15.報告書欄外
「こんばんは。城野さん」
カチカホールのロビーにて城野克司を出迎えたのは七森彩愛だった。城野は首を傾げながら時刻を確認する。20時25分。腕時計もスマートフォンも同じ時刻だ。
「今は儀式の時間じゃない? 君は穂村様の話を聞いていなくていいの?」
この時間はまだ信者を洗脳する講演の時間であるはずだった。熱心な信者である七森がこんなところに一人でいる訳が無い。
――……一人?
城野が考えるよりも先に七森が言葉を返す。
「城野さんこそたまに来るのが遅い時、ありますよね」
「まあ社会人だからさ、これでも急いで来たつもりだよ」
「この前の集会――いいえ、『はじまりの日』にもあなたはいらっしゃらなかった」
「前回は……どうしても外せない用事があったんだ」
城野の脳裏に苦い記憶が甦る。
その日は城野に用事など無かった。いつもどおり集会に参加すべく、愛車の待つ駐車場へ向かうまではなんら変わりの無い日常であった。ところが愛車の前に立つ、二人の人物によって日常が破壊されたのだ。
城野を待ちかまえていたのは二人の女。遊びで手元に置いていた女と合コンで知り合ったときにキープしていた女だ。赤の他人同士である二人がどういうわけか手を組んで詰め寄ってきたのである。一体どこで互いの情報を手に入れたのか尋ねる猶予すら与えられず、その日は深夜を過ぎるまで針のむしろに立たされ続けたのだ。今思い出すだけでも寒気がする。打たれた頬の痛みさえも蘇りそうで慌てて首を振った。
「用事……左様で御座いますか」
七森はスッと目を細め、それ以上言及せずに踵を返す。浴衣にあしらわれた金魚が七森の動きに合わせて皺を寄せ、それでも彼女から離れまいと縋りつくように泳いだ。
「穂村様の元へ参りましょう」
城野自身も七森と同じ信者という立場である為、そう提案されては無下に出来ない。七森と連れ立って、誰もいないロビーを後にする。と、そこで先程考えていた事を思い出す。城野は違和感をおぼえていた。七森がロビーにいるという事態も十分異常であったが、七森以外の人間がロビーにいないという事も異常なのだ。いつもならば城野と同じように時間を潰す男達が数人はいる。とっさに振り返り、ロビーを確認した。ソファーと机。机上に置かれた灰皿には煙草の吸殻どころか灰一つ積もっていない。全員がすでに火護の間へ行っているのだろうか……。何の為に?
何一つ腑に落ちないまま先を歩く七森に駆け寄る。
「七森、さぁ。なんか雰囲気とか変わった?」
何をどう尋ねれば良いのか分からず、漠然とした疑問を投げる。何か妙な胸騒ぎがしており、沈黙に耐え切れずにいた。
七森は振り変えず、淡々と答える。
「火は揺らめき、常に形は移ろいます。私達は皆、聖火から生まれし子。故に人は誰しも変わっていくのです」
「あ、そうだね。それも前回勉強した事?」
「えぇ……」
城野は内心で舌打ちをした。戯言を聞きたくて質問をしたわけではないのだ。いっそ頭から水をかけて目を覚ましてやりたいとも思う。しかし穂村のお気に入りである貴重な贄を勝手に壊すわけにはいかない。適当な相槌で誤魔化し、心の中で馬鹿にするほか無かった。
ただ、大方の見当は付き始めていた。自分のいなかった前回の集会で何かがあったという事だ。穂村の新しい演説かパフォーマンスか、具体的な内容は分からない。それによって男女問わず行動が変わったのだ。集会の進行内容の変更が妥当だろうか。個人的には長い演説を早々に切り上げて欲しいと思っていた。お楽しみの時間が目当てで高い参加費を払っているのだ。ひょっとすると他の男性信者からも自分と同じ要望が挙がったのかもしれない。もしこの予想があたっているならばロビーに男達がいない理由にもなる。その上、七森が出迎えた件も説明がつく。
七森はあくまでSM洗脳プレイ用の贄であって、お楽しみの間は放置されがちだ。七森が儀式後に使い物にならないせいでもあるが、それ以前に七森は性的対象外であった。貧相な体つきに怪我だらけ、さらに傷口が膿んでいる女など触りたくもない。愛車に乗せるのも本当は嫌だったのだが、面白い二人組に出会えたので良しとしていた。あの二人は今日もいるのだろうか。予測しようと考えたがすぐに辞める。あと数分もせずに答えが分かるからだ。
不安はいつの間にか消えていた。憶測の域を出ない考えでも根拠を元にしている為、ある程度信用はできる。自分で導き出した答えは、たとえそれが誘導されていたとしても正しい物だと感じやすく、その状態に安心しやすい。自ら宗教に嵌りこんだ七森はそのいい例だろう。自分は今七森と同じ手段で安定を図っているが決定的に異なる部分がある。この心理を知っていて活用しているのか、知らずに利用されているかの違いだ。自己暗示とマインドコントロールの違いともいう。自分が行っているのは火護の間へ行くまでの不安を払拭する為の行為だ。それさえ分かっていればいい。そもそもこの憶測が間違っていたとしても自分に何の不都合もないだろう。間違っていたらまたその時に考えればいいのだから。
結論を下した城野は七森との会話をやめた。推測が当たっていればいいと願いながら悠々と通路を歩く。火護の間はもう目前である。
重く分厚い扉を七森が押し開けた。風除室を挟み、さらに七森が扉を開ける。熱気が勢いよく二人を出迎えた。それが合図だったようだ。
瞬間、火護の間にいる信者全員が振り返った。
「な…………なに?」
おびただしい数の瞳。そのどれもが暗い敵意を思わせる色をしていた。聖火が放つ光がより一層信者の瞳を怪しく彩っている。
城野の頭の中で本能が警鐘を打ち鳴らした。しかし足が思うように動かず立ち尽くしている間に、二人の幹部が扉を閉ざし退路を断つ。どくんと心臓が脈を打った。
「どうぞ壇上へ」
有無を言わせぬ七森の声に抗えない。ステージの上ではいつもの服装をした穂村が胡坐を組んで座っている。ここからでは距離があり、穂村の表情を窺う事は困難であった。だが瞬き一つせずにこちらを凝視しているような重い気迫を感じる。今すぐに逃げ出すべきだと思っても体が思うように動かない。
七森の後に続き、慎重に歩を進める。頭の中では思考を続けているつもりでも混乱状態から抜け出せず、堂々巡りであった。とても平静を装えないまま震える足で進んだ。
元よりこの空間は正常とは呼べぬ空間である。マインドコントロールを受けた女達と、欲望をさらけ出す男達。絶え間なく燃え盛る聖火に支配された享楽の園。そう、元より狂っていたのだ。しかし今この空間は全く別の狂い方をしていた。城野の知らぬ狂気は確実に城野を蝕んでいく。
城野はひどい寒気に襲われていた。灰が焼けるほどの熱い空気を取り入れていながらも喉が渇くだけだ。体中を駆け巡る寒気は歩くたびに暴れ、不安を掻きたてる。恐怖がとめどなく溢れかえり、今すぐに咽び泣いて発狂したくなった。それを理性が懸命に引きとめる。
落ちつけ、落ちつけと自身に言い聞かせるものの、正面を見る事すらできず、履き慣れた革靴に視線を落とすばかりだ。耳元で聖火の唸る声がした。ステージの目の前に辿りついてしまったのだ。
城野はもう何度目か分からない言葉を繰り返す。落ちつけ、と。教祖であり、支配者である穂村への敬意を怠らなければ身の安全は保障されるはず。そんな根拠など何処にも無いが、無理矢理に自分を宥め言う事を聞かせた。聖火と穂村へ一礼し、壇上へは右足から。必死で聖火を学ぶ会の規律を思いだし、実行する。
俯きがちにステージへと上がった。何か大きな力で頭を押さえつけられているかのように正面を向けずにいた。穂村の顔を見る事さえ全身が拒んでいる。
「どうぞお座り下さい」
七森の声に従い正座をした。混乱のせいか理不尽な怒りが込み上げてくる。何故自分が七森の指示に唯々諾々と従わなければならないのだろうか。七森のくせに。
内心で吐き捨てながらも懸命に思考を続ける。なんとしてもこの状況を打破しなければならない。絶対にだ。
まず前提としてステージへ登壇する信者は少ない。罪を告白しにやってくる七森くらいで、お楽しみの時間は穂村が降壇している。つまり登壇する者はイコール罪を犯した者……? だとするならば一体自分は何をしたというのだろうか。ロビーで七森は出席に関する事を訪ねてきた。しかし女はともかく男が集会に遅刻欠席しても咎められた事例は過去に無い。何もしていないと断言できる。だからこそ分からなかった。七森の次の台詞の意味が。
「城野克司、汝の罪を告白せよ」
「…………え?」
聞き慣れた問い。かつて穂村と七森の間で繰り返された行為の最初の一言であった。裁判官の叩く木槌代わりに、七森が持ち手の長い松明で床を二回叩く。
城野は目を見開き、フラッシュバックを続ける記憶を繰り返し精察した。傍から見れば床を凝視する滑稽な姿であったが体裁に気を使う余裕などなかった。それほどまでに必死にならざるを得ない。七森の言葉は死刑宣告と同列の物だ。城野に思い当たる罪は無い。氷のような汗がぽたりと膝に落ち、すぐに乾いた。
何も答えない城野に代わり、七森が語る。赤い蝋燭に青白い炎が灯ったような、不気味な声であった。
「はじまりの日。巫に宿りし神が我らに正しき道を説いた奇跡の時間。蝋燭が1本燃え尽きるかどうかという短くもありながら、太陽が燃え尽きるまでの長い時間よりも価値のある時間。そんな何よりも尊い時間の中で罪を犯す者がおりました。神の目を欺き、我々を嘲笑うかのように、聖火を学ぶ会の寄付金を盗む不届き者がいたのです」
比喩だらけの分かりにくい説明であったが、城野はようやく自分の置かれた絶望的な状況を理解した。
聖火を学ぶ会の寄付金を盗んだ犯人として疑われているのだ。
「防犯カメラに写っていたのは一人の男。背格好から判断するに歳若い男性で――」
「違う! 俺は知らない! 何も知らない!」
顔を上げ、七森に向かって叫ぶ。乾燥した喉に自分の声が擦れて痛むが構っていられない。今は何としてでも冤罪を晴らさなければならないのだ。しかしその勢いは七森の表情であっさりと削がれる。
冷たい視線。それでいて心の底から愛情に溢れたあたたかい笑み。蔑みと慈愛が混ざったちぐはぐさが怖い。初めて見る七森の表情。祭壇に捧げられる供物だった哀れな七森と、今目の前で松明を抱える七森は本当に同一人物なのかと疑いたくなる。
松明の炎が金魚のように泳いだ。七森が床の凹みに松明を固定したのだと遅れて気付く。空いた手を懐に入れると一枚のカードを取り出す。それを城野に差しだした。
恐る恐るカードを受け取る。カードにはカチカホールの入り口から理事長室までの経路、金庫の開け方、被害総額などの情報が印字されていた。警察の介入を拒むこの組織が独自でここまで調べ上げたのだと城野は戦慄する。それだけ犯人探しに躍起になっているのだ。怒りの程が窺える。
しかし七森の言葉は城野の推測を容易く破壊した。
「このカードは金庫の中にありました。犯人が残していったと思われる物です」
「犯人が残す? なんで、そんな、意味が分からない」
「では末尾の数字に見覚えがありますか?」
七森に言われてようやく気付く。唯一手書きで記された4桁の数字。城野は確かに見覚えがあった。思いだすよりも先に七森が告げる。
「この数字、城野さんの愛車のナンバーですよね」
――――ただ、ただ絶句した。自分が疑われる状況を誰かが意図的に作り上げたのだとようやく気付く。一体誰だ? 疾しい事、後ろめたい事、恨まれる事、全てないとは言えない。だが、その中でこんな策略を実行できる人物は限られているはずだ。それでも犯人が分からない。
七森がどこか嬉しげで弾んだような声で続ける。
「城野さん、車がお好きですよね。私、知っています。そして車には多額の維持費が掛かる事も知っています。以前、お話しされましたよね」
七森の言動に熱が帯びてきた。カードに書かれた数字が何の証拠にもならないと微塵も気付いていない。推理と呼ぶにはあまりにも稚拙で杜撰であった。
監視カメラの不確かな映像。はじまりの日にいなかった人物。動機に成り得る城野の車自慢。そして残された数字の秘密。
自分で考え、辿りついた犯人。そう信じて疑わない。信じる事こそ七森の全てだ。
「城野さん、あなたの中に邪が宿っています。あなたは一人で邪と戦い、必死で助けを求めたのですね。このカードがあなたの光、あなたの聖火、あなたの真の叫びなのでしょう?」
七森の目は城野を蝕む邪を憎み、口元は城野の中に残る光を愛した。その全てが偽りだと彼女は気付かない。
「違う違う違う! 俺じゃない! 俺じゃないんだ!」
七森に言ったところで理解を示さないと分かっていた。まともな思考の持ち主はこんなところで松明に指を絡めている訳が無い。頼るべきなのは七森を支配する穂村であった。
「穂村様信じてください! 俺はやってない! 嵌められたんだ! 貶められたんだ!」
「…………………………」
穂村は答えない。いや、答えられるはずがなかった。
「ひぃっ!」
奉られしは黒く焦げた肉塊。落ちくぼんだ眼窩から魂は抜けていったのだろう。聖なる炎の輝きですら照らせぬ闇がそこにあった。痛ましく歪んだ顔はその最後まで苦痛を受けていた証だ。とうに途絶えた絶命の声が聞こえてきてもおかしくないまでに口を大きく開き、そのまま固まっていた。無惨としか言えない光景である。
生乾きの即身成仏。それが穂村の変わり果てた姿であった。
「城野克司、汝の罪を告白せよ」
松明がつきつけられる。どうにか逃れようと腰を抜かしたように仰け反り後退し、ステージから転げ落ちた。
七森と同じ表情をした信者が城野を見下ろす。火護の間にいる全員が松明を手に立ち上がり、城野を取り囲んだ。城野はその中にあの二人の姿が無いと気付く。自分と同じにおいのする男と、その所有物であるはずの女。
あいつらだ。全ての災いはあいつらがもたらしたのだ。証拠は無くとも確信していた。だが、無意味だ。この場にいる全員の目を覚ますには不十分な武器である。城野には絶望だけが残された。
「安心してください城野さん」
ステージ上から七森の声が降ってくる。
城野はわずかに口を開いたまま、その所作を眺めていた。自分の知る七森の姿がどこにもいない。何かが、その身に宿っているようだ。
「城野克司、あなたを今、お救い致します」
城野の視界が赤い炎に包まれる。強烈な光は一瞬の内に消え、焦げ付いた闇の色に支配された。熱さと痛みが生命の灯を激しい炎へと煽る。火護の間に初めて若い男の絶叫が響く。
もう逃げ場は無い。儀式の夜はまだ始まったばかりだ。
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