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10.依頼人

 午前11時を過ぎた頃、繁華街の中にあるカラオケ店にナイトとスノーは居た。L字に配置された座席に並んで腰かけ、いつでも出入り口に目を向けられる位置をキープしていた。二人の間に会話は無く、歌い楽しもうとする雰囲気も皆無だ。

 ナイトは黒い薄手の長袖ワンピースに身を包み、冷たい烏龍茶の入ったグラスを傾けている。中の氷がカランと音を立て、指先に雫が伝う。重みに耐えきれなくなった雫が、ふわりと広がるワンピースの裾を濡らす。波のようにあしらわれた白のフリルはともすればピアノの鍵盤にも見え、雫の滴りに合わせてナイトの頭の中で涼やかな音色が響く。

 ナイトの隣に座るスノーは昨日と大差のないスーツ姿であったが、黒い革手袋と細身の青いネクタイが彼の醸しだす雰囲気によく似合っていた。視線は机上に置かれた携帯端末の画面に注がれており、瞬きを何度かするだけである。

 沈黙の代わりに空間を満たす音はテレビから発せられていた。カラオケ店特有の新曲案内やアーティストのPVが流れている。男性アイドルグループのライブ映像が終わり、ソファーに腰を降ろした美少女のアップが映し出された。二人が同時に顔を上げる。


「サウンドリームカラオケをご利用の皆さん、こんにちは。宝ノ木ほうのき姫華ひめかです。私の新曲『ビターステラ』はもう歌ってくれましたか? この曲は私が主演の木曜ドラマ『キスの代わりにスキと言う』の劇中歌であり――」

「スノー見て見て。スーパーアイドルだよ」

「興味無い」


 すでにスノーの視線は携帯端末に戻っている。彼が反応を示したのは聴き慣れた声が聞こえたと思ったからだ。女優と歌手の顔を持つこの有名アイドルはメディアで見ない日は無い。当然スノーの記憶にもある声だった。

 相も変わらず素っ気ないスノーにナイトは笑う。


「情報屋が流行に興味無くてどうするのー? せっかくだしビターステラ歌っちゃおうかなー」

「仕事中だ」

「もー。本当に固いんだからー」


 ナイトが尖らせた唇でストローを咥える。こくりと喉が上下し、小さな吐息が漏れ出た。それとほぼ同時に個室のドアが蹴破られる。


「よう……。待たせたな」


 ポケットに手を入れたまま入室してきた男は、後ろ蹴りでドアを閉め、退路を断つようにドアにもたれ掛かる。蹴り飛ばされたドアには汚いサンダルの跡がくっきりと映っていた。スノーは冷静に男を見定める。泥のついたサンダルに、ヨレヨレのジャージ。捲りあげた袖の下にはかち割られた髑髏のタトゥーが覗いている。手首と首元にはジャラリと音を立てる金色のアクセサリーが下品な光を放っていた。無骨な指に撫でられる口元には無精髭が生え、ざらつきのある不快な音がここまで聞こえてきそうな程である。男なりに身だしなみを整えて来たつもりであろうヘアースタイルもワックスの付け過ぎか、はたまたロクに風呂に入っていないのかてかてかと光り、かえって不潔さを際立たせていた。

 スノーは一般常識と自身の価値観の二方向からこの男、沢田信之を極めて低俗な生物だと断定する。


「どうもはじめまして沢田信之様。私が今回の依頼を担当しているナイトと申します。以後お見知りおきを」


 沢田はスノーに一瞥も無くナイトを注視していた。視線はナイトの顔や髪、胸や太ももを舐めるようにべっとりとしたもので、ナイトを性の対象として値踏みしていた。ナイトの話しなど何も聞いていないに等しい。その証拠に今回の依頼を受けかねるという旨の話しが一通り終わってから、彼は怒りを露わにした。


「おい、もう一度言ってみろ」


 相手を威圧する重く沈んだ声。ナイトは動じず営業スマイルのまま同じ話しを繰り返した。


「ですから、今回御依頼して頂いた情報は提供出来ないと申し上げております」


 口調こそ丁寧であれ、グラスを弄びながらの謝罪である。当然その態度は沢田の怒りの火に油を注いだ。言葉よりも先に体が動き、蹴り飛ばされた机が悲鳴をあげた。


「ふっざけんな! 一度やるって言った仕事だろうが!」


 怒りを抑えようともせず沢田が怒鳴り散らす。床に固定された机は痛ましく軋み、電源の入っていないマイクが転がり落ちた。情報通りの荒い気性である。

 スノーは組んでいた腕を解き、目立たぬよう手袋を引き上げた。沢田がナイトに気を取られているうちに大よその距離感を掴む。L字型に設置された座席は入口にいる沢田から一番遠い角の場所にナイトを座らせている。ナイトへの最短経路をスノーが塞ぐように座っている為、沢田は回りこむかスノーを押しのける以外にナイトへ飛びかかれないようにしていた。しかしこの獰猛な生物は机に乗り上げてナイトに掴みかかる事も充分予測できる。警戒を緩めてはいけない。肝に銘じ沢田の行動を観察する。

 この手のタイプの人間を見る度、スノーは同じ人間なのかと疑いたくなってしまう。見た目が人間に似ていて人間の服を着ているだけの何か別の生物ではないか。ありえない仮説まで真剣に組み立てている自分がいた。

 ナイトは一通り罵声を聞き流した後、グラスを机に置くと沢田を見つめる。取り繕った笑みもなく静かな夜の香りを匂わせた。


「確かに、一度お受けした仕事を放棄するつもりはございません。現在も情報収集にあたっております。ですが沢田様のお支払能力が問題で――」

「あ? なんだと?」


 ナイトの言葉をかき消す怒号が鼓膜を叩く。相手を委縮させ主導権を奪う、荒々しくも効果的な手段である。当然、この程度で気圧けおされるやわな精神を持ち合わせていないナイトは涼しい顔をしていた。スノーも心配せずともどうにかなるとは思っている。しかし無駄な時間を消費すると予測できる以上、口を挟まずにはいられなかった。


「アンタに金が無いのは分かっている。金の無い奴は客ではない。だから情報を売れないって言ってんだよ」

「なんだよてめぇは?」


 ようやくスノーの存在を認知したかのような口ぶりである。顎を突き出し見下すような口調で沢田が吠えた。


「金なら後でいくらでも払ってやるよ。俺の事調べる暇があんなら仕事しやがれ!」


 怒鳴り声が反響し、やがて消える。沈黙が蔓延はびこるより先にナイトが口を開く。視線は変わらず沢田に注がれているものの、何かのメモをそのまま読み上げている口調で、ひどく無機質な声であった。


「今現在、一人暮らしでアルバイトもしていないんですよね。生命に関わる水はともかく、電気とガスは止まっているんじゃないですか?」


 続けざまにスノーが言い放つ。ナイトとまったく同じ調子で語る為、声が全く違うにも関わらずどちらがどちらの声なのか混乱を招いた。


「所持金は6425円。高校時代の後輩である大宮勇一から借りた1万円をコンビニで使用した分の残りだ」


 ぴたりと言い当てられた沢田がたじろぐ。ナイトがコンビニエンスストアのレシートを空んずると、勢いを削がれた沢田は呻き声をあげた。


「なんで……そんなんまで……」

「愚問だな。俺達をなんだと思っている」


 沢田の拳が震え、アクセサリーが音を立てる。怒りがまだ彼の中で熱を持ち、原動力となって奮いたたせているのだ。頭以外に血が巡り始めたおかげか、目の前の二人に自分の常套手段が通用しないと理解し始めていた。腹立たしげに舌打ちをすると、視線を逸らしながら上擦った声で喋り出す。


「今、金がねぇのはいいんだよ。あの宗教団体、あそこには金がいっぱいある。教祖のイカサマを暴けばいくらでも強請ゆすれるだろ。それをあんたらにやるって言ってんだ。そう悪い話しじゃねぇだろ」

「それって沢田さんに情報を売らなくてもいいって意味だよ」

「俺達で情報を調べ、団体を強請ゆする。それだけだ」

「いや、えっと、だから、その情報を俺にさ、な。金はちゃんと! それで……」


 しどろもどろに答える沢田にナイトは呆れたようだった。沢田から視線を逸らし、グラスへと言葉を落とす。氷が融け、少し色の薄くなった烏龍茶が彼女の言葉を受け止める。


「教祖様の秘密の仕掛けは確かに有益な情報だけど、それをネタに団体を強請ゆするとなると個人じゃ手に負えないよね。あちらさんとしては命を握られている訳だからお金を渡しておしまいなんて結末はありえない。どうにか揉み消そうと躍起になって、人間の一人や二人くらい灰にしちゃうかも。正直、沢田さんの手に余る代物だ。沢田さん自身も分かってるよね? じゃあなんでそんな情報を欲しがるのかって疑問が生じるんだけどさ。言動から察するに、団体を強請ゆする以外の方法でお金が稼げちゃうんじゃないかな。それも今回の情報料がまかなえて、尚且つお釣りが来るぐらいの素敵な方法が」


 沢田は答えない。苛立ったように足を揺らし、顔を歪ませている。嘘は下手だが自分から語るのもしゃくに触るらしい。ナイトが言葉を続けてくれれば話しが早いというのに、彼女は沢田への興味を失ったようだ。長い髪の毛先を指に絡め始めた。すでに沢田を客として認識していないと良く分かる態度である。


「当ててやろうか」


 埒が明かないと察したスノーが言葉を引き継ぐ。早くこの仕事を終わらせたいという意思を込め、もったいぶらずにとある人物の名を挙げた。


「七森彩愛」


 ぴたりと沢田の動きが止まる。目と口を大きく開きぱくぱくと開閉する様は、動揺した七森にそっくりであった。なかなかに間の抜けた顔である。

 沢田の反応を気にする事無くスノーは続けた。面倒で退屈な台詞である。


「アンタの元恋人、いや、元宿主と言った方がいいか。同棲という形で寄生していたんだからな」

「七森さん、実家からお金を貰ってたし、暴力と甘言で飼い慣らせる都合の良い相手だったね。寝るとこも食べる物もあって、お小遣いにも困らない。さらに浮気もし放題。なーんの不自由も無いいい生活だっただろうね」


 二人はまるで台本を読み合わせているようであった。ここはただの控室。観客の目の届かない、華やかな舞台とは違う埃まみれの別世界。だらだらと決まった台詞を決まったタイミングで口にする。感情を込め、表現豊かに語らずとも物語は淡々と進んでいく。なぜならこれは今から少し前に起こった事実でしかないからだ。

 気だるげにスノーが読み上げる。


「疑念や不満を相手に抱く事を彼女は悪とした。しかし感情とは多少のコントロールができても手放せないものだ。攻撃的な感情を他者に向けられない彼女はそれを自分に向けた」

「私が悪いから彼は殴ってくれた。私が悪いから彼は浮気をした。一緒に住むのは当然。お金は必要としている方が使う物。二人は支え合って生きるのだから」

「『だから悪いのは全て私』。暗い感情が沸き上がる度に愚者は言う。自分の中の攻撃的な感情が内側から蝕んでいく。出来る事と言えば嘆く事。どうして私は彼を不幸にしてしまうのだろう。どうして自分は無力なのだろう――……」


 聞く価値が無いと判断したはずの言葉が甦る。いや、言葉だけではない。あの目を背けたくなるほど痛めつけられた身体も鮮明に思い出せた。聖火に照らされた傷だらけの身体。新しい傷の下には古い傷があったのだ。目の前に立つこの男の手によって刻まれた傷が。

 舞台台詞は続いていく。ナイトは憐れみを装いながら笑う。


「洗脳しやすい子なんだろうね。力を見せつければ勝手に解釈してくれる。飴と鞭の使い分けも気分次第で効果が期待できちゃう。ところが、そんな洗脳のしやすさが災いし、彼女は宗教にどっぷりと嵌ってしまう」

「聖火を学ぶ会は彼女を病院に連れて行き、診断書を作らせた。DVの証拠としての効果は絶大だっただろう。なにせ所持金は6425円。それがほぼ全財産だ」

「DV男はご主人様の座を奪われた揚句に借金まみれ。どうにか彼女の目を覚まして取り戻したい。そりゃあ教祖様を失脚させるのが一番良いよね」


 ナイトが弄んでいた髪を手放す。台本を閉じる音に良く似ていた。

 スノーは観客の方へ感情を織り交ぜたアドリブを吐き捨てる。


「いっそ清々しいまでの屑だな」

「うるせぇよ!」


 沢田が開き直ったように喚き始めた。知的生命体と認めるにはあまりに獣じみた行為である。


「そこまで分かってんならいいだろうが! お前らにあの団体はくれてやるから、俺に七森って財布を返せ! そしたら金が入るって分かるだろ! なあ!」

「だからさー。さっきも似たような事をいったよね?」


 ナイトの口調は出来の悪い生徒を諭す教師に良く似ていた。


「聖火を学ぶ会は私達の好きにする。七森彩愛も私達の好きにする。沢田さんに情報を売る必要が何処にあるというの?」

「っのやろ! 女のくせに舐めやがって!」


 逆上した沢田が拳を振り上げる。理性では相手の方が優位であると理解していただろう。スノーから唾棄されようとも堪えきれた。だが、ナイトは、女は沢田にとって道具であり、歯向かってはならない下等生物だ。それをこの女に叩き込ませるのが自分の使命であると確信していた。

 まずは邪魔な位置にいる男を殴って椅子にする。それから女をたっぷりとなぶる。ここが騒いでも問題の無い個室である事も沢田の背を押した要因だろう。

 身体を大きく見せるように拳を奮う様は恐怖を煽る。弱者への殴り方を熟知したその殴り方は、反撃を想起していない脆弱さも兼ね備えていた。


 素早く立ちあがったスノーが無防備な胴体を拳で貫く。的確に急所を打ちこまれた沢田の呼吸が一瞬止まる。訳が分からぬまま自分の腕を後ろに回されたかと思うと、顔面を床に押し付けられた。ナイトが目を軽く擦る間の、ほんの短いひと時である。

 沢田はまだ状況の把握が追いついていなかった。自分を見下ろしている少女の瞳がとても冷やかで、侮蔑の眼差しだとかろうじて理解できる。だが、どういうわけか怒りは霧散しており、空っぽの頭には彼女特有の高い澄んだ声が反響するばかりであった。


「まあそんな訳だからさ、この話はこれでおしまい。って言っても沢田さんが簡単に納得してくれないよね。代わりと言っては何だけど、沢田様におすすめの情報がございます」


 パッと花が咲くようにナイトは微笑んだ。それは沢田が最初に見たナイトの営業スマイルであった。はつらつとした明るい声でナイトは情報の概要を述べた。


「沢田信之――あなた自身の情報を買いませんか? 実はこの男、あまり評判の良くない所からお金を借りたまま、まだ返していないそうなんです。おかげでとある業者さんからぜひともこの男の情報を売ってほしいとせがまれているんですよ。沢田様がご購入されないと言うのでしたら、今すぐにここに呼び出して取引をしようと思っております。やはりこの情報社会、個人情報は自分で守らないといけませんよね。ご安心ください。今回は初回のご利用ですのでサービスとして、私どもがお勧めする素敵な金融業者をご紹介いたしますよ」

「な……あ、ぐ……」


 もがこうにも動けない。沢田を取り押さえるスノーはいつもと変わらぬ涼しい顔をしている。さして力を込めている様子は無く、そればかりか右手を離すと沢田の首筋を人差し指でなぞった。瞬間、黒い毒蛇が巻きつく幻覚をみる。ナイフのように鋭い殺気を孕んだ指に沢田は恐怖した。死ぬのだと直感し、絶望する。


「あぁ、スノー。お客様に手荒な真似をしてはなりませんよ」


 ナイトが芝居がかった声でいさめると、ふっと戒めが解ける。しかし身体ががくがくと震え、目の前に差しだされた黒い手を取ることすらできずにいた。ひどく寒い。冬の夜かと錯覚しそうである。歯ががちがちと音を立て、目から涙が滲み出た。


「沢田様、どうしてこのような所に寝そべっていらっしゃるのですか。どうぞお席におかけになってくださいませ」


 わざとらしいとしか呼べぬ声でスノーが言葉を紡ぐ。それでも身体が言う事を聞かない沢田は潰れた蛙のように床に這いつくばっていた。

 業を煮やしたスノーがとどめの一言を告げる。


「ナイトの気が変わらないうちに指示に従え。お前は今から財布なんだよ」


 沢田にはその声が聞き知った誰かの声に聞こえた気がした。思いだすよりも先にグラスの中の氷が融けて崩れる。冷たい、冷たい音だった。


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