5.想定外
無言のまま崩れ落ちそうになる内藤を受け止め、その身体のあまりの熱さに驚く。浴衣の上から触れるだけでも平常時より遥かに高い体温だ。彼の中の非常警報を鳴らすには十分過ぎた。
「ごめん……なんか、くらくらする」
弱々しい声は喧騒に融けてしまう。氷室は迷わず続行不可と判断を下す。まだ穂村の奇跡のパフォーマンスを見ていないが、後ろ髪を引かれる余裕も無い。腹部に巾着を乗せ、内藤の背と膝裏に腕を通し抱きかかえる。
「おとなしくしてろよ」
「ん……」
内藤を抱えて立ち上がる。観客は皆、ステージに釘つけになっているおかげで、誰一人として振り返る事は無かった。ホールの出入り口の重たい扉を肩で押しあけ、滑りこむように間を抜ける。その勢いのまま風除室も突破し、誰もいない通路へと飛びだした。身体に纏わりついた熱気が吹き飛び、冷たい風が頬を撫でた。空調が効いているわけでもない通路が涼しく感じるほど火護の間は暑かったのだろう。わずかに漂う煙草の匂いが混じった空気でさえも、深呼吸をしたくなるほどに心地よかった。
氷室は軽く息を整えた後、両腕に力を込めて内藤を抱え直す。汗ばんだ手が滑らないように注意を払う。内藤はスレンダーな見た目通り、女子高校生の平均体重を大きく下回っていた。その軽さが返って氷室を不安にさせる。身体が熱を帯びているにも関わらず、顔は青白く、発汗も少ない。閉じた瞼の向こうで、苦痛が彼女の身を焦がしているのが見て取れた。
出口へと進む氷室の足取りは焦りが滲んでおり、走り出したい気持ちと安全に運びたい気持ちがせめぎ合っている事を声高に主張している。
そんな氷室の足を止めたのは一人の男の声だった。
「あれ、どこへ行くの?」
軽薄さの混じった声。ロビーに置かれたソファーから気だるげに立ち上がり、氷室の進路を遮った。咥えていた煙草を指で挟み紫煙を吐きだすと、悪意の見え隠れする笑みを浮かべた。
「だめだなぁ氷室君。可愛い女の子を一人でお持ち帰りなんてさ。送り迎えは僕の役目だろう?」
運転手の城野克司であった。予期せぬ人物の登場に氷室は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何故ここにいる」低い声で氷室が問う。
「なんでって、それはこっちの台詞だよ。お楽しみの時間はこれからだっていうのに結月ちゃんを連れ出しちゃってさー。聖火を学ぶ会の女の子は皆で楽しむのが裏のルールだよ」
「楽しみたいなら火護の間に行ったらどうだ。ちょうど愉快なショーが始まっている」
「おっさんのSMショーの時間だろ? たまに見るくらいで十分さ。だからこうして時間を潰してたってわけ。僕以外の野郎どももこの後来るんじゃないかな」
含みのある言葉の裏に気付けない氷室では無かった。七森の浄火の儀式が終わった後に行われる事。それすなわち性が悦ぶ放蕩的な時間の訪れを仄めかしていた。
露骨に顔を顰める氷室を余所に、城野は煙草を咥え直し、その笑みが隠れるほどの紫煙を吐きだす。
「――で、あんたらは何者?」
紫煙の奥の顔はもう笑っていない。射抜くような鋭い視線が突き刺さる。
「今、祭壇の羊になっている七森ってさ、大学でもどこでも友達作れなくって女を集めらんないからああいう役割をお仕置きとして受けてるんだよね。それなのに突然二人も連れてくるって怪しすぎるでしょ」
疑惑の目を向けられてなお、氷室は動じない。これ以上の問答は不用と判断し、この場を切り抜ける方法を考える。決しては気取られてはいけない。皮肉の混じった笑みを唇の端に浮かべ、淡々とした口調で告げる。
「俺がこいつをここに連れて来たかっただけだ」
一瞬、城野が虚を衝かれたように目を見開く。すぐに合点がいったのか卑しい笑い声をあげた。
「はは。成程。氷室君の特殊性癖って奴? 非日常的なプレイを見せて結月ちゃんの反応を楽しんだんだ。あれを見ただけで足腰立たなくなっちゃう結月ちゃんもとんだ変態だね。それとも、氷室君に仕込まれているのかな?」
醜悪な言動から内藤を守るように氷室は城野を睨みつける。
「察しがついたならそこをどけ。俺はさっさとここを出たいんだ」
「飢えた獣はおっかないねー。本当に余裕の無い目をしてる」
さっと城野が道をあけ、すぐさま氷室はそこを通りぬけた。去り際に城野が心底楽しげな声で呼び掛けた。
「結月ちゃん飽きたら俺にくれよな。君みたいな変態に調教されているなら中の具合もさぞかしいいだろう? お下がりでも大歓迎だからね」
氷室は返事をする事も振り返る事もしない。およそ人のすべきでない悪鬼のごとき顔を隠せる気がしなかったのだ。最優先事項である内藤の身体の事が無ければ、今頃城野の肉体は再起不能になっていただろう。ゆっくりと開く自動ドアを蹴破りたい衝動を抑えながら、正面玄関を抜け外へ出た。