11.方針
カラオケ店での仕事を片づけた二人は早々にアジトへ移動した。
整理整頓のされた室内がいつもと変わらず二人を迎え入れる。ガラスフィルムの貼られた窓からの光は白く、スノーには些か眩し過ぎた。窓際に歩み寄るとブラインドを調節して光を遮る。室内は陽だまりの暖かさのまま仄明るい闇に包まれた。
「思ったより早く済んだね」
のんびりとした口調と足取りでナイトがダイニングキッチンへ向かう。冷蔵庫の中からミネラルウォーターを取り出すと、細長い注ぎ口のケトルに注いだ。そのままケトルをコンロに掛け、食器棚から紅茶の缶を選び始める。鼻歌交じりにティータイムの準備をするナイトとは対照的にスノーの表情は険しい。ソファーに腰を下ろし、手袋をガラスの机に放るとネクタイを緩めた。
「想定より相手が馬鹿過ぎただけだ。まったく……。俺ならば取引相手には選ばないタイプだ。ドロップの教育が足りていないとよく分かる案件だな」
「そーだねー」
「金の無い奴が一番困る。沢田から搾った分であの集会の参加費が賄えた程度だ。雑費を考えればマイナス。その穴を埋めるだけの利益を得る必要がある」
「だーねー」
気の無い返事を繰り返すナイトは、紅茶缶を7つも並べ指を差して楽しんでいる。彼女の中では今後の仕事についてよりも、どの茶葉を選ぶかが優先されていた。
「俺から見て一番右の缶」
スノーは怒りを覚えながらもリクエストをする。最も早く話を進める為の手段であった。
ナイトは快諾し、左から2番目の缶を残して速やかに片づける。ケトルと同じく沸点に達しそうなスノーのオーラには全く気付いていなかった。慣れた手付きでティースプーンをペン回しのように躍らせる。スノーは諦めたように視線を外した。彼女のマイペースさには慣れてしまっている。第一、紅茶を淹れる時間を惜しむほど急いでいる訳では無い。彼女の機嫌を損ねるよりも好きなようにやらせておいた方が利があると結論を下す。
ソファーに身を委ね、腕を組み目を閉じる。黒革のソファーの心地よい冷たさが背中から全身へと広がっていく。沢田を取り押さえるという慣れない肉体労働をした身体の疲れがじんわりと消えていくようだった。
ダイニングキッチンの方から、食器の触れ合う音と湯の沸き立つ音が聞こえる。すでに耳に馴染んだ音だった。幾度となく記憶したその音だけで、ナイトの所作が目に浮かぶ。
まず彼女はティーセットを並べる。ティーセットは黒と白を基調とし、金の細工が施された彼女のお気に入りのブランド品。何かの記念日ににプレゼントされた物だと聞いていたが詳しい事は不明のままである。どこぞの闇医者ぶった金持ちの言う記念日は、世界中のどのカレンダーにも記載されていない極めて個人的な記念日だと優に予測ができたからだ。彼女はティーポットの蓋を開ける度に、プレゼントされた時の記憶の蓋も開けるのだろう。眉尻を少し下げ、困ったようで全く困っていない顔をしながら口元を綻ばせるのだ。さっと湯を注ぎすぐに蓋をする。同様にティーカップへお湯を注ぐ頃にはウィザードへの感慨は消え、紅茶へ想いを馳せているだろう。
彼女の思考はいつだって巡り廻るしい。常に新しい情報と巡り合い、記憶を廻る。ティーポットとティーカップが温まるのはいつだって同じでいつだって違う。明確な記憶があるからこそ比較できる微小な差。彼女はそれらを全て慈しむのだ。同時にただの情報としてしか扱っていない。ティーポットのお湯は温める役目を果たせば捨てられる。彼女は見送り、決して忘れない。ただそれだけだ。すぐに茶葉を分量通りにティーポットへ入れる事を慈しむ。それの繰り返しだ。究極的に言えば彼女は情報を情報として愛しているだけであった。
茶葉の入ったティーポットにお湯を注ぎ直し、蓋をする。ティーポットを暖めてから茶葉とお湯を入れなければ茶葉の開き具合が違うのだと、彼女は何度も言った。ティーカップを温めているのも美味しくする為に必要な手順である。スノーは味の違いが判るもののどちらでも文句は無い。そう率直に伝えて彼女の機嫌を損ねた記憶は一生忘れない自信があった。もはや教訓の一つというべきだろう。苦々しくもありながらほのかに甘さの残る想いがすぅっと身体を駆け抜けた。
彼女は砂時計をくるりと縦に回す。およそ3分間の静寂。耳を澄ませば大粒な砂の流れる音が聞こえそうな程であった。彼女の記憶を以てすれば正確な時間を計る事も可能だがいつも砂時計は使用される。普通の人間を装う為というよりも単に砂時計が好きだからだろう。使用されている砂時計の砂は星の形をしており、詰まりやすく時間を計るには適さない。優れているのはデザインだけである。これを使用しているのは彼女以外にいない。
3分が経つより早くに静寂を破ったのは水の音。ティーカップを温めていた湯がシンクを流れる音であった。かちゃりとティーカップが笑う。規則的な足音がスノーに近付き、ガラスの机が金属の盆と接する。ソファーが軋み、彼女の自然な息遣いが自分の呼吸に重なった。ようやく3分が経過する。彼女は両手でティーポットを持ち上げ、ゆっくりと傾けた。
マスカットのような瑞々しい香りが弾ける。ティーカップが満たされていく音はいつだって心までも満たしていく。先程までの怒りは角砂糖のようで、紅茶が注ぎ終わる頃にはすっかり溶けていた。
「おまたせスノー」
声を掛けられ瞳を開く。紅茶と同じ、暖かな笑みがスノーを出迎えた。
「どうぞ召し上がれ」
差しだされたティーカップを受け取り口を付ける。蟠っていたはずの文句さえするりと喉を滑っていく。余韻を残す甘さは砂糖やはちみつとは異なる、紅茶本来の甘さであった。何かを期待するような目をナイトが向ける。スノーは悪くないとだけ答え、もう一口だけ紅茶を飲むとティーカップを置いた。そろそろ仕事の話を進めなくてはならない。いつもの冷静な口調に紅茶の香りが混ざる。
「今回の件だがナイトの意見を聞きたい」
「私の?」
「一番得をするのは俺達なんだろう? 沢田から小銭を巻き上げるだけで終わるハズがない。聖火を学ぶ会に対しても何かをする。それについて聞きたい」
ナイトは悪戯っ子のする無邪気な仕草を装いながらスノーを見つめた。
「言ったら協力してくれる?」
そこが一つの分岐点であった。
依頼人である沢田はもういない。この仕事はもう終わっているのだ。テンプレートな報告書に交渉決裂と書き、割の合わない仕事だったと愚痴を溢すだけ。今回の損失を取り返せる仕事はいくらでもある。堅実に利益を追求するならばここで手を引くべきであった。
ナイトは全て理解っている。理解った上で尋ねるのは、彼女の悪戯心と組織を束ねる長としての自覚からであった。
スノーもまた全てを理解した上で咎めるような声を出す。
「その口ぶりから察するに、俺がいなくても一人でやるつもりなんだろう」
「私の質問の答えになっていないよ」
理解っていないフリをするナイトが笑う。悠々と紅茶を楽しみ、再回答を促すように挑発的な視線を向けた。
スノーは自身のティーカップを手に取ると、ナイトのティーカップに軽く当てるように近づける。彼にしては珍しい少々無作法な行動であった。
「乾杯のつもり?」
「星の代わりに煌く雪を夜空に。――これは紅茶のシャンパンだろ」
一拍置いてナイトが盛大に笑った。
「大正解。『紅茶のシャンパン』と名高いダージリンティーです。シャンパンを飲む事を星を飲むって言うけどさ、そんなロマンティックな台詞、どこかのお医者様しか言わないと思ってた。大親友に感化されてる?」
「次にそれを言ったら忠告無しで舌を『浄火』してやろう」
「わー、この間の緊縛に続いて蝋燭まで? スノーは教祖様の才能あるね」
「その口、燭台にしてほしいみたいだな」
身の危険を感じたナイトがそそくさと紅茶を口に運ぶ。取り繕うような声で話しを続けるも、スノーからの視線を懸命に避けていた。
「ま、まあ冗談はさておき、スノーがやる気満々で嬉しいよ。私と遊びたい時だけそういう意趣返しや言葉遊びをしてくれるの、素直じゃないけど分かりやすくて好きだなー」
「俺はいつだって本気だ。碇型の10cm和蝋燭なら約1時間。お前を一時間黙らせるのに火をつける労力だけで済むなら安いな」
「…………あ、うん。ごめんなさい」
「いいから話を進めろ。協力するかどうかは内容次第だが、俺自身このまま終わらせるつもりは毛頭無い」
ナイトがティーカップを片手に立ちあがる。軽やかな足取りでパソコンの設置されたデスクへ移動するとパソコンの電源をつけた。ティーカップをキーボードの横へ置き、起動を待つ。
「今抱えているマイナスのお金があるでしょ? それは『押売り』しちゃえばいいかなーって思ってるの。昨日の潜入でトイレ行きがてらにあちこち歩いてきたからね、カチカホールの大よその見取り図を今から作るよ」
「押売りか。気は進まないが妥当だな」
「私は本命があるからスノーに押売りをお願いしたいんだよね」
「本命?」
スノーが顔を上げナイトを見つめる。ナイトの視線はモニターに注がれているものの、双眸は別の物を見ていた。
「七森彩愛。正直言って教祖様の手品よりも興味深いな」
ナイトが記憶の中にある七森彩愛のデータを見ているとスノーには分かった。昨日、待合広場で七森と合流した時に見せた表情と同じだったからだ。
「私が仕事を続けたいのは七森彩愛がまだそこにいるからだよ。あんなに誰かを信頼できる人――ううん、盲信しなければ自分が生きていけない人って結構貴重なんだよね。だから私は教祖様の真実を七森彩愛に見せてみたい。どんな反応をするのかな? 知りたくて知りたくてたまらないよ」
0と1に還元されたはずの声が蘇る。いや、違う。スノーがカチカホールで聞いたのは自分の声だ。蘇っているのではなくこれはナイトの中に息づく意思である。そして、ナイトの中にある意思の方がスノーよりも闇が深かった。
「あ、言葉が足りなかったね。別に盲信者そのものは珍しくもなんともないや。その中で今壊しても良い玩具が七森彩愛しかいないんだよ。私の物はまだ大事にしなくちゃいけないけど、玩具が壊れたらどうなるかという情報は欲しい。七森彩愛は私の情報収集に最適な人物だ」
ナイトの言葉の意味を理解したスノーは恐怖する。
人形遊びをする女の子が人形に名前を付けた。人形が本来持っている名前とは別の名前だ。人形が彼女のものだという証。同じ人形があっても彼女によって名付けられた人形こそが彼女のものである。だから彼女は自分の人形を大事にするが、その他の誰かの人形は壊れてしまってもいいのだ。さらに言うなれば、彼女の人形も彼女が大事にしたいと思わなければ同じ扱いになる。
スノーは乾いた唇を舐めた。ナイトが集めたこの組織のメンバー全員はナイトによってコードネームを与えられている。潜入時に使う偽名もナイトが用意していた。つまりは『そういう事』なのだ。理解っていたはずなのに恐ろしかった。昨日の講演会での雑談でスノーという名に価値を見出し、誇りをもった自分の存在さえ今は恐怖の対象である。
マインドコントロールの話をする彼女の記憶が過った。あの時の寒気が心臓をわし掴む。マインドコントロールは第三者から指摘されても気付けない。ならば暗示をかけた張本人がそれを指摘し、対象がコントロールされている事に気付けたら? どうなるというのだろう。そもそも彼女から解放されたいか否かを尋ねられても、その意思は誰の意思になるというのだ。スノーには判断できない。これが真実だと差しだされたとて、受け取っていいのか分からなかった。真実を差し出す人物が誰であってもだ。
突然闇の中に放り込まれたようだった。自分という存在が希薄に感じる。今すぐに自分の名を呼んでほしい。そうしなければ淡く融けて消えてしまいそうだった。自分がいたという事実すら消えてしまったら、誰も思いだそうともしないだろう。嬉しいとも悲しいとも思わなかったが消えたくないという意思が存在し、それすらもやがて――。
「スノー? 聞いてる?」
ナイトに名を呼ばれハッとした。我に返ったところで何も解決していない事実は依然として存在する。彼女に差し出す言葉が見つからなかった。
「また眉間に皺できてる。そんな怖い顔でお茶飲んでも美味しくないよ」
指摘されて思いだす。自分は紅茶を飲みながら仕事の話をしていたのだ。ティーカップを手に取り口元に運ぶ。と、そこでスノーの手が止まり、視線が紅茶に注がれる。
清い水で淹れられた紅茶はカップの底まで見えるほど澄みきっていた。だが目にも鮮やかな紅色は清水に茶葉の成分が混ざったもので、濁っていると言いかえられる。
「せっかく淹れたんだから、冷めないうちに飲んで」
躊躇いが手に縋りつく前にナイトの声に従った。清濁を併せ持つ紅茶のシャンパンが乾いた唇を、口内を、喉を、身体を潤していく。盃を空けたスノーは紅茶の香りのする息を吐きだした。ようやく現実に帰ってきた気分である。現実は常に酔っていればいい。ナイトにただひたすら、心酔すればいいのだ。
「早急に次の集会の日時を調べろ。それまでにカチカホールの見取り図を叩きこんでおく。七森彩愛はお前の好きにすればいい。俺は城野克司についてやりたい事がある」
「あの運転手さん? どうしたの?」
「報告書にあげるほどの事でもない。押売りを最優先とし滞りなく終わらせるつもりだ。やらせてくれ」
「うん、いいよ。スノーが仕事に差支えるような問題を起こさないのは知ってるし、これはもう仕事じゃなくて私の我儘だからね。スノーの我儘があった方が喜ばしいよ。楽しくやろっか」
「あぁ」
スノーは立ち上がり、ナイトの隣にあるパソコンの前に移動した。早速仕事に取りかかるのだろう。ナイトは彼の邪魔をしないよう、静かにティーカップに口づける。口の中に残っていた言葉も紅茶に溶けていく。
『スノー、まだ壊れちゃ駄目だよ。それはスノーが望んだのだから』
紅茶を飲みほしたナイトは図面作製ソフトを呼び出すとカチカホールの見取り図制作に取り掛かった。




