一 ──最後の夜に
私が初めて、この場所──宮城県気仙沼市を訪れたのは、ちょうど今から三年前のことだった。
二〇一三年、九月。私がまだ高校一年生だった頃の話だ。
さかのぼること二年半、二〇一一年三月十一日。この町を含む太平洋沿岸を大災害が襲った。最大震度七に及ぶ巨大な地震と、震源が洋上だったために発生した大津波。直撃を受けた町や村は文字通り壊滅、東北地方の北部から関東地方の南部に至るまで大きな被害が生まれた。一万五千人の生命が奪われ、数多くの人々が帰る家や働く場所を失った。東日本大震災──のちにあの大災害は、そんな名前で総称されるようになった。
私たちはその復興ボランティアとして、気仙沼の地を踏んだのだった。
九月。台風の季節にも関わらず気候は穏やかで、晴れ渡った初秋の空がずいぶん高くなったように感じられる、そんな日々だった。
あの時、あの夜を過ごすことがなかったなら、私──亘理花の生き方は、今よりもっと違うものになっていたんじゃないか。今は、そう思う。
九月十日の夜。三泊四日の行程のうち、もう三日目を終えてしまった私たちは、翌日の午前中の作業を残すのみだったこともあって、それまでの疲れが吹っ切れたように夜更かしをしていた。
「明日はどこになるんだろうねー。また海岸清掃かなぁ」
「昨日の午後みたいに仮設住宅訪問だったら楽なのにね。ちっちゃい子たちと遊ぶの、ほんっと楽しかったんだから!」
「だけどほら、一週間前の台風で漂流物がずいぶん打ち上げられたってKRRAの人も言ってたし、きっとまたどこかの海岸に派遣されるんじゃない?」
大部屋の真ん中に並べた布団の上で寝転んで、トランプをやったり人生ゲームに興じたりしながら、そんな会話をしていたのを覚えている。
私たちのメンバーはぜんぶで六人だった。内訳は生徒五人、付き添いの先生一人。みんな同じ東京の女子高の仲間だ。
「なんか、いざ三日目が終わってみると、あっという間だったような気がするよね」
デジカメの写真を見返しながら、宮古実由ちゃんがそんなことを呟いていた。お風呂上がりで頭にタオルを巻いた姿は、他のメンバーよりも心なしか大人っぽい。実由ちゃんは、私たち五人のリーダーだった。
あー分かる、と小泉薫ちゃんが応じた。バスケ部のエースでもある薫ちゃんは、今回のメンバー一の力持ちだった。
「初日に市役所前のバス停に降り立った時は、どんな大変な作業が待ち受けてるかって思ってたけど。被災物を拾い集めたり木を植えたり、なんか意外とつらくない作業の連続だったよねー」
実際、薫ちゃんの働きは目覚ましかった。深々と刺さった流木を引き抜いたり、車のバンパーを一人で持ち上げたり。よそのボランティアさんたちからも称賛を受けていたものだった。
「薫は苦労してないからそんなことが言えるんだよぉ……。私なんてもう身体、ばきばき……」
腰をさすりさすり、鮫川久海ちゃんがそう訴えると、それを横目に見ながら久慈沙耶子ちゃんが可笑しそうに笑う。「久海、おばあちゃんみたいー」
「うるさい! いいでしょ、昨日の松岩の仮設では頑張ったんだし! 言っとくけど、私の手品けっこう人気だったんだからね」
「でも子どもウケがよかったのは私だよ? 久海のところはお年寄りばっかりだったじゃん」
「あーもうー!」
楽しそうに騒ぐ二人を、実由ちゃんも薫ちゃんも微笑ましそうに目を細めて眺めていた。二人とも肉体労働向きの体格はしていないけれど、頭脳派の久海ちゃんは多種多様な芸や技を持っていて、ムードメーカーの沙耶子ちゃんは周りを盛り上げる才能に長けている。
あまりにも声が大きくなってきたから、私は慌てて口を挟んだ。
「も、もうちょっと静かにしようよ……。隣で寝てる先生、起きちゃうよ」
付添をしてくれている社会科の小本雫乃先生は、あんまりはしゃぐと明日身体が持たないわよ、とだけ言い残して隣室に消えていったばかりだった。こんなことで怒られるのはごめんだったし、もしも眠りの邪魔をしてしまっていたら申し訳ない。
それもそうだね、と実由ちゃんが頷いてくれた。「ほらそこの二人、ボリューム下げなさい」
取っ組みあってくすぐり合いを始めていた二人は、悄気たように座り直した。それがなんだか可笑しくて、みんなでまた、笑った。
震災被災地のボランティアには、色んな在り方がある。今回ここへ来ようと計画を立てる段階で、私たちはそのことを初めて知った。
物資も人手も足りていない被災地へ行くのだから、ボランティアが現地の人の足手まといになってしまっては本末転倒だ。だからボランティアには本来、現地での宿泊先、食料、作業に必要な道具一式、それから移動手段を、何もかも自分たちで用意して行くことが求められる。実際、東日本大震災の発生直後に被災地域に乗り込んだボランティアのほとんどは、そういう大規模な装備に身を固めて作業に臨んだのだそうだ。
けれど、そういう本格的な準備を行うことのできるボランティア要員は、実のところそこまで多くはない。誰しもいつも手が空いている訳ではないし、震災から日が経つにつれて、どうしても参加できる人の数は減少に転じてしまう。そんな事情の中でも人手を確保するために、復旧作業が進むにつれてボランティアの補助を行う団体が現れるようになった。移動や食料の手配を全て済ませてくれるバスツアータイプのボランティアなんかは、その一例だ。
行き先に気仙沼市を選んだはいいものの、自動車免許を持っていないために、移動手段や車中泊という滞在手段の選択肢を持ち合わせていない私たちは、地域の復興作業を推進している団体さんにボランティアとして受け入れてもらうことになった。一般社団法人、気仙沼復旧再生協会。復興財源からの交付金で運営されているその団体は、受け入れたボランティアを作業の需要のある場所へ送り込んだり、発見された写真類の復元や保存を行ったり、仮設住宅に住む人たちの生活支援や就労支援を行ったりしているところだ。
『お車をお持ちでなければ、我々の運転するバンで現地までお送りしますよ』
おっかなびっくり電話をかけた私たちに、向こうのスタッフさんはそんな提案をしてくれた。
国道四十五号線の沿線に位置する気仙沼市中部のJR陸前階上駅周辺は、高台になっていて震災の津波被害も受けなかった地域だ。そこに本部を置くKRRAの事務所が、私たちのボランティア作業の拠点になった。事務所まですぐに向かえるように、すぐ近くの波路上地区にあるこの民宿『曼珠沙華』で、私たちはこうして寝泊まりをしている。
閖上さんという夫妻の切り盛りしているこの民宿は、お寺然とした純和風の外見と高台からの眺望が素敵な民宿として、震災前から人気だったんだそうだ。どんな景色が見えるんだろう。半ばわくわくした気持ちを抱えながら、初日の夕方に初めて部屋に入った私たちはさっそく奥の窓を開きに向かったっけ。
……そこに広がっているのが、建物の押し流された跡ばかりの続く荒涼とした景色だと知っていたら、私たちもあんなことをしたいとは思わなかったんだろうか。
気仙沼市は、宮城県の北の端にはみ出したような場所に位置する、縦長の市だ。
震災前の人口は七万人ほど。石巻や女川と並んで、東北地方でも有数の規模を誇る漁業の町だ。名産のフカヒレやサンマ、それからマグロやカツオの水揚げ量は、日本でも指折りに入るほど。遠洋漁業に向かう大きな漁船がひっきりなしに出入りしていて、よその漁港との交流も活発だったと聞いた。
豊富に水揚げされる魚介類を使っての水産加工業や、三陸海岸のリアス地形を目当てにやって来るお客さんを相手にした観光業も発達していた。そこまで大きい都市ではないけれど、港町としての賑わいをこの町はずっと保ち続けてきたんだ。
その気仙沼を、東日本大震災が襲った。
震度六弱の大地震の直撃を受けて脆くなった街に、最大高さ十六メートルに達する壁のような津波が、時速二十キロ超の速度で襲来……。
千二百人が亡くなり、今も二百人の行方が分かっていない。