4.講演 儀式
「来たか」
「来たね」
ほんの一瞬、二人の目の色が変わる。決して光の届かぬ深海のごとき闇がサッと駆け抜けていった。その後に残るのは各々が持っていた好奇心と猜疑心に満ちた目だ。目を凝らしていても果たして視認できたかどうか。だが確かに深淵が存在していたのだ。
闇を退けるように眩い光を放つ壇上に一人の男が立っている。肉付きのいい体格の中年男性。その身に纏う白いローブと赤いストールが無ければどこにでもいそうな程である。穏やかな笑みを浮かべる口元にはほうれい線が深く刻まれており、決して崩れる事は無かった。笑顔をかたどった仮面を貼りつけているだけで、心の底から笑っているようには見えない。運転手の城野によく似た笑みだと氷室は感じた。
「穂村光一(55) 聖火を学ぶ会会長。以前の経歴は一切の不明とされているけど、なんてことは無いただの人間。地方の二流大学卒、二流企業勤めの人間だよ。妻子無し。唯一の血縁であった両親は事故で他界。その時の保険金を資本金にして組織を立ち上げたみたい」
頭の中で甦る情報は内藤から受け取った小冊子にメモされていた事だ。くだけた話し言葉の文章を腹立たしく思ったのは記憶に新しい。その時はつまらない情報だと唾棄したが、目の前に当の本人が現れるとこの情報も必要だったと思える。この男が何を語ろうとも戯言に過ぎないと断言できるからだ。
所詮人の子。人の腹に宿り、人の乳を吸って成長する。ランドセルを背負い、学生服を着たと思えばスーツに袖を通す。平平凡凡たる人間だ。神だ火だと喚き始めたのもここ数年の事だろう。そんな人間が紡ぐ言葉に、氷室は動じない自信があった。
「今宵も聖なる火は美しく燃え上がり、夜の闇を祓っている」
どこかにマイクが設置されているのだろう。朗々とした声が唸りをあげる炎よりもはっきりと耳を打つ。ホール内の空気が変わる。全員が息を殺しながら穂村の言葉を待った。
「今日は少しばかり寒い。冬の話しをしよう。冬は寒く厳しい季節だ。世界の光の源である太陽の力が弱く感じる事であろう。空を見上げたとて暗雲に包まれており、降り注ぐ雪が邪に見えるかもしれない。身も心も凍え、ただ震えながら春を待ち望む者も多いはずだ。だが、冬を、雪を恐れることなかれ。降り積もる雪は灰なのだ。火に浄化されし者が煙となって天に昇り、雪の灰となって還ってくるのだ。その冷たさを以て火の恵みに気付かせてくれる、尊い我らが同胞の教えなのだ。我々は火を灯し、肩を寄せ合い暖めあえばいい。冬は火の恵みに感謝する季節なのだ」
わずかな沈黙の後、たき火の様な拍手がホール中に響きわたる。
氷室は鼻で笑いさえもせず、黙ったまま足を組んだ。雪の名を持つ自身が死の灰ならば、自身が死んだその時は一体何になるというのだろうか。そんなくだらない考えを論じてしまいそうになるほど退屈な話であった。
隣に座る内藤が居心地の悪そうに座りなおす。氷室が横目に投げた視線に気付くと、きまりの悪そうな顔で笑った。その頬はいつもより赤みを帯びている。
「ごめんね。スノーって名付けちゃって。死者の灰だなんて考えもしなかったよ」
小声で謝る名付け親が妙に愛おしく見えた。自分の名前に意味があり、価値が見出せた気がした。わざわざ彼女が謝るくらいなのだから。
自分が彼女の手駒であることは理解していたが、彼女の中である一定の地位を占めている事に喜びを感じる。それはまさしく穂村に対する七森の考えと相違無いのだが、氷室は気付かない。
「俺は何も気にしていない。他の誰に言われようとお前の呼ぶ名を名乗るまでだ」
「うん。ありがとう」
口調は変わっていないが氷室なりに言葉を選んだつもりであった。だが氷室のフォローが功を奏す前に穂村の声が響き渡る。
「夜こそ火を。月の光は美しいが太陽無くして輝けぬ。火を灯せ、夜を照らせ、邪を祓え!」
「ひどいディスられようだ。雪はなんやかんや受け入れられてるのにね」
内藤が諦めた表情で肩を竦め、氷室もまた肩入れを諦め、投げやりに言い放つ。
「ここまで相容れない思想は稀有だ。ありがたく賜わるべきだな」
「そーする。ありがたやありがたや」
二人がおどけている間にも穂村の言葉は紡がれていく。講演というよりも演説に近い強制力があった。
「我々聖火を学ぶ会は心身の浄化を修行の一環として行い身の内側に蔓延る邪を祓い、善行利他行を積む事に重きを置いている。自身が犯した罪を告白し罰を受ける事によりその身は清らかなになるだろう。ここに、未だ告白していない罪を抱えし者は名乗りでよ。私が汝の罪を聞き、罰し、赦すことを聖火に誓う」
二人の記憶が芽吹く。足元から黒い茨のように絡みつき、心身を締め上げた。耐えかねて氷室が茶化す。
「内藤、行ってこいよ」
「氷室君こそ。今なら赦してくれるってさ。よかったね」
「告白できたらの話しだろ。前提からして不可能だ」
「だよね」
茨が二人の全身に撒きつき、大輪の悪の華を咲かせるとたちどころに消え失せた。今はまだその時ではないのだ。
「黙って見てるに限る……ね」
「内藤?」
氷室はどこか違和感を覚えつつも壇上から目が離せないでいた。一人の女が身を縮こませながら穂村のもとへ歩いていくのが見えたからだ。
穂村は自身の前で頭を垂れる女を静かに見下ろした。その表情はどこまでも優しく慈しみの心で溢れているように見えた。
「穂村様……どうか私の罪をお許し下さい」
「七森彩愛、汝の罪を告白せよ」
平伏す女――七森が涙を滲ませながら激白する。決壊したダムのごとき勢いであった。
「私は聖火を学ぶ会の服務規律を理解しておりませんでした。具体的に申し上げますと、女性の着用する衣類に金魚柄を選んではいけないと心得違いを致しておりました。金魚は水中に揺らめく炎。水の中でも命の火を燃やす生命の象徴だと諸先輩に示教されました。もしこの間違いが指摘されなければ私だけでなく他の会員様までもが道を踏み外してしまう事態になっていた事でしょう。穂村様、どうか罪深き私を罰して下さい。お願いします」
額を床に擦りつける七森に穂村は間髪いれずに一喝した。
「この不届き者めが!」
鼓膜がびりびりと震え痛みを伴う程の怒号であった。穏やかな顔は消え去り、修羅か羅刹を思わせる顔をしている。その怒りに呼応するかのように聖火が燃えあがった。
「会員にあるまじき行為だ!」
「不作法者!」
客席側から誰かが野次を飛ばす。それをきっかけに人々の口から七森を叱責する言葉が刃のごとく発せられる。
外道、愚者、極悪人、虚け、恥知らず――……。ただなじるばかりでなく、口にするのも憚れるような汚い言葉までもがぶつけられた。七森は平伏したままその一つ一つに喉を潰しかねない大声で返答していく。
「申し訳ありません! 私は無知です! 私は愚者です! 邪に犯された売女です!」
汗と唾を飛ばしながら、会場のボルテージは上がっていく。暑さなのか怒りなのか分からなくなるほどの激しい熱が爆発を繰り返す。七森を罵倒しなければならないと偽りの使命感を焚きつけられてしまう。この炎の嵐の中、黙っていられるのは内藤と氷室だけであった。罵詈雑言のあまりの多さはもはや奇声の応酬である。脳が揺さぶられる程の大音量を止めたのは穂村の一言であった。
「叱咤をやめよ!」
言葉は空間を一刀両断し、人々から声を奪った。しかし静寂は訪れない。今なお燃え続ける聖火の唸り声と人々の荒い息遣いが砂嵐のような雑音となって耳元に纏わりつく。誰かが咳込む。こんな高温の中叫び続ければ文字通り喉が焼けるだろう。ただ座っているだけの氷室ですら生理的な汗が止まらなかった。
「七森彩愛、面をあげよ」
七森の顔は涙や鼻水、汗や唾液でぐちゃぐちゃになっていた。率直に氷室は汚いと感じた。そしてこの流れ全てが聖火を学ぶ会の洗脳行為の一つだと理解する。この後に行われるであろう奇跡のパフォーマンスに先駆けた演出の一部だと予測し、慎重に成り行きを見守る。自分の仕事は教祖である穂村光一の奇跡の力を暴く事。頭の中で念じるように繰り返す。理性を保ち職務を全うしなければならないのだ。
「穂村様……申し訳……あっ、り……せん」
嗚咽交じりの声で七森が懺悔を続ける。喉を痛めてしまったのだろう、掠れた声が同情を誘う。
懺悔を聞く穂村の顔はひどくおだやかであった。幼子に言い聞かせるように優しく語りかける。
「七森彩愛、汝の罪は無知だ。それ以外の驕りや会員を邪の道へ進ませようとしたのは汝の中に巣食う邪がそうさせている。汝は会員の為を思って発言をしたということは分かっているのだ。汝は勉学に励めばいい。正しい知識を持って新しい会員に手解きをすればいいのだ」
「穂村様……あぁなんと慈悲深い。恐悦至極に存じます」
「汝の罪を私は赦そう。そして汝の身に宿りし邪を『浄火』しようではないか」
「はい、ぜひお願いします」
七森は心底幸せそうに頭を下げる。穂村も満足げに頷くと中央の聖火へと歩み寄った。
聖火にくべられている銀の棒を一本取る。それは槍ほどの長さがある耐熱性の金属で出来ているようであった。持ち手は幾何学模様のような彫りが入っており、ホール内を彩る装飾用の松明と同じものであった。
松明を手にし、七森のいる奥のステージへ戻ると、床にあったくぼみにそれを挿した。
「服装に関する規約を乱したというならば服を着る資格が無い。理解できるか?」
「はい……。仰るとおりであります」
躊躇う事無く七森が帯を解いた。襟を広げ肩から胸を露出させると袖を抜き、みすぼらしい上半身を露わにさせた。上前を捲り、右足から丁寧に裾を引き抜き、脱いだ浴衣を軽くまとめて端に置く。規約通り、下着は付けていなかった。
一糸まとわぬ姿となった七森を見て、氷室は眉を顰めた。男を悦ばせる豊満な肉付きではないと浴衣の上からでも十分に予想はできていた。しかしながら七森の身体に刻まれた火傷や青痣の多さに苦い思いが込み上げてくる。
どれほどの仕打ちを受ければ人間の皮膚に華が咲くというのだろう。べろりとめくれた赤い華に、膿んだ黄色の花粉がべったりと付着している。青と紫の蕾は全身に散りばめられ、それらを繋ぐように桃色の火傷跡が茎となって手を広げていた。
誰も七森の身体について言わない。知っていたのだ。七森が贄であることを。
茶番は続く。
「七森よ、汝の身に巣食う邪が今どこにいるのか分かるだろうか」
「いいえ穂村様。邪と交わりしこの穢れた身では、自らの過ちすら気付く事はできませんでした。どうか清く正しき光で私を照らして下さいませ」
「汝の罪は無知だと私は言った。従ってその他に犯した過ちの中に邪がいるのだ。会員を唆し堕落させようとしたの何だ? 嘘はどこから来る? もう分かるな? 嘘つき者が責め立てられる箇所は舌である。舌にこそ邪が巣食っているのだ」
「し、舌……」
七森の全身が恐怖で震える。これから何が行われるのか、全身に叩き込まれている彼女だからこその反応であった。茹だるほどの暑さの中にいるにも関わらず、青ざめ、冷や汗を滲ませる彼女に穂村はどこまでもおだやかな顔つきで準備を始めた。
穂村が懐から一本の赤い蝋燭を取り出し、先端を松明の炎と交差させ火を灯す。その時点で氷室にも察しがつく。目を背けられるならばしたかった。だが仕事をこなすには見なければならない。眉間に皺を寄せ拳を握りしめる。掌の汗がじっとりとしていて不快であった。
「さあ口を開けなさい。聖火の蜜で浄火しよう」
「あ……あぁ……。穂村様!」
七森が口を開き、蝋燭と同じ色をした舌を突き出す。穂村はサディスティックな笑みを浮かべ、その舌へと蝋を垂らした。
――赤い雫が舌の上で弾ける。その瞬間、七森がしゃがれた奇声をあげてのたうち回る。当然の反応であった。SMプレイ用の低温蝋燭だとしても40度よりは高い。それを刺激に敏感な舌に垂らせば拷問と呼べる域の苦痛をもたらす。
苦悶の表情で痛みに喘ぐ七森とは対照的に客席側からは歓声があがる。
「体内の邪が苦しんでいるぞ!」
「さすがは聖火の力!」
「穂村様の仰っていた通りだ。舌に邪が巣食っているぞ!」
「浄火を!」
「邪を祓え!」
喝采に氷室は耳を疑いたくなる。本気でそう言っているのかと一人ずつ問いただしたくなるばかりだ。満面の笑みを浮かべる人々の中にいつの間にか先程ロビーでたむろしていた男達の姿が混じっている事に気付く。火護の間は二重扉になっている為、途中で人が出入りしようとも温度が大きく変わる事無く、講演に集中できる仕組みがあったのだ。改めてホール内を見回す。女性の方が圧倒的に多かった当初と比べて男性が増えていた。そして男性は皆、穂村と同じ性的興奮を滲ませている。敬虔な信者を装った獣達であった。
「七森、頑張りなさい。邪を退けるには汝の強い意志が必要なのだ」
ステージ上では七森が両手で口を抑え、何度も首を横に振っていた。ステージ袖から穂村と似たような服装をした男が二人駆け寄ってくる。おそらくは会の幹部なのだろう。一人が七森を羽交い締めにし、もう一人がペンチで七森の舌を引きずり出して固定した。
「ぎっ! あっ! あがっ!」
七森が涙ながらに助けを求めても、それを聞き入れる者はいない。たとえ舌が千切れても儀式は続くだろう。
「暴れてはいけない。目にでも入ったら大変だろう?」
容赦なく蝋が垂れ流されていく。七森が暴れるほどに蝋が全身に張り付く。顔や髪に、のたうったせいで血を滲ませた傷口に。服を着ていなければ刺すような痛みが降ってくる。穂村は蝋を垂らしながら、空いた手で懐からもう一本蝋燭を取りだした。まだ続けるつもりなのだ。
「悪趣味だな。全く……」
氷室は額に浮かんだ汗はを乱暴に拭い、吐き捨てる。内藤からの返事は無い。代わりに氷室の肩に力無くもたれる。
「どうした? おい!」
内藤の身体が地に向かってぐらりと流れた。