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八  ──口惜しさと嘆きと




「やっぱり、ここの人たちは強いんだね」

 私はぽつりと、そう口にしていた。華ちゃんが立ち止まった。

「東北の人たちは我慢強いって、色んな人が言ってる。私も今、そうなのかなって思った。だって、大切な人やモノを奪った海がすぐそこにあるのに、まだここで暮らしているじゃない。恐怖とか悲しみとか、そういうマイナスな気持ちを乗り越えなきゃ、私にはそんなことはできっこないよ」

 話しながら、なんだか自分の口で話していないような感覚がしていた。

 『東北の人は強いから』。そう理由づけてしまうことは、裏を返せば私にはその強さを知ることができないのを認めることになる。私がここへ来た意味の多くが、失われてしまうことになるんだ。……そうとは分かっていたけれど、それ以外の結論を導き出すことができる当てなど、私にはあるはずもなかった。

「どうかな」

 華ちゃんの声は、どこか冷めているように聞こえた。

 道端にしゃがみ込んだ華ちゃんは、アスファルトと土の隙間に生えている草や葉を手に取った。それをじっと見ながら、言う。

「海水に浸かった草って、根っこから枯れるの。大木だって容赦なく枯れる。津波に洗い流されたこの辺りは、一度、丸裸にされた」

 何の話か咄嗟に悟ることができずに、私も華ちゃんの隣にしゃがみ込む。

 華ちゃんは手に取った草を、優しく撫でていた。

「その丸裸の土地にも、こうやってまた、草が生える。何十年も経ったら津波が襲ってきて、二年半前のように殺されてしまうかもしれないのに」

「うん……」

「この子たちは、忘れているんだと思う。忘れているからこそ、また賑わいを取り戻している。見てよ。ずっと向こうの丘の上まで、草がびっしり萌えているでしょ?」

 そこまで聞いたところで、華ちゃんの言いたいことがようやく私にも掴めてきた気がした。華ちゃんの示す方向は見ないまま、私は口を開いた。

「ここの人たちも、忘れていく……っていうこと?」

「そうは言ってないよ。でも、そう考えることだってできるでしょ。東北の人たちは忍耐強い、なんていう出所の分からない言説より、その方がよほど筋が通ってる」

「…………」

「話したよね。震災遺構として保存される候補の筆頭だった漁船が、解体されること」

 うん、と頷く。

「つらいことを忘れなきゃ、人は前を向いて生きていけない。そうしなければいつまでもいつまでも、二度と触れ合うことのできない亡霊に後ろ髪を引っ張られることになる。漁船が解体されるのだってそういうことよ。教訓を大切にしていかなければいけないのは分かっていても、過去を思い出すのはやっぱりつらいから、その原因になるようなモノが残っていてほしくない──そう考える人が多かった、っていうことよ。……本当はもっと積極的に、忘れてしまっていくべきなのよ」

 そこまで言い切ったところで、華ちゃんが小さく嘆息した。無秩序に生い茂る草たちの間から、リー、リーと虫たちの歌声が聞こえている。


 今の、この気持ちを、何という言葉で表現すればいいのだろう。地面に目を落とした私は、しゃがんだ姿勢のまま膝を抱え込んだ。

 悲しい。と言うよりも、寂しい。華ちゃんの言っていることにはきちんと意味が通っているのに、そんな風に思ってしまう。

 つらい記憶を忘れることで、確かに人は前を向くことができると思う。私だってそこに異論を唱えるつもりはないんだ。ただ、本当にそうなのだとしたら、被災した人たちの浮かべていたあの笑顔は何なのだろう。実体のない、空虚な笑みになってしまうような気がしてしまう。

 もしそうなら、それはやっぱりどこか、寂しい。けれどその気持ちを、正確に言葉に直して華ちゃんに伝えることのできる自信は、どうしても私の中に生まれてきてはくれない。

「……死んじゃった人は、忘れてほしいなんて思ってるはず、ないのにな……」

 結局、華ちゃんには聞こえないくらいの声で、そう口にすることしか叶わなかった。

 それからしばらく華ちゃんと私は沈黙したままだった。海からの風に乗って漂う草熱(くさいき)れの残滓に、じっと身を包ませていた。風に揺さぶられてさらさらと鳴る草たちの声は、ごらん、僕たちはここへ戻ってきたよ、とでも愉しげに歌っているようだった。


「海、見に行こうか」

 言うなり、華ちゃんは立ち上がった。




 いつか女将さんが話してくれたように、半島状のこの地区の先端・岩井崎は、やや小高い丘になっている。

 もうひとつ『御伊勢崎』という岬もあるけれど、こちらは岩井崎に比べると標高も低いし、建物もあまりない。二つの岬の共通点は、どちらも鉄道の通っている階上地区から下った場所にあるということだ。

岩井崎が波をかぶったのだから、階上地区との間にあるこの一帯が水没しないはずはなかった。家一軒残っていない、まるで新田開発か宅地開発の途上かのような風景の中を、私たちは海に向かって歩いた。

 どこを見ても足元で草が笑っている。ニンゲンって弱いんだね──そう嘲笑されたような気がしてしまった私の心は、やっぱり、弱いんだろうと思う。


「この辺りでも、その……遺体って見つかったの?」

 後ろを歩く私が問いかけると、当たり前じゃない、と不機嫌そうな声が返ってきた。

「何人も見つかったよ。津波に壊されるだけ壊されて置き去りになった、たくさんの瓦礫の中でね」

「……ごめんなさい。そうだよね」

「どこだってそうよ」

 心なしか、華ちゃんの歩く速度が速い。

「波路上の家はほとんど全て、全壊か浸水の被害を受けた。右手の丘の方、通信塔みたいなのが建ってるでしょ。あの一帯は杉の下地区って言って、波路上でも唯一、津波で家が全滅(・・)した地区なの」

「全滅……って」

「一軒残らず、全壊した。つまり完全に水没したか流されたって言うことよ。今は住民ゼロ、自治会も解散してしまってる。ついでに言うと、あの通信塔のある高台が、避難訓練でも指定されている津波避難場所だったの。結果的に杉の下地区だけで、九十三人もの犠牲者と二十四名の行方不明者を出してしまった」

 死者九十三人。気仙沼市全体の犠牲者数は千二百人だったはずだから、ここだけでその一割近くの人が亡くなったのか。

 滔々と語られる悲惨な話に冷静に耳を傾けている自分が、一瞬、私は怖くなった。こういう話を聞かされるたびに『またか』と感じてしまう自分が、いつしか慣れを感じ始めてしまっている自分が、恐ろしかった。

 忘れてしまった方が楽、か……。

 確かに、きりがないのかもしれない。十メートルもの津波が襲った地域で生きていれば、それこそ悲劇など枚挙に暇がないだろうし、感覚が麻痺してしまうのも時間の問題なのかもしれない。しれない、けれど。

 震災から二年半という年月が経ったのに、私は今でもまだ、鮮明に思い出してしまう。災厄に飲み込まれていく東北の姿をテレビの画面越しに見つめていたあの日の、画面を握り締めて『もうやめて』と叫びたくなるような、あの気持ち。

 被災者ですらない私だって、未だに忘れられないというのに……。

 『忘れることで人は前を向ける』──先刻(さっき)の華ちゃんの言葉が思い出された。あの時、そう強く語っていた華ちゃん自身が、実際はそのことを一番に望んでいるのかもしれない。あの言葉は「そうあるべきだ」であるのと同時に、「そうありたい」でもあったのだ。そうだとすれば、私がすんなりと受け入れることができなかったのも無理はないんだろうか。


「必死に生きようと、津波から逃げようとした私たちにはあんなに犠牲が出たのに、逃げも隠れもしなかった草や木たちは今、津波に飲まれて人家の消えたあの丘にも青々と繁っている。変な話だと思わない? 怖がるだけ怖がって犠牲を食い止められなかった私たち人間なんか、バカみたいだって思わない?」


 華ちゃんが呟いた。歩く速度が、少し、落ちた。


「家も町も仲間も、全てを一瞬のうちに失って、それでもなお失った悲しみの中で生き長らえるなんて──。こんなことならいっそ、後腐れなく何もかも飲み込んでくれればよかったんだ。誰一人生き残れないくらいの巨大な津波で、気仙沼の全てを洗い流してくれればよかったんだ……。苦しむのも、悲しむのも、もう……たくさんだよ」



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