。それでも満足げにウィザードは微笑み、スノーの座るソファーへと近づく。机上に置かれたハンカチとネクタイを手にドアへと向かう。ノブに手を掛けたまま振り返る。
「ではまた互いの夢が覚める頃に」
「あぁ、夢の終わりに」
蝶番が軋み、ドアが閉められる。のどかな静寂が訪れた。まもなく部屋の電気が消える。おそらく部屋に供給されている電気そのものがウィザードによって遮断されたのだろう。暖かなランプの光が余韻を残して眠りにつく。スノーもまたソファーに全身を預け目を閉じた。視界をちらつく煩わしい物は何一つ無い。
寝る前にシャワーでも浴びればよかったと思考が過るより早く、疲れと睡魔が全身を包む。
夢へと誘う白い手がゆらゆらと揺れ、スノーを見送った。夢すら届かぬ深い深い眠りへ落ちていく。