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六  ──踏み込んだ世界は




 待ってて、と口にした華ちゃんは、どこかへ姿を消したかと思うと懐中電灯を手に戻ってきた。

 点々と続く街路灯はLEDのもので、照らされている範囲に限ってはそれなりに明るい。けれど、それは広い波路上地区のほんの一部だけだ。華ちゃんの懐中電灯が放つ光の輪がなければ、そこに何があるのかを見ることも叶わなかった。

「……どこへ行くの?」

「来れば、分かるよ」

 私の問いにはほとんど答えてくれないまま、華ちゃんはすたすたと道へ出て行ってしまう。こんなところではぐれてはたまらないから、私も少し後ろを追いかけた。本当は、ふと通り過ぎた物陰から何かが顔を覗かせているような気がして怖かったけれど、肩を掴んだり手を握ったりすれば華ちゃんを怒らせてしまうだろうと思った。私からすればその方が怖かった。

 そう言えば、どうして華ちゃんは制服姿なのだろう。普通に考えて、あの時間に学校から帰宅したり、或いは登校したりするとは考えにくいのに。

 私の数歩先を歩く華ちゃんの背中を見ながら、私は自分の服装を幾度となく見比べた。

 違和感がある点はそれだけではなかった。私の通う大崎女学苑の制服も、華ちゃんのようなブレザーだ。今は九月、まだ時期としては夏服のはず。それなのに華ちゃんはなぜ、冬服のジャケットまできっちりと着ているのだろうか。初めから夜の散歩にでも出掛けるつもりなら、制服などより薄手のジャンパーを羽織った方がよほどいいはずだ。

 私はもう少し厚着をして来ればよかったな。布団をかぶるのが前提の薄い寝間着を指でつまむと、ふわりと膨らんだ隙間から後悔と不安が一度に肌着の中へと流れ込んだ。


 歩きながら、華ちゃんは話してくれた。

 この波路上地区には元々、五百ほどの家や観光施設、高校、ホテル、冷凍工場、漁港、それに神社や寺院が建ち並んでいたこと。洋上で地震が発生すればここへ津波が押し寄せてくることは、学校でも繰り返し習わされていたこと。事実、震災前年の二〇一〇年には南米チリで地震が発生、大津波警報が発令されて実際に避難が行われたこと。そして、この一帯の避難場所になっていたのは、私たちの泊まっている民宿『曼珠沙華』であったこと。

「泊まっているんなら、花も見たでしょ。うちの民宿の調度品が、どれも経年劣化のない綺麗な状態だったこと」

 そう言われた私が真っ先に思い浮かべたのは、食堂だった。綺麗だったかどうかは思い出せないけれど、どちらかというと食卓や椅子から食器に至るまで、立派な外見の割には少し安そうな物を使っているんだなと感じたものだった。

「でも、それって地震で落ちて壊れたりしたからじゃ……?」

「そうだとしても食卓まで交換する必要はないじゃない。食堂で使うような大型の食卓は頑丈だから、地震なんかで壊れたりはしないよ」

 それなら……。尋ねようとした途端、私は自ずとその答えに思い当たってしまった。

「あの民宿、けっこうな高さまで浸水したんだよね」

 何でもないことのように、華ちゃんが続きを口にした。

「避難場所になっていた民宿が、よ。それどころかあの民宿の一帯は、JRの線路のすぐ近くまで津波に飲み込まれたの。全壊を免れたのが、むしろ奇跡なくらいだった」

「…………」

「当然、犠牲者が出た。あの民宿より海側のエリアで、生存者がいたのはたった二ヶ所だけだった」

 いつか女将さんが話してくれたことが、私の耳のそばをそっと掠めるようにして甦った。

 そうか、その一つは岩井崎なんだ。全壊を免れた建物が、あの場所には何棟か存在したはずだ。

「もう一つは、あれよ」

 私が岩井崎のことを考えているのを知っていたのか、華ちゃんは懐中電灯を左へ向けた。光の輪の向かう先を追って、私も視線を左へ向けた。

 暗闇の中に建物が浮かんでいた。校舎のような外見のそれは、あちらこちらの壁や窓が無残にも崩れ落ち、まるで廃墟然として立ち尽くしている。

「……ここ、もしかして」

 華ちゃんは頷いた。

「気仙沼望洋高校の校舎跡よ。今は内陸の仮校舎に機能を移しているけれど、昔はここに大きな校地を持っている立派な高校だったの」

 じゃあ、ここがかつて華ちゃんの母校になるはずだったんだ。

 砂利の敷き詰められた道の先にぼうと浮かぶ校舎を、私は何かに取り憑かれたようにじっと眺めていた。ここも少なからず津波の直撃を受けたに違いなかった。ぐにゃりと呆気なく曲げられた鉄筋が、壁の崩れたそこかしこでむき出しになっている。

 と、その砂利道に置かれて通せんぼをしている工事用の看板をあっさり押し退けて、華ちゃんは中へ入って行こうとする。

「い、いいの⁉」

「別に大丈夫よ。建物の床が抜け落ちたりはしないから」

「でも……」

「ここへ来れば花にも見当がつくはずよ。この地区を浚っていった津波が、どれだけ大きなものだったのか」

 足元、危ないから気を付けて。そう注意はしてくれるけれど、自分が懐中電灯を握ったまま華ちゃんはずんずん進んで行ってしまうので、私は目を皿のように細めて懸命に地面を睨みながら歩くしかなかった。

 敷地に足を踏み入れると、そこにはたくさんの被災物が(うずたか)く積まれていた。すぐ頭上に、校舎が見える。四階建ての高い壁に、私たちの歩く音だけが反響する。

「気仙沼市は、ここを震災遺構として保存する気なの。だから校舎内はなるべく当時の姿のまま、維持してある」

 先を歩く華ちゃんが、建物の入り口を示しながら言った。

「本当はここじゃなくて、鹿折に打ち上げられた第十八共道丸を保存する予定だったんだって。けど、あっちは全市民に向けたアンケートで賛否を問うた結果、解体されることが決まった」

 私が見た漁船のことだ。すぐに、そう気付いた。

 どうして解体してしまうんだろう。あれほど端的に、あれほど分かりやすく津波の威力を見られるものなんて、他にはないのに。

「ねぇ、華ちゃん──」

「花は怪獣に大切な人を殺されたとして、その怪獣の残していった足跡を毎日のように眺めながら暮らせる?」

「…………」

「私は、遺されるのがこっちでよかったと思ってる。向こうはどう頑張っても、津波の凄さまでしか伝えられないから」

 それなら、この校舎は何を伝えられるというのだろう。華ちゃんはそこまで説明してはくれなかった。

 廊下を進む。ふと覗いたトイレの中には、歪んで原型を留めていないドアや陶製の便器の破片が乱雑に転がっていた。突き当たりの部屋は柱が大きく抉れて、その空間から入ってきたのか、一台の乗用車が鎮座していた。ボンネットもタイヤも、特大のハンマーで叩かれたように凹んでいた。

 絶句した私を見て、そんなに肩を強張らせる必要ないよ、と華ちゃんが声をかけてきてくれた。

「さっきも言ったけど、ここでは死人が出てないから。生徒は内陸の中学校に避難して、先生方は屋上に避難して、全員無事で生還した。それどころか校舎に引っ掛かった家の屋上から、漂流していた人を救出したくらいなの」

「でも……」

「ショックを受けるのは、四階に上がってからでも遅くないと思うわ」

 それきり、華ちゃんは階段へと歩を進めていってしまった。

「ま、待ってよ」

 慌てて追いかけたくなる気持ちを抑えて、私は落ち着いて床を警戒することを心がけた。油断すると何かを踏んづけてしまいそうだった。





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