什泗 ──この場所で、祈り続ける。
地面に置いた花束が風に撫でられて、ざわりざわりとくすぐったそうに笑っている。
あの日、私が受け取ったのと同じ真っ赤な彼岸花の花を、気仙沼駅からここへ来る途中の花屋さんで包んでもらった花束。
華ちゃんは私ときっかり三歳違いだ。震災から五年半、長かったはずなのに一瞬のように思えてしまう日々を超えて、私は今、大学一年生になった。華ちゃんは大学四年生か、或いは──花屋さんに就いているか。もしかしたら大学に通いながら、花屋さんでアルバイトをしていたかもしれない。
見たかったな。エプロン姿の華ちゃんが、たくさんの花に囲まれたお店の軒下に立っている姿を。
「三年って、こんなに長い間だったんだね」
腰を下ろした私は、高い空を見上げながらぽつり、呟いた。
「あの日までの二年半も、こんなに、長かったの?」
二〇一三年九月十一日。
華ちゃんと私の出会ったあの時間が、私たちのボランティアの最終行程日の始まりだった。
結局、眠りが浅くて寝不足気味を払拭することのできなかった私は、目の下に隈を作りながら朝を迎える羽目になった。みんなに繰り返し問われたのは言うまでもない。本当に何も覚えてないの、と。
覚えていないと私も言い張った。いないったらいないんだ。華ちゃんと私の時間をどう説明したところで、状況は分かってもらえても、あの瞬間の私の感情を分かってもらえるとはどうしても思えなかった。
その代わり私は人一倍、頑張った。眠気のせいだと言われないように、懸命に働いた。
最終日の活動場所は、大谷海岸と呼ばれる海辺だった。階上よりも一駅南のエリアに位置するその海岸は、綺麗で穏やかな砂浜をお目当てにして来た海水浴客の訪問が多く、震災前はとても賑やかだったんだそうだ。JR気仙沼線の線路はその海岸線すれすれを通っていて、列車から美しい海が見えるスポットとしても知られていた。──けれど今、大谷海岸に人の姿はほとんどない。気仙沼線も、もう走ってはいない。
少しずつ変わってゆく街並みの土を、私たちも確かに、踏み締めたのだ。
『華の浜』と書かれた立て札は、他でもない私が立てたものだった。華ちゃんの作った、見渡す限り一面の花たちの浜の意味を込めて。その立て札にそっと指を当てて、語りかけてみる。
「大谷海岸で活動した時の話、そういえばまだ、してなかったね」
華ちゃんの声は聞こえてこない。
「ほら、海岸清掃そのものは初めての経験じゃないし。それに前に話した尾崎の海岸と違って、大谷海岸にはもうかなり人の手が入っていたの。だから大したものは出てこないだろうってみんなで言ってたら、砂浜の中から動物の骨みたいなのが出土してね。人間かもしれないってみんなで大騒ぎしちゃった……。お巡りさんに『これはネコだね』って言われても、しばらく生きた心地がしなかったよ」
華ちゃんが私のことを見ているのを願って、照れ笑いを浮かべてみる。長期間にわたって捜索の手の入っていない海岸で人骨が発見されることは決して珍しくはないそうで、そのような場合に備えて清掃時には警察の人が立ち会うことになっていたのだと、後になってKRRAの人に伺った。
「他にもね、作業の途中で来た地元の親子連れの女の子が、私たちのやっていることに興味を示して近寄ってきたり、作業後にみんなで水切りをしたら私が一番たくさん回数を稼げたりしたんだよ。気仙沼線の廃線跡のトンネルもちゃんと残っててね、沙耶子ちゃんが入ってみようとか言い出して……。いけないことなのは弁えているけど、私も中くらい覗いてみたかったなぁ」
また、風がそよいだ。
誰かに苦笑いをされているような気がして、なんだかばつが悪くなる。照れ笑いはそのままにして、私は頭の後ろをかりかりと掻いた。
「……って、ごめんね。私、いっぺんに色々話しすぎたね。こうやって話していられる時間はあんまりないし、華ちゃんの話を聞くこともできないから、つい、たくさん話したくなっちゃって」
話しながら、無言のうちに問いかけてみる。
ね、華ちゃん。そろそろまた、私の前に出てきてくれてもいいんじゃないかな。ここには誰もいない。誰かに華ちゃんの存在を気付かれる危険だって、ないんだよ。
けれど返事の代わりに耳に流れ込むのは、ただひたすらに打ち付ける波の飛沫と、首もとを駆け抜けてゆく風の金切り声ばかりなのだった。
今回も、またの機会にお預けのようだ。閉じた口で小さく笑みを作ってみた私は、それからそっと、立て札に指先で触れた。──去年、私の申し出で女将さんと一緒に作った、この小さな立て札に。
私がここへ来るのは、実はもう、四度目のことになる。
三年前のボランティア旅行最終日は、私も意識がはっきりしていなかった上に日程も忙しなくて、ほとんど満足に挨拶も残せないまま旅館『曼珠沙華』を立ち去ってしまった。そのことがどうしても気がかりで、心残りで、いつかまた訪れたい──そんな思いに後ろ髪を引かれながら、気仙沼を後にした。
東京に帰還した私たちは、私たちを送り出してくれた両親や先生方、それから生徒みんなを対象に、ボランティア旅行の報告会を開催した。支えてもらった人に活動の報告をするのは当たり前だけれど、ついでに現地の状況を生徒にも知ってもらえたらいいよね。実由ちゃんの発案で準備の進められた報告会には、ふたを開けてみると百五十人もの人たちがやって来てくれて、私たちの方が動揺を覚えたくらいだった。正直に言って、こんなに関心を持ってもらえるとは思わなかったから。
見たこと、聞いたこと、感じたことを、そのまま言葉に乗せるのは難しい。生々しい破壊の痕跡を前にする時のあの緊張を、私たちはきちんと、伝えられたのだろうか。自信がなくとも一生懸命に話し続けて、一時間半の報告会はあっという間に終了した。
先生方からの評判はすこぶる良好だった。そして、それ以上に感動してくれたのが私たちの保護者、とりわけ私のお母さんだ。良かった、良かった、そんな言葉ばかりをうわごとのように連発しながら、お母さんは涙ぐんでいたものだった。あんな危ない所に行くなんて──私が宮城県に発つ前には訝しげな顔をしてばかりだったお母さんは、私が五感で被災を感じてきた経験を評価してくれたんだ。そう思った。
そのお母さんに、私は頼んだのだ。
『来年の九月、今度は家族みんなで行きたい。案内してあげるから』と。
震災被災地を訪問することには、少なくとも三つの意味がある。
ひとつは、伝聞では知ることのできない彼の地の今の姿を、目で、耳で知ることができること。自分たちの主義主張や目的に沿ったことしか流すことのないメディアには、決して映ることのないであろう『現実』が、そこには必ず残されている。
二つには、現地の経済を回すこと。お土産を購入したり飲食店で食事をしたり、あるいは宿泊することは、被災地に生きる人たちへとお金を落とすことに繋がる。義援金という形でなくても、結果的にそれは人々の家計を潤し、お金の回りを活性化させ、それが被災地の生活を豊かにしていくのだ。
そして三つには、得た知識や見聞きした話を、戻った先で誰かに伝えられるきっかけになること。被災地のことを知る人が増えることは、やがて襲来するかもしれない未知の災害の被害を軽減する可能性をも秘めている。
どんな形であれ、被災地訪問は無駄なことではない。私たちが、被災地が、そして日本が前を向いて進む上で、被災の現実を見に赴くことには必ず価値がある。
二〇一四年、九月。
二〇一五年、九月。
そして今。二〇一六年、九月。
私はもう四度も、この町に来ていることになる。二〇一四年は家族と一緒に、二〇一五年は家計からの資金援助を受けて、だ。
気仙沼市内にはいくつも観光ホテルがあるし、もっと安価な宿泊所も設置されているけれど、宿泊先には決まって『曼珠沙華』を選ぶようにしていた。今日もつい一時間前、高台から波路上を見守るあの旅館に荷物を置いて来たところ。女将さんはすっかり私の顔を覚えてくれて、今では『花ちゃん』と名前で呼んでくれるほどに親しくなった。ちなみに女将さんの名前は閖上恭子さん、お父さんは洋次さんと言う。
女将さんにとって、『はなちゃん』という響きで名前を呼ぶ人は、人生で二人目なのだそうだ。……一人目が誰なのかなど尋ねる必要もなかったのは、言うまでもないかな。
「女将さんね、宿泊者名簿に年齢までは書いていなかったから、私たちが自己紹介をするまで学年を知らなかったんだって。私が高校一年生だって知った時なんか、何かの巡り合わせかと思ったって言ってたよ。──って、華ちゃんはもう、知ってるか」
地面にお尻をついて空を見上げながら、私はまだ、華ちゃんに話しかけ続けている。
「前に女将さんが、頼んでもいなかったのにこのあたりの被害の状況を話してくれたことがあったの。あとで聞いたんだけどね、女将さん、私のせいで華ちゃんのことを思い出しちゃって、どうしても話さずにはいられなかったっていうことみたい。二度目に来た私が華ちゃんのことを口にした時の、あのびっくりした女将さんの顔、華ちゃんも、見てたかな」
家族でここへ着いた夜、私は華ちゃんのことを女将さんに尋ねたのだ。もちろん女将さんは、私たちの前では華ちゃんの存在そのものすら教えてくれたことがない。どうして知っているのと問い詰められて、かえって私の方がどう答えたらいいのか分からなくなってしまった。まさか幽霊に逢ったなんて、言えるはずもなくて。華ちゃんが地区の人たちに知られていたのを思い出して、町の人から聞きました、なんて嘘をつくしかなかった。
懐かしそうに目を細目ながら、女将さんは話してくれた。華ちゃんの過去、震災の日のこと、そして──遺体を発見した日のことを。
「ちょうど、ここだったんだってね」
言いながら私は、立て札を小さく揺すった。
「女将さんに連れて行ってもらったんだ。華ちゃんは津波に押し潰された花たちに囲まれていて、なぜかこの場所だけ、瓦礫がほとんど散らばっていなかった。女将さんはそう言ってたの」
ここへ来ると苦しくもなるけれど、でも同時に何だか、優しい気持ちになれる。あの日、女将さんはそう呟くように言って、微笑んでいた。淑やかに目元を拭いながら。
頬を滑った涙が落ちていった場所──華ちゃんが命を落としたその場所には、ちょうど狙い済ましたかのように、真っ赤な彼岸花が群生していたっけ。
そう。華ちゃんと二人で交わした、約束の花が。
「あの時、ようやく私、華ちゃんとの約束を実践できたんだよ」
私も、微笑んだ。
花束の彼岸花に負けないくらい、明るく。
華ちゃんの誕生日は九月十一日。ちょうど同じ時期に咲き誇る、あの真っ赤な彼岸花がとりわけお気に入りの花だったと教えてくれた女将さんの声が、耳の後ろでふわりと膨らんで消えていった気がした。
東日本大震災から五年半もの年月が経過した、二〇一六年。
全てを圧倒する津波の前に崩れ落ちた東北沿岸の町も、あれからずいぶんと様変わりした。
いつか華ちゃんが話してくれた通り、鹿折地区の大型巻き網漁船は解体された。それ以外の船はすべて海に戻されたので、いま、気仙沼市内に打ち上げられている船は存在しない。代わりに震災遺構として保存が決定した気仙沼望洋高校では、修復保存工事が行われている真っ最中だ。かつて隣にそびえていた焼却炉も、今はもう姿を消している。
不通になったJR気仙沼線の線路跡には、BRTの専用軌道が着々と完成しつつある。その横では道路や土地の嵩上げ工事が順調に進展していて、遠くを見渡せば竣工したばかりの災害復興公営住宅が林立している姿を拝むことができた。高層マンションとして設計された公営住宅には、津波から避難するための避難タワーの役割が同時に与えられているのだそうだ。高台移転で平らな土地の需要が増す中で、高層住宅と低層住宅をうまく配分することで市はバランスのいい安全な街並みを構築しようとしている。
漁船の数は格段に増えていた。湾を挟んだ反対側では幾つもの造船所が操業していて、大型の漁船が続々と建造されている。拡張工事や冷凍工場の新設が済んだ気仙沼漁港の市場には、かつてのような賑やかさが戻りつつある。──“かつて”を知らない私には、その様はむしろ遥かに元気になったように見えて、なぜか私も、嬉しくなった。三年前には閉業していた店舗や事務所も続々と営業を再開、損壊した文化財の修復も進んで、街は着実に『復興』への道を歩み続けている。
もちろん、変化はいいことばかりではなかった。市内に幾つも存在した仮設の商店街も、復興工事の進展した今では廃止が検討されていると聞いた。復興財源の削減に伴って予算が減らされた影響で、KRRAのように復興庁からの給付を受けて運営されている団体はどこも存続が怪しくなっているそうだ。以前よりボランティアの数もずっと減ってしまいましたし、私たちの需要や存在意義も含めて考え直すべき時期に差し掛かっているんでしょう──KRRAのスタッフさんのため息を、今も私は鮮明に覚えている。町中で見かけるトラックの数もぐんと落ちてきたことを考えると、仕事が減ることが望ましいのかそうでないのか、私には何とも言いようがない。
被災地の『今』は、目まぐるしく変わりつつある。そして幸運にも私は、その変化の様をこの目で見届けることができている。
だからこそ分かるのだ。唯一、変わってしまうことがないのは、ここで暮らしている人々だけなのだと。
『ほら最近、異常気象とか言うだろ? そのせいかどうか知らんが、どうもここのところ秋刀魚の獲れ高が伸びなくてなぁ。生活掛かってるんだから笑い事じゃないんだがな、ははは』
──尾崎の港で漁船の整備をしながら、快活に笑っている漁師さんがいた。
『昔、うちは家が海岸線沿いだったのよ。家が流されちゃって最初は途方に暮れてたもんだけど、三年前に国交省のお役人さんがここへ来てね。うちの敷地を買い取って堤防用地にするって言うので、うちの人ったらお金ができるぞって喜んでたわぁ』
『あら、お宅は堤防だったの? うちなんて将来用途未定で安く買い叩かれたわよ』
『こういうのは運よねぇ。あなたのところなんて敷地広かったし、そのうち工場でも建つんじゃないの?』
『だったら缶詰工場がいいわねー。敷地提供者っていうことでうちに缶詰を流してくれないかしら!』
──東浜街道の道端で世話話に私を混ぜてくれ、楽しそうに言葉を交わしていたおばさんたちがいた。
秋刀魚は気仙沼漁港を代表する主要水揚品の一つなのに、近年の潮流の変化による海水面温度の上昇の影響を受けて、気仙沼に大きな利益をもたらすはずの秋刀魚の漁獲量は減少傾向にあるらしい。津波浸水地域からの高台移転に当たっては国が土地を買い取ってくれるけれど、買い取り価格はその土地の将来の用途によって決まる「復旧価値」によって定められるので、跡地が公共用地になるかどうかでどうしても被災者間に不平等が生じてしまう。
人々を取り巻くそんな状況を考えれば、本当は笑っていられる状況ではないのかもしれない。見えないところでここの人たちが感じている苦労を、私が知る術はない。
それでも人々が笑っているのは、きっとみんながその瞬間に笑っていたい気持ちだからで。
そうだとすれば私のすべきことは、その気持ちを最大限に尊重することなのだ。
悲しみを受け止めるのは喪った人の役目。私たちがどんなに頑張っても、その役目を肩代わりすることはできない。その代わり私たちには、悲しみの中から立ち上がって前へ進むのを見守っていてほしい──。秘密の花園に案内してまで華ちゃんが訴えたかったのは、たぶん、そういうことなのだと思う。
『ここで生きていく人たちのことを想うなら、そんな悲しそうな顔はやめて、一緒に笑ってあげられる人でいて』
あの日、私は華ちゃんの言葉に確かに頷いて約束したはずだったのに。その言葉の本当の意味に手が届くまで、あれから三年間もの時間がかかってしまった。
そんなことを白状したなら、華ちゃんは怒るだろうか。呆れるだろうか。それとも、そんなことだろうと思ってたわよ、なんて嘯いて笑ってくれるかもしれない。華ちゃんが私をどんな人だと感じていたのかは私にも知りようがないけれど、そういう優しさを持っている人だということは、私が一番よく、知っている。
腕の時計が午後二時四十六分を示した。私は目を閉じて、そっと手を合わせる。
耳朶に触れる波や風の音は穏やかで、こうしてこの場所に座っていると、まるで私が海の上にぽつりと浮かんでいるような気分になる。宛のない、独りぼっちの、寂しい気分。
けれど目を開ければ、そこには一面の花たちが顔を出している。季節は秋。『華の浜』を埋め尽くしているのは、薄紫色のコスモスの花たちだ。
華ちゃんもこの景色を、今も見つめているのだろうか。
「華ちゃん」
そこに立っているのかもしれない人の名前を、私は呼んだ。
「私ね、この春に仙台の大学に進学することにしたんだ。私なりの震災との向き合い方を見つけるには、被災地で暮らすのが一番だと思って」
華ちゃんは話しかけてくれない。この三年間、何度ここへ足を運んでも、立て札を建てても、一人でいても、深夜でも、話しかけてはくれなかった。
「だから、ここへも簡単に来られるようになったんだよ。この前は石巻と名取にも行ってきたんだ。このあとは南三陸とか、女川にも足を伸ばそうって思ってる」
簡単というには語弊が過ぎるかもしれないな、と思った。仙台からここまで、在来線ではどう頑張っても四時間近くはかかる。正直に言ってしまえば、遠い。疲れる。訪問の苦労はどうしても大きそうだ。
けれど、その全てを見て回ることはできなくても、私は行ける限りの場所を訪れたい。気仙沼の現実は所詮、気仙沼のものでしかない。南三陸には南三陸の、石巻には石巻の“被災の現実”が横たわっている。何一つ現実を目に焼き付けないままで、知ったような振りをすることだけはしたくないから。──それが、震災が起きたあの日、テレビの画面越しに津波に飲み込まれてゆく町や人を見てしまった私に課せられた、使命のようなものなのだと思う。
被災者でもなく、被災しなかったわけでもなく、宙ぶらりんのまま怯えることしかできなかった、弱かった私に。
「華ちゃんのお陰だよ」
私は呟いた。
「華ちゃんが私に、向き合い方を教えてくれた。振る舞い方を教えてくれた。怖がりな私の背中、押してくれた」
そして……私に、勇気をくれた。
私の声は、華ちゃんに届いているだろうか。
華ちゃんは今もどこかに姿を隠したまま、私のことを見てくれているだろうか。
五年半という歳月を経て変わりゆくこの町を、人々を、見守っているだろうか。
疑問符だらけでもいい。誰も知らない、テレビにも新聞にも映らない二人だけの秘密がここにはあるのだと、私は信じていられる。
だから、と思う。いつか華ちゃんもまた、話しかけてきてほしい。放っておいても自分からは何も教えてくれない華ちゃんだからこそ、私の前に姿を現してくれた理由を、そして私をあっという間に遠ざけてしまった理由を、今度はちゃんと教えてほしい。私にはそれを受け止める覚悟がある。受け止めるだけの余裕も、今は胸の奥に膨らんでいる。
分からないまま何かを怖がったり、不安に思うのは、もう嫌だから。
その思いが、今も私の身体を前へ前へと進めてくれる、原動力。
不意にスマートフォンが鳴動した。見ると、SNSに実由ちゃんからのメッセージが入っている。
『私たち気仙沼駅に着いたけど、どこで合流する?』
いけない、と私は立ち上がった。
大学一年生の夏。私が今年も気仙沼に向かうことを話すと、東京の大学に進学した実由ちゃんたちは『私たちも参加したい』と申し出てきてくれた。生活や金銭に余裕も出てきたから、久しぶりに行きたいのだという。話し合いの結果、仙台在住の私は東北本線で昼頃に気仙沼へ向かい、実由ちゃんたち東京組は新幹線でそれを追いかけてくることに決まった。
一足先に到着した私は、荷物を旅館に置いてから市街に戻って合流する手筈になっていたのだ。ここでゆっくりしているだけの暇は、もうなさそうだ。
『今からBRTで南気仙沼駅あたりまで行くよ!』
そう返信してしまうと、私はスマートフォンをポケットにしまった。
それから、花束が風に飛ばされないようにしっかりと置かれているのを確認した。
明日には再び、みんなを引き連れてここを訪れることになるだろう。その時にはまた、よろしくね。心の中で伝えた言葉を、今度は声にも出してみた。
「また、来るからね」
どんな大風が吹いたって、どんな大雨が降ったって、どんな地震が街を揺るがしたって、どんな大波が飲み込んだって。
それでもここに、花が咲くから。
人はここで生き続ける。
私もその吐息を頼りに、この場所で、祈り続ける。
振り返った一面の花畑は、今日も海からの潮風に頭を撫でられて、ざわり、ざわりと優しく笑っていた。
「あとがき」に続きます。




