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3.現場検証

「改めましてようこそ聖火を学ぶ会へ。ここ、カチカホールは儀式、講演の執り行いから個々の相談、修行、お祈り、理事に至るすべてを行うための場所でございます。会員の皆様の還るべき場所と言っても過言ではありません。最寄駅からのシャトルバスも朝、昼、夜と運行しておりますので毎日通う事も可能ですよ」


 七森の案内はつい先程車内で動揺していたとは思えない程、はつらつとしたものだった。だがその明るさはこの淀んだ空間には不釣り合いである。むせ返るほどの濁った空気。白い蛍光灯に照らし出されたロビーはもやがかかったように白んでいる。すべて煙草の煙であった。革張りのソファーに座る男達が十人ほど、煙草を咥えたまま自身の携帯端末から顔をあげない。机上の灰皿には多種多様な煙草の吸殻が山のように積み重なっていた。

 こんな退廃的な空間が宗教施設であっていいのだろうかと疑問すら抱くほどの低俗さである。


「今日は私達が最も利用する場所である『火護の間』にご案内いたします」


 七森がいくつかある通路の中でも幅が広く明るい通路へと歩き出す。氷室も後に続こうとするが、内藤の声で立ち止まる。


「七森先輩ごめんなさい。講演が始まる前にトイレを済ませておきたいんです」

「トイレはそちらの通路ですよ。ここで待ってますから」

「待たせるのも心苦しいので先に行って下さい。電気がついている通路を辿ればいいんですよね? それに迷ったら誰かに声を掛けるので大丈夫です」

「分かりました。先に氷室さんをご案内しますね。火護の間は映画館にあるような分厚い扉が目印ですよ」

「承知いたしました。氷室君、すぐ戻るからー」


 やや速足で内藤が暗い通路に向かって歩き出す。リノリウムの床を蹴る小気味よい下駄の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。暗い通路の先は何があるのかよく見えない。突き当たりであろう遥か先に非常口を知らせる緑と白の光が確認できる程度だ。

 冷たく無機質で、心身の健康を保つための死の住処すみか。夜の病院の待合室によく似ていると氷室は感じた。違うのは死臭の代わりに紫煙が漂っていることぐらいだ。


「では氷室さん、参りましょうか」

「……あぁ」


 二人分の足音が響く通路。ロビーの煙たさは無いが、不快な臭いは鼻にこびり付いたままである。氷室がどうにか臭いを取り除こうと、長い息を吐く。


「悩み事ですか?」


 七森が吐息を言葉で繋ぐ。目ざといと感じる反面、仕事上のコミュニケーションを取る事を優先させ、リレーを続ける。


「悩んでも答えが無い事ばかり考えている。そんな自分に嫌気がさしているだけだ」

「それはお辛いですね。けれど穂村様のお話しを聞けば、きっとその気持ちも晴れますよ。私も聖火を学ぶ会に入会するまでは自分を責めてばかりの日々でした。どうして私は彼を不幸にしてしまうのだろう。どうして自分は無力なのだろうと、そんな暗い思いをずっと胸に抱えておりました。ですが、穂村様は有りのままの私を受け止めました。受け止めたうえで私が正しい道を歩けるように時に優しく、時に厳しく指導をしてくれます。穂村様は分け隔てなく会員の方々に接しておりますが、私は特別その寵愛ちょうあいを受けていると思うのです。おごりである事は自覚しているのですが、それが私の光と命の源、生きる意味なのです」


 うっとりと恍惚の笑顔を浮かべ七森は語り続ける。

 聞く価値が無いと早々に見切りをつけた氷室はただひたすらに歩を進めるばかりだ。余計な事は考えまいとしているにも関わらず、頭の中は膨大な思考で埋め尽くされている。

 やる気の出ない仕事。氷室にとって採算が取れるかどうかが大きく要因する。七森の教祖に対する愛という情報が何の役に立つというのだろうか。聖火を学ぶ会やこの仕事の要である穂村という男の情報ですら、報酬金を受け取り仕事が完了すればすぐに忘れてしまうだろう。これらの情報は全て今回の依頼人以外に取引相手がおらず、今後利用価値の無い情報に成り下がるからだ。これよりも有意義な時間の使い方や利用価値の高い情報などいくらでもある。内藤のように穂村が持つ奇跡の力に興味を持てていたらまた違っていたかもしれないが、氷室の知的好奇心を刺激するようなものでは無かった。


「穂村様はいつだって正しいんです。穂村様のなさる事や仰る事には必ず意味があって、私の様な無知な者にも分かりやすくお話しをしてくれるんですよ。穂村様は本当に素晴らしい方なんです。穂村様はまさに太陽。穂村様は――」


 七森の耳障りな賛辞も相まって、氷室の苛立ちはピークに達している。今すぐにこの仕事から解放されるなら多少の手荒な行為もいとわない自暴自棄な気分になっていた。


「ふふっ。まーたそんな顔してる」


 聞き慣れた声にハッとし、俯きがちになっていた顔を上げる。しかし彼女の姿はどこにもなく、ぜんまい仕掛けの木偶でくが穂村穂村とわめいているだけだ。


「どんな仕事でも楽しもうとうする心持ちが大切だよ。こーんな面白い人形が完成してるんだしもっと興味を持ってみたら?」


 姿の見えない彼女が飄々ひょうひょうと宙を舞いながら笑う。冷たく活発で、触れれば痛みを伴うドライアイスの声。それはいつの間にか自身の声と重なり完全に溶けあう。そこでようやく氷室の中で一つの結論が導き出される。単純明快な答えだ。

 ただひたすらに七森を見下みくだしたい。欲を言うなら彼女の信仰の全てである『穂村様』のもつ奇跡の力を暴いて彼女の眼前に叩きつけ、彼女の世界が破滅する様を見たいのだ。それが氷室の答えであり、内藤が彼女を懇意にする理由でもあった。氷室の中のわだかまりや苛立ちが泡沫うたかたのように消え、渇いた笑いが唇の端から零れる。


「楽しそうな仕事じゃないか」


 彼にしか聞こえないその声は0と1に還元され、それっきり聞こえなくなった。


「こちらが火護の間です」


 七森が分厚い扉を押して、中へと招く。むっとする熱気に包まれた風除室に入り、背後の扉を閉めると、その先にある扉を開けた。

 真っ先に視界へ飛び込んできたのは燃え盛る炎の光であった。浅いすり鉢状のコンサートホールと同じ構造で中心部の円系ステージに猛々しい炎が唸りをあげて燃えている。むろんその熱気はたき火の比では無い。気密性の高いホール内に熱気はこもり、壁際や通路の要所に柄の長い松明が掲げられている。サウナと同じかそれ以上の暑さであった。またホール内の人口密度も熱気と息苦しさの要因の一つだろう。ざっと数えただけでも百余り。数年の内に結成されたばかりの宗教団体であることをかんがみるに、決して少なくない人数だ。一様にこちらに背を向けているが服装の規定の為男女比がすぐに分かる。およそ3対7。女性会員が圧倒的な人数を誇っていた。


「あそこに御座おわしますのが聖なる火。私達のシンボルであり、全ての根源であります」


 より一層熱のこもった声と眼差し。あたかも最愛の恋人がそこにいるのだと言っているようであった。通路や壁にある松明以外照明らしいものはなく、嫌がおうにも視線が聖火に誘導される。銀色の火盆に乗った聖火は見ているだけで目が焼けそうな程眩しい。氷室は無理矢理視線を外した。


「座席は決まっていませんので、どうぞ前の席へ」

「いや、内藤がまだだ。俺はここで待つ。どうぞお構いなく」

「あぁ、そうでしたね。それではこちらをどうぞ」


 七森が片手をあげ、近くにいた男を呼びとめる。男は快く手に持っていた盆に並べられている紙コップを差し出した。


「講演前や講演中にこちらをお飲みになって下さい。心身を浄化する為の神聖な飲み物です」


 手渡された紙コップの中には白の半透明な液体が入っており、聖火の瞬きが映し出されていた。続け様にもう一つの紙コップが差し出される。こちらはコップの底が見えないほど白く濁った液体が並々と注がれていた。


「こちらの白く濁った方がソーマと呼ばれる飲み物です。ソーマは神々の力が宿る神聖な飲み物で、男性の血肉から生成されていると考えられています。つまり男性には元から備わっている力ですので氷室さんには不要でございます。こちらは女性が男性のような力強い生命力を授かる為に飲むものですのでぜひ内藤さんに渡してくださいませ。男女平等が聖火を学ぶ会の素晴らしいモットーです」

「分かった」


 零さぬようしっかりと受取り、頷く。七森は一礼するとステージに近い座席へと進んで行った。氷室もまた、出入り口付近で立ちすくむ訳にはいかないと考え、後方の会場全体が見渡せる席に腰を下ろす。傍らにコップを置き、ゆっくりとあたりを見回した。

 座席といっても映画館の様なシートが付いている訳ではなく、幅の広い階段に赤い座布団が置かれているだけの簡素な造りであった。赤い座布団が置かれていないスペースを通路として認識しているようである。氷室はしばらく出入り口の人の流れを見ていたが内藤の姿は無く、自然と人の流れの先にあるステージに目を向けていた。先程正面から見下ろすように見ていた時には気付かなかったが、ステージは大きく分けて2種類の形をしていた。一つが聖火が鎮座する円形のステージ。それは後方にある長方形のステージからせり出している部分であった。後方のステージ部分の方がやや高い位置にある為、二つのステージを繋ぐ花道は短いながらも緩やかに傾斜していた。後方のステージの中央に人が立てば、七森のいる最前列の中央席では聖火の上に立つ神々しい人物に見えるだろう。そういった細やかな舞台効果も奇跡を演出する為に利用しているはずだと検討をつける。教祖の奇跡は投影機器を使っている可能性も大いにあり得た。

 思案の為、無意識に顎に手が添えられる。と同時に手首がネクタイの結び目にわずかに触れた。会場の熱気と息苦しさもあってか、固く締めた結びをわずかに緩め、小さく息を吐く。


「なーに、またため息ついてるの?」


 いつの間にか隣に腰かけていた内藤が笑った。咄嗟にその頬を掴み、実体を確かめる。柔らかなひと肌の暖かさがまぎれもない証拠となって伝わった。


「いつからいた?」

「んー。たった今と言って差し支えないよ。氷室君が聖火を見ながら脱ぎ始めたあたり」

「脱いでないだろ」

「ネクタイを緩めたからてっきり……」


 頬を掴む手に目一杯の力を込めつねりあげた後解放する。内藤は痛がるそぶりを見せる事無く好奇心に満ちた瞳で紙コップを見つめた。


「これは何? なんで中身が違うの?」

「男女で飲み物が違うらしい。女はこっちの牛乳みたいな方を飲むように言われている。ソーマとかいう飲み物だ」


 内藤の眉がぴくりと動いた。紙コップを手に取り、まじまじとソーマを観察し始める。ややあって、わずかに感心したような声が漏れた。


「これが……ソーマかぁ」

「知っているのか?」

「インド神話に登場する神様達の飲み物だよ。成分なんかは全くの謎とされているけどね」


 そこで言葉を区切り、辺りをはばかるように内藤の声が小さくなる。


「たしか、高揚感と幻覚作用を伴う興奮飲料だったハズ」


 氷室は無言のまま周囲を観察する。座席に腰を下ろしている女達は皆、ソーマを口にしていた。劇薬の類が含まれているようには見えないが、毒見をするにも躊躇ためらいが生じる。


「やめとけ」


 氷室の提案に内藤も同意するように頷く。巾着袋から厚手のハンカチを取り出すと、紙コップの上に被せる。それから再度、周囲の視線を確認した後に紙コップを逆さにし、ソーマをハンカチにしみ込ませた。


「これだけあったかそうな環境なら、帰る頃には乾いているだろうし、可能なら成分分析をウィザードに頼もうか」

「そうだな」

「氷室君のは濁っているけど色が水に近いね。スポーツドリンクみたい。こっちもサンプリングする?」

「…………」


 無言のまま氷室は紙コップに口を付けた。喉を数回上下させ、全てを体内に収めるとカラになった紙コップをぐしゃりと潰す。そんな氷室に内藤は目を丸くする。


「珍しい。潜入先での飲食を極力避けてる氷室君がこんなに怪しいものを率先して飲むなんて」

「これは直感だが、こうでもしないとお前が飲んでいただろう?」

「あら読まれてた」


 悪びれない内藤に心底呆れる。ため息一つつく気力すら奪われた氷室は棘のある声でいさめた。


「無駄に危ない橋を渡ろうとするのをいい加減やめろ」

「見捨てちゃえばいいのに」


 艶やかな声は氷室の次の言葉を誘導している。それが出来ていたら苦労しない。その一言をどうにか飲み込み、彼女を睨みつけた。それだけで彼女は意図を汲み取り、満足げに微笑むのだ。見捨てられる訳が無いという確固たる自信から来る笑みである。氷室が忌々しげに舌打ちをするが、彼女は軽く聞き流す。


「それで? 結局氷室君が飲んだのは何だったの?」

「今までに飲んだ事の無いスポーツドリンク、だな。酸味ばかりで甘みを感じない。端的に言えば不味い」

「それだけ? なーんだつまんないの」

「得体の知れない物を飲ませておいて……」

「氷室君が自主的に飲みましたー。私は関与していませーん」


 思わず怒鳴りつけたい衝動に駆られるが、盛大な拍手がそれを遮った。最奥のステージが人工的な光に照らし出される。袖から一人の男が姿を現した。


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