四 ──歪んだ思い出と
そもそも私たち五人が、どうしてここに滞在しているのかというと。
他所の学校では、クラスや学年単位で被災地にボランティアに赴くケースが多い。そういう時、企画立案をするのは大概先生方の役割で、生徒は先生の決めたスケジュールに則って移動し、泊まり、作業に勤しむばかりだ。けれど私たち大崎女学苑では、そういう活動は一切存在しなかった。ボランティアは本質的に、強いられて行うものではない──そんな考え方をする先生方がほとんどだったから。
『せっかくの夏休みだしさ、被災地に行ってみようよ。私たちでも何かできるかもしれないじゃない』
事の発端は一学期の半ば頃、実由ちゃんがそう言い出したことだった。
実由ちゃんの声かけに賛同して集まったのが、私たち五人だった。以前からそうやって被災地に赴く生徒はいたそうで、その時に付添の経験があったという社会科の小本先生に同伴を依頼した。ボランティアも旅行も初心者だった私たちだけではどうにも心許なかったし、何より素人だけでは危険だと思ったからだ。
計画を立て、親御さんに説明し、現地にアポイントを取る。そこまでのすべてをあなたたちがやること。先生からはそんな条件が提示された。以来一ヶ月間、慣れない電話や旅行計画の行程作りに奔走して、ようやくこのボランティア旅行は実現している。
ボランティアには自己完結性が求められることや、現地にはまだまだ危険な場所が多いことも、計画を立てる中で学んだ。現地までの所要時間や活動の需要、宿泊先の確保できる見込みを総合して、慎重に目的地を選定した。どんな作業が待っていてもいいように、鉄板を敷いた頑丈な長靴やゴム手袋まで用意した。
テレビではあんなに当たり前のように取り上げられているボランティアが、実際に行うとなるとこんなに大変なんだ──。
何度、嘆息しながらそんなことを思っただろう。
そして当日、長距離夜行バスを降りた私たちを気仙沼市役所の前で待っていたのは、達成感や高揚感のような前向きな感情だけではなかった。いよいよ現地に踏み込むんだという緊張で、私たちの顔は一様に、固かった。
「実由ちゃん──あ、私たちのリーダーの子なんだけど、あの子は震災の時からずっと、被災地ボランティアに行きたがっていたんだって言ってたんだ」
もう数ヵ月も遠ざかってしまっていた会話を思い返しつつ、浮かんだそれを私は自分のことばに置き換えていった。
「あの子、おばあちゃんが名取市の沿岸部に住んでたらしくて、押し寄せてきた津波に飲まれて……。でも、危ないからってあの子は現地に行かせてもらえなかったんだって。おばあちゃんを不幸にした震災の痕跡をこの目で見ておかないと気が済まないって、準備をしている間に何度も言っていたの」
「…………」
華さんはもう長い間、沈黙を保ち続けていた。鈴虫の歌声が、どこからか聴こえてきた。
「薫ちゃんは以前、もっと酷かった頃の石巻市にボランティアに来た経験があって、石巻以外の被災地にも行ってみたいっていう気持ちがあったみたい。久海ちゃんは新聞とかテレビが伝える震災のニュースに信用がおけない、この目で本当に起きていることを見てきたいって言ってた。沙耶子ちゃんは何て言ってたかな……。確か、こういうことをできるのは今だけだからっていうのが、動機だったと思う」
「…………」
「先生は岩手県の出身で、実家が罹災したそうなの。私には震災に関わる義務がある──以前、私たちにそう語ってくれた」
「……東京の人でも、意外と被災地との縁ってあるものなのね」
華さんの言葉に、私はそっと頷いた。
実由ちゃんが今回、声をかけることのできなかった人たちの中にも、東北に縁があったりボランティアに行きたいという願望を抱いている人はいるのかもしれない。自分だってそうだ、と思った。私自身も実由ちゃんの提案を受けることがなければ、きっと今、ここでこうして気仙沼の街並みを眺めていることなんてなかっただろう。
私にも、あの子のような勇気があればよかったのに。
吹き出した浅いため息が、夜の向こうへ消えてゆく。その行く手を惚けたように見つめていると、不意に華さんが、話しかけてきた。
「あなたのを聞いてないけど」
「えっ」
「あなた自身は、どうしてここへ来ようと思ったの?」
「わ、私は……」
大した理由はない、と口にしてしまいそうになって、すんでのところで私は思い止まった。被災した人の前で、そんないい加減なことを言えるはずがない。
……自分の動機を語らなかったのは、わざとだった。ここへ来たいと思った理由は、私にだってちゃんと備わっているんだ。
けれどそれは、被災した人たちの前で口にするには、少し躊躇いのある理由で……。
「ないんだ」
華さんが、がっかりしたような声を上げた。私は慌てて弁明しようとする。
「そんな、ないわけじゃ」
「それなら教えてよ」
「……どうしてそんなに、知りたいの」
「ただの興味よ」
嘘だ。華さんはきっと分かっているに違いない。その人がどのくらいいい加減な気持ちで被災地と向き合おうとしているのか、ここへ来た理由を聞けば大概の察しがついてしまうことを。
やっぱり嘘はやめよう。決心した私は、尋ねた。
「長くなるかもしれないけど、聞いてくれる?」
その時、ふっと鈴虫の音色が、遠くなった気がした。
◆
二〇一一年三月十一日──今からちょうど、二年半前。中学一年生だった私は、午前中だけの部活を終えて、帰宅したところだった。私立の中高一貫校である私の母校は、修了式の日程が他所と比べてずいぶん早かったのだ。
二歳年下の妹は、小学校に登校中だった。普段よりも遅めの昼食を、パート帰りのお母さんと一緒に摂って、午後はどうしようかと思案しながら食後のお茶を啜ろうとしていた午後二時四十六分。それは、起きた。
勢いよく家が揺れ始めた。机の下に入りなさい! ──倒れた湯呑みからお茶が飛び散った音に、お母さんの悲鳴にも似た声が重なった。
机に入りながら、庭に面した大窓を開いた。建ち並ぶ家も、木々も、みんな揺れていた。揺れは三十秒以上は続いていたかもしれない。お願い、早く収まって。机の足を掴みながら、目を固く瞑って心の中で叫んだのを、今も私は色濃く覚えている。
揺れが収まると直ぐ様、お母さんはリビングのテレビへと飛ぶように駆け寄った。蒼白な顔のアナウンサーが、震源は東北の洋上だ、津波の危険があると懸命に叫んでいるのが見えた。
“ツナミ”。聞き慣れないその言葉を、私はぼやけた頭で聞いていた。
それまでリアルタイムで見聞きしてきた日本の地震の中に、被害を及ぼすほどの津波を起こした地震はなかったからだ。新潟県中越地震、能登半島地震、岩手宮城内陸地震。関東大震災や阪神淡路大震災でさえ、そうだった。地震と言えば揺れで家々が崩れ、後を追うように火災や土砂崩れが街を破壊する災害なのだとばかり思っていたんだ。
だから、自宅の外へ出て近所の人たちと合流し、みんなで小学校へお迎えに向かった帰り、ワンセグを見ていた誰かが怒鳴った時には唖然とした。言っていることが分からなかった。
『津波が街を飲み込んでいく』と。
自宅に帰りついた私の目に入ったのは、テレビの大画面に映る東北地方沿岸の様子だった。壁のような漆黒の大波が、堤防を易々と打ち砕いて市街地に侵入したところだった──。
東京の揺れは、ここよりも小さな震度五弱だった。それでも古い建物の天井やスロープが落ちて人が亡くなり、海沿いのコンビナートでは爆発事故が起きた。都心の大きなターミナル駅では電車が全て運転を取りやめてしまって、町は帰宅できなくなった人たちで溢れ返った。それだけでも十分、震災と呼べる次元の被害だっただろうと思う。
深夜になってようやく、都心の職場からお父さんが徒歩で帰宅した。なすすべもなく破滅してゆく東北の街を、私も、妹も、食い入るように見つめていた。できすぎた特撮映画でも観ているような感覚だったのか。それとも起きていることが理解の範囲を完全に超えていて、何かを考えることができなくなっていたのか。
二日後には職場が復旧して、お父さんもお母さんも出勤するようになった。妹の小学校も、登校が再開された。私の中学はすでに学期末だった上、全ての部活に活動自粛命令が出されていた。余震のおそれも消えたわけではない以上、家で大人しくしていなさい──お母さんからそう言い渡された私は、孤独な家の中に閉じ籠っている他なかった。あいにくゲームも漫画も本もそんなに持ち合わせていなかった私にとって、唯一の娯楽といえば居間の大きなテレビだけだった。
思えば、それが私にとって、最大の地獄だった。
地震で崩れ、津波に流され、潰滅した東北の町や村の姿をテレビは延々と流していた。瓦礫の山の中を歩き回りながら、行方不明の人の名を泣き叫ぶ人たちがいた。今にも迫ってきそうな洋上火災を前に、水没して孤立した建物からヘリコプターで人々を助け出そうとする自衛隊の人たちがいた。福島県内の原子力発電所は、堤防を突破した津波に敷地内を蹂躙されて制御を失い、放射能を撒き散らしながら爆発。その瞬間はテレビに大映しになり、早期復旧が絶望的であることを私たちに知らしめた。刻一刻と増える死者、行方不明者、倒壊家屋、被災地域、経済損失、不足電力、必要な援助物資や人手、投入される消防や警察の人員──。
その光景を私は、たった一人の居間で見続ける羽目になったんだ。
大丈夫、ここは安全だよ。そう言って頭を撫でてくれる手は、そこにはなかった。怖いねと言って見合わせてくれる顔も、そこにはなかった。目元から滑り落ちた涙を掬い上げてくれる指もなければ、何も言わずに抱き締めてくれる腕もなかった。
私だけじゃない。被災地の人たちだって、同じなんだ。あの人たちだって、大切な存在を失って独りぼっちで苦痛に耐えているんだから。そう自分に言い聞かせるたび、もうやめてとテレビに向かって喚きたくなった。喚いて、テレビを消して、声を上げて泣けたなら、どんなにか楽だっただろう。けれど私にテレビを消す選択肢はなかった。ニュース番組の余韻が失われた後の、無限にしんとした静寂の方が、私にとっては何倍も恐ろしかった。
電力不足対策の計画停電が始まる頃になって、ようやく妹の小学校が修了式を迎えた時、ああ、これでもう安心なんだと、心から思ったものだった。不謹慎だなんて百も承知の上だった。
揺れはしたけれど、怪我をしたり何かを失ったことはない。
津波も、火災も、土砂崩れも、放射能汚染も受けていない。あの時、私は被災者ではなかった。
そうだとすれば、たった独りで被災地の惨状を眺め続け、独りで傷付いていたあの時の私は、何だったのだろう。