2.車内
「お邪魔しまーす」
運転席の後ろへ乗り込む内藤を追うように、氷室もまた身を屈めて乗り込む。と、そこで運転席に座る男と目が合った。
「いらっしゃい。聖火を学ぶ会へようこそ」
赤のネクタイを締めた男がにこやかに歓迎する。外見は20代半ば程だろうか。黒の短髪で眉も髭も整っている。清潔感のある爽やかな好青年という印象だが、氷室は直感的に嘘のにおいを嗅ぎ取った。男は糸目のせいで笑っているように見えるだけで、持ち上げた口角から毒気がにじみ出ている。隠すつもりさえ無いのかもしれない。氷室は気取られぬ程度に警戒を強めながら車のドアを閉めた。それを合図に車が走り出す。
発車から信号を一つ越えたところで内藤が謝辞を述べた。
「今日はお招きいただきまして誠にありがとうございます」
固さの残る挨拶をほぐす様に七森が柔らかい声を出す。
「こちらこそありがとうございます。今日の会がお二人の新たな人生の幕開けとなることでしょう。そんな素敵な瞬間に立ち会える事が私は嬉しくて仕方がありません」
「えぇ、ずっとこの日を楽しみにしていました。それに加えて、車で送迎していただけるとは思っていませんでした。ありがとうございます。えぇっと……」
内藤が尋ねるより先に、運転手の男が答える。バックミラー越しに見えた瞳がきらりと色を変えたのを氷室は見逃さなかった。
「自己紹介が遅れたね。僕は城野克司。社会人二年生さ。君達の事は七森から聞いているよ。内藤結月ちゃんに、氷室冬雪君だね」
「はい。城野さん、運転ありがとうございます。こんな素敵な車に乗るのは初めてですよ」
城野は気を良くしたように白い歯を見せた。彼の自尊心をくすぐるには打ってつけの話題だったのだろう。自慢したくて仕方がないと言わんばかりに声のトーンが上がった。
「まあ、ちょっといい車だからね。結月ちゃんは車とか詳しかったりする?」
「詳しくは無いですがこの車はいいなーって思いました。見た目が鮮やかですし、シートの座り心地もふかふかでついうたた寝してしまいそうなくらいです。車内がすごく綺麗だったり、揺れが少ないのは城野さんのおかげですよね。城野さんが車好きだってすぐに分かっちゃいました」
「やっぱり分かる? 子供の頃から車が好きでさ、この車も運転するのが夢だったんだよ。維持費も結構掛かるし困ったもんだけど、好きな物は長く手元に置いていたいからさ、色々頑張っちゃうよねー」
上機嫌に語る城野と適切に相槌を打つ内藤。氷室は主に内藤の様子を見ていたが、キャラクターを演じているようには見えず、無邪気で騙されやすそうな一般人にしか見えなかった。
演技力は氷室に無いスキルである。羨ましく思うというよりあれば便利だろうという思いだが、真似できないことだと分かっていた。氷室は内藤が日常生活の中でも演じ続けなければならない理由があり、その理由故に得たスキルだということを知っていたからだ。彼女のスキルを得るには彼女と同じ必要性がなければならない。氷室には真に理解することが不可能である領域の話であった。
感慨に耽っている間にも会話は進んでいく。
「二人とも七森と何処で知り合ったの?」
「大学ですよ。二人で学食にいた時に七森先輩からお声掛けを頂きました」
聖火を学ぶ会の会員に接触するにあたって内藤から協力要請が来た時にはすでに七森彩愛の名が挙がっていた。彼女が会員の中でもそれなりの役職を持っていると、依頼人から情報を受けたとの事だった。依頼人はどうやら彼女の知り合いらしく、生年月日や住所、通っている大学名など接触する為に必要な情報はすぐに集まった。その時は他のメンバーから譲り受けた仕事は知らず、いつもより仕事が早いと内藤を褒めた記憶がある。しかしその時点でおそらく内藤はただ情報を引き継いだだけの状態であった事だろう。褒める必要が無かったと今更ながら後悔する氷室であった。
七森彩愛と接触をしたのは10日程前。二人揃って高校を休み、大学生として七森の通う大学へ潜入した。その時も内藤はよくしゃべり、氷室は今のように黙っていたことを憶えている。以降、七森との交流は内藤に一任し、氷室は別件の仕事を片づけていた。最初に二人で会った理由は二点。第一に七森がより警戒を持たない方が彼女と交流する為であった。同性の内藤に安心感を抱くか、異性の氷室に惹かれるかは直接会ってみなければ分からないことである。そして今日の潜入時に全くの初対面であるよりも多少なりとも顔を売っておいたほうがいいだろうというのが二点目の理由だ。
「大学かー、確かに七森が行くところと言えば大学かカチカホールだもんね。二人は学部はどこ?」
「私が文学部で、氷室君が法学部です」
「学部が違うのに一緒にご飯食べたりする仲なんだ。ひょっとして君達は付き合ってたりするのかな」
「え? えぇっと……」
ストレートな質問に内藤は言葉を詰まらせた。設定を考えておらず慌てているというよりも、どう答えれば城野に取り入る事ができるかを見定めているところであろう。彼女から助けを求められた訳ではないが、氷の助け船を出す。
「ただの腐れ縁」
冷たく言い切られた言葉は会話を凍結させる。城野は意味ありげに頷くと含み笑いをしてみせた。
「ふーん。ってことは結月ちゃん、フリーなんだ」
「まぁ、一応は、です……」
車は県境のトンネルに入る。橙色の光が車内を照らし、さながら夕陽の中に放り込まれたようであった。明るい空間の中、バックミラーごしに氷室と城野の視線がぶつかる。無言の間に火花が散った。城野は氷室に対して取り繕うつもりは毛頭ないのだろう。不敵な笑みのままわざとらしい声を出す。
「氷室君、仲良くしようね。君とはいい友人になれそうだ」
同志を募るようにも、牽制するようにも取れる言葉に、氷室は「あぁ」とだけ返した。同意の言葉ではあるものの、声音や表情、態度に至る言葉以外の全ての要素でNOと言っているようなものである。氷室の突き刺すような視線を受けてなお、城野の表情は涼しい。慣れた手付きでシフトレバーを切り替えアクセルを踏み、鮮やかにトンネルを飛びだした。すでに日は落ち、周囲と同じ沈黙の闇が車内を包む。途切れた会話を仕切り直したのは七森であった。
「ところで内藤さん。その浴衣の柄は金魚ですよね」
「はい。七森先輩に事前に伺っていた通り、白地に赤い帯を選びました」
七森が困ったように「そうですか」と呟く。内藤が先を促す様に首を傾げると、言葉を選びながらやんわりと七森が答えた。
「私がちゃんと言わなかったのがせいでもありますが、金魚は水を連想させますし、あまりよろしくないかと……」
「あ……。そっか。そうですよね。どうしよう、困ったな……」
困惑の色を浮かべる内藤と、具体的な解決策を導き出せない七森。そんな二人に城野があっさりとした声で口を挟む。
「別にいいんじゃないかな。穂村様も金魚はお好きのハズだし」
「え?」
唐突に挙げられた教祖の名に、七森が驚く。頭の中に浮かぶ疑問を言語に変換させようと口をぱくぱくさせる。金魚そっくりの動きをする七森を無視し、城野が淀みなく答えていく。
「金魚は水中を揺蕩う炎。水の中でも燃える事のできる生命の強さの象徴――。いつかの講演で穂村様が仰っていたよ」
「そんな!」
七森の態度が豹変する。掴みかからん勢いで城野に向かって叫ぶ。全身を震わせ、今にでも発狂するのではないかと危ぶまれる勢いだ。
「かようなことを仰ったのはいつのことでしょうか! 私は穂村様のお言葉を一言一句憶えております。それを忘れて穂村様の考えに背く事など……そんな! そんな!」
「……あのさ、今運転中だから静かにしてくれないかな」
冷やかな物言いに七森が押し黙る。氷の塊が喉に押し込められたように息苦しげに呻き、言葉になる前の弁解を飲みこむ。
赤信号に差し掛かり車が停車すると、城野が大袈裟にため息をついて見せた。
「僕はこれでも七森より入会が早いんだ。穂村様のお言葉をより多く聞いていたっておかしくないだろう? 穂村様のお気に入りだからって調子乗ってない?」
「そ、それは……」
「別に金魚の話を知らなかった事くらい、穂村様も僕も責めたりしないよ。でも自分の勝手な判断で結月ちゃんの火を消そうとしていた事は許されないよね」
「申し訳……ありません」
唇を強く噛む音が聞こえた気がした。喉の奥から絞り出された声はその身体と同じように震え、苦痛の程を体現している。
信号が青になるのと同時に、城野がさっと仮面を付け直した。
「空気悪くしちゃってごめんよー。結月ちゃんの格好は全然問題ないし、むしろ推奨されるくらいなの。だから安心してていいからね。正しい事をしている人を惑わす悪魔みたいな存在がいてさ、聖火を学ぶ会では『邪』と呼んでいるんだ。七森がやった事っていうのはまさに邪が人を陥れる事と同じ感じだったから、ちょっと厳しく言っちゃったよ。ていうか先輩としてあるまじき行為だしさ、本当にごめんね」
「いえ、大丈夫です」
「うん。あともう少しで着くから寛いでて」
「あ、はい。そうします」
どこか気まずい空気の中、車は大通りを外れ、ひと気のない道へ進んでいく。窓から見る風景も氷室にとって見慣れないものになっていた。しかし氷室の頭の中にはここに至るまでの道筋は目を閉じるだけで思い浮かぶ。それに加えてバックアップに当たっているウィザードに現在地が伝わるよう、腕時計に組み込んでいるGPSも起動済みだ。抜かりは無い。氷室は顎を引き、結論を下す。しかしそれでもなお、胸中に一抹の不安がうずくまる様に存在していた。単純に潜入作戦への緊張から来るものなのか、それとも虫の知らせめいた第六感から来るものなのか判別できない。
「穂村さま……。穂村さま……」
七森のか細い呟きが聞こえる。縋るような弱さの中に呪詛にも似た執着心が満ちていた。彼女の頭の中には件の教祖の姿があるのだろう。そんな彼女を氷室は哀れに思ってはいなかった。だが耳障りであるのは変わりない。その吐き捨てたくなる感情は同族嫌悪であった。氷室もまた縋るものを持っている身である。何かに縋らなくては生きていけない弱さをまざまざと見せつけられている気分になり、どうにも苛立ちを抑える事はできなかった。
「うるせぇな……」
城野が舌打ちをした。氷室とは系統が違うものの、彼もまた弱者である七森に嫌悪感を抱いていた。感情の現れか、乱暴に切られたハンドルにタイヤが悲鳴をあげる。ウィンカーが鳴り、白い門柱がライトに照らし出された。その間をくぐり抜けた先は市役所や文化会館を思わせるコンクリートの建物があり、ガラス張りの入り口がぽっかりと口を開けるように明かりをもらしている。入り口のロータリーには車が3台停まっており、最後尾のタクシーの後ろへ停車した。
「カチカホールに着いたよ。僕は駐車場に停めに行くからここで降りて先に行っていて。七森はちゃんと二人を火護の間に案内してね」
氷室がドアを開け、灰色の煉瓦が敷きつめられた道を踏む。すぐに振り返り内藤の手を取る。内藤は袂を抑えながら車を降り、運転手の城野に対して礼を述べた。
「ありがとうございました」
「どーいたしまして」
城野がにこやかに手を振るのを遮るように氷室がドアを閉める。乱暴に閉められたドアの音に七森の肩がびくりと揺れた。ようやく夢か逃避の世界から帰ってきたようだ。窓の外にある見知った建物を見て、慌てたように車を降りる。内藤と氷室に対し一度頭を下げると最初に会った時のおだやかな表情を浮かべた。
「失礼致しました。中へご案内致します」
「よろしくお願いします」
七森の後を追うように内藤が歩き出すと、城野の運転する車が発車した。氷室は車の動きを目で追い、小さな光に照らされたナンバープレートを見えなくなるまで見つめていた。
「どうしたの? 氷室君」
内藤が自動扉の前で立ち止まり、こちらを見ている。
「いや、なんでもない」
そっけなく返し歩み寄る。肩を並べ、二人揃ってドアの向こうへと踏み出した。氷室の胸にはまだ、不安を募らせる黒い何かが鎮座している。それは燻ぶる火種であった。誰も気づかなくともそこにあり、いずれは消えてしまいそうな程か弱く見えるものだ。だが火種は一たび条件が整えば取り返しがつかなくなるまでに燃え盛る危険性を孕んでいる。条件の一つとして挙げられるのはすでに燃えている炎に近づけることだろう。
二人の背後で自動扉が静かに閉まった。簡単に後戻りをすることができなくなった瞬間である。