6.アシスト
墨を流し込んだように暗い外界は肌寒さを感じるほどに冷たく静かであった。空に光は一つも無い。陸と空の境界線はどこにも見つからず、カチカホールからの明かりが無ければ上も下も判別不可能だっただろう。街中とも山中とも言えない中途半端なこの場所は人工的な音も自然的な音も無い。そう、何もかもが存在しない空間であった。そんな中に氷室は躊躇なく踏み込むと、迷うことなく駐車場を目指す。カチカホールに到着した際、城野の車が去っていった方角である。記憶の中でどんどん遠く小さくなってくナンバープレート。耳に残る城野の台詞だけが取り残され、未だ怒りを焚きつけていた。かつてこれほどまでに屈辱的な言葉を受けた事があっただろうか。自身と、内藤。そしてそれを繋ぐ関係性。その全てが蹂躙されるかの如く侮辱されたのだ。頭の中で血が煮え立ち頭痛を引き起こすほどの怒り。行き場の無い怒りのエネルギーは氷室のあらゆる感覚を狂わせる。
その一つが時間感覚。気がつけば駐車場に着いていた。カチカホールを出てどれくらいの時間を要したのか分からない。そのことに気にかけている余裕すら無かった。申し訳程度の明かりを放つガス灯が、整列した車の群れを照らしている。そのほとんどが聖火を学ぶ会のシンボルカラーである赤に統一され、目的の車はすぐに見付ける事ができた。
見慣れたシルバーの車。身をひそめるように端の方に佇むそれに近づくと運転席の扉が開いた。一人分の黒い影は機敏に動き、後部座席のドアを開け二人を迎える。二人が乗り込むとドアを閉め、再び運転席に戻った。
「ウィル、ひとまず国道へ。急ぎだ」
氷室の指示にエンジンが唸り、ライトが正面を照らす。
「承知した。舌を噛まぬよう気をつけるといい」
品位のある落ち着いた声。それをかき消す様にタイヤが悲鳴をあげた。車体が大きく揺れ、氷室は咄嗟に内藤を強く抱きしめる。
「うっ……」
内藤がうめき声を漏らす。かろうじて意識があるのだろう。暗い車内の中であるにも関わらず、彼女の潤んだ瞳と目があった気がした。
「スノー……ごめん」
「馬鹿は寝てろ」
短い謝罪の言葉に合わせた短い非難の声。そこへ重なるように運転席から声が飛ぶ。
「状況の説明を」
「室温の高い所に居た。ナイトが眩暈を訴えている」
「水分補給などの対策は?」
「していない」
「熱中症と見て間違いないだろう。頭より足の位置が高くなるように寝かせてくれ。衣服が緩められるようならそれも」
「了解」
運転席側の後部座席にナイトを寝かせ、助手席側の後部座席に座る自身の膝の上にナイトの素足を乗せた。それから服を弄り、どうにか帯を解く事に成功する。
「スーは平気なのか?」空調を片手でいじりながらウィザードが問う。
「眩暈も吐き気も無い。こいつより遥かにマシだが喉は渇いている」
大通りに面した赤信号を前に車が停まる。すかさずウィザードが振り返った。スノーからは逆光で銀縁の眼鏡のフレームが光って見える。表情はよく分からない。目を凝らす前にウィザードは正面を向いた。
「顔が赤い。スーも座席を倒して安静にすべきだ」
それだけ告げ、アクセルを踏む。スノーは一目で自身の変化を見抜かれた事に苛立ちを感じた。他でもない自分自身に対する苛立ちだ。常日頃から冷静沈着であれとナイトを窘める手前、自らが手本とならねばならないと心がけている。にも拘わらずこの体たらく。頭の中でどう感じようとも最低限ポーカーフェイスは保つべきだ。叱責する自分自身の声が聞こえてくるようであった。
「ひどい侮辱を受けた。顔が赤いのはそのせいだ。すぐに落ち着く。問題無い」
一言一言区切るように答える。ウィザードにというより自分に向けて言った。それから短く鼻を鳴らす。鼻の奥にこびり付いたままの煙草の匂いが城野の言動を忘れさせまいと纏わりつくのだ。
ウィザードはあえて言及せずに沈黙を取り、間を空けてから言葉を紡ぐ。
「ここからなら融通の効く病院よりも私の家の方が近い。それまでに少しでも血圧を下げてくれ。ナイトの治療に専念したい」
スノーからの返事は無かった。ウィザードはじっと耳を澄ましながら待つ。やがてネクタイの緩める音と、短い吐息がかすかに聞こえた。それに安堵したウィザードは運転に集中するようにハンドルを強く握る。
スノーは背もたれを倒すと外の景色に目を向けた。苦しむナイトから目を逸らし街明かりに目を眩ませる。車はすでに大通りから人通りの多い繁華街の中に入っていた。人も車の数も多い。そっと腕時計を確認すると、深夜と呼ぶにはまだ早すぎる時間であった。自身の時間感覚の狂いにようやく気付く。あの非日常的な儀式の時間はとても長く感じられた。軽く目を閉じるだけで網膜に焼きついた聖火が鬱陶しく揺らめいて見える。その動きに呼応するかのようにロビーで遭遇した城野の声がこだました。
耐えかねて舌うちが飛びだす。その程度でやり過ごせる感情ではないがせずにもいられなかった。そこで理性がようやく重たい腰をあげた。別の事を考えさせて気を紛らわせようというのだろうか。渇いた喉がひりついた痛みを訴え始める。クーラーの乾燥した風が原因だろう。汗は引いていたが背や腕に張り付く濡れたシャツが不快だ。苛立つ。何に? もちろん…………。
スノーは目を開く。思考が何度もループし怒りから抜けられない事に嫌気が差したのだ。いつの間にか車は大きな家が建ち並ぶ高級住宅街の中を走っていた。高い塀に囲まれた道を何度か曲がり、門を抜けると前方に一際大きな屋敷の影が見えた。
屋敷内の何処からも明かりが漏れておらず全貌を把握する事はできない。車のライトに照らし出された屋敷はどっしりと構え主の帰還を待つ番人のようだった。重厚感を漂わせる木造建築。昔の市役所か何かを改装したのではないかとスノーは見当をつける。
正面玄関前に車が横付けされ、キーを回す音と共にエンジンが止まった。静寂が耳を打つ。闇の中に放り出されてしまったかのように、音も光も消えてしまう。呆けている暇などないにも関わらず、またしても城野の嘲笑う声がすぐ耳元で聞こえた気がした。