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什三 ──だから私は前を向いて






 チチチッ、チチチッ。

 軽やかに鳴く小鳥の歌声に、私は重たいまぶたをこじ開けた。

 藍色だった空の色が、今は薄青色にまで明るくなっていた。草と潮の匂いの乱雑に混ざった朝独特の空気が、あたりに充ち満ちている。

 はっとして見開いた目が、民宿の前を通っている道路を捉えた。一瞬、混乱した。ここはどこ? 慌てふためいて見上げた頭上に、民宿の入り口の門が見えた。

 私は寝間着のまま、民宿の玄関前にあったあの門にもたれかかって眠りについていたのだった。

 あの花畑から、いったいどうやってここまで辿り着いたのだろう。しんとして冷たい朝の風が、薄い服をすり抜けて私の身体をくすぐろうとする。

「……華、ちゃん」

 名前を呼んだ。

 どこからも返事はない。ただ、電線の向こうに広がる大きな空を、鳥たちが(およ)ぐようにして渡っていくばかりだった。今はそれと分かる杉の下地区の通信塔が、吹きさらす風の中にぽつんと立ち尽くしているばかりだ。


 その瞬間、ふっと私は思い出した。別れ際に掴んだ一輪の華のことを。

 両手を見る。ない、ない。持っていない。

 どこかへ落とした? すっかり焦った私は、起き上がろうとして右手を地面についた。華ちゃんが約束の証だと言っていたものを、こんなことでなくすわけにはいかないのに……!

 あまりに必死だったせいで、右手が茎のようなものに触れたことにしばらく気付かなかった。

「!」

 すぐさま私はそれを拾い上げた。そしてすぐに、これだ、と確信に至った。

 特徴的だった華の姿を、あの一瞬のうちに記憶していたからだった。

 一筋の緑の茎の先端から、くるりと内向きに丸まった緋色の花びらがいくつも吹き出すように生え、その外側には同じ赤色の柄が無数に手を広げている。半分ほど意識の飛んでいたあの時とは違って、今は華の名前を思い出すこともできる。

 彼岸花だ。花の名前に詳しくない私でも知っている、あの真っ赤で美しい華。


「…………」


 どうしてこの花を選んだのかも、どうしてあんな別れ方を選んだのかも。

 もう、華ちゃんに尋ねることはできないんだ。

 私は一輪の彼岸花を、そっと胸の前で抱きかかえた。そうすれば少しくらいは、この虚無感から逃れられるような気がして。


 不意に扉が開く音がした。すぐに彼岸花を後ろへ隠した私の視界に、大きく開け放たれた民宿の玄関扉と、そこに立って私の方を見ている沙耶子ちゃんの姿が映った。

「いた! 花、いたよ!」

 私を指差さんばかりの勢いで、沙耶子ちゃんは後ろに向かって叫んだ。

 待ってよ沙耶子ちゃん、『いた』って何? どういうこと? そう聞き返すよりも、早朝の玄関にばたばたと足音を響かせながら私のもとへみんなが駆け寄って来る方が早かった。久海ちゃん、薫ちゃん、実由ちゃん、そして小本先生。東京から一緒にここまでやって来た仲間が、勢揃いしている。

「よかった……。ここにいたんだね……」

 沙耶子ちゃんは泣きそうだ。よろよろと私の隣に座り込んだ沙耶子ちゃんの横から、喋るホヤでも見かけたような顔の実由ちゃんが話しかけてきた。

「なんでこんなところで寝てるのよ、花……。起きたら花がいないって、みんなで民宿中を探してたんだよ」

「急に夢遊病でも発症したの?」

 可笑しそうに続けた久海ちゃんを、ちょっと、と薫ちゃんが睨んでいる。私は私でまだ茫然としたまま、けれどみんながここに集まってきた理由をようやく悟ろうとしていた。

 寝床に私だけがいないことに、四人の誰かが気づいたんだろう。トイレにもいない、廊下にもいない、先生の部屋にもいない──それでみんなは私のことを探してくれていたんだ。

 そうか。私、本当に出掛けていたんだな。華ちゃんと過ごしていた時間は、私の夢物語ではなかったんだ。後ろ手に隠し持った彼岸花を握り締めるたび、実感がじわじわと私の肌から染み込んでいくように感じた。

 でも、そのことをみんなに話したところで、きっと信じてはもらえないだろう。

「トイレに立ったところまでは、覚えてるんだけど……」

 まぶたを擦り擦り、つい今しがた目を覚ましたばかりの体を装いながら、私はそう答えた。全員の口から、一斉にため息が漏れ出した。

「何もなくてよかったよ……。まったく、こんな朝早くからびっくりさせないでよね」

 怒っているような呆れているような、そんな複雑な表情を浮かべながら、実由ちゃんはそれでも笑っていた。

「まだ朝の五時じゃん。もうちょっと寝てこようよ……」

 ふぁあ、と大あくびをかきながら、久海ちゃんは早速民宿に戻ろうとしている。その背中を追おうとしながら、薫ちゃんが振り向いて笑っている。

「花も早くおいでよ。っていうか、こんな寒いところでよく寝てられたよね。凍えちゃいそう」

「そうでなくたって疲れてるんだし、体力奪われちゃうよ?」

 沙耶子ちゃんがそう続けた。寝る前に聞いた沙耶子ちゃんの言葉が、今さらのように脳裡に蘇った。

「大事なさそうでよかったけど……。体調を崩してもここの人たちを当てにはできないわよ。あなたたちは、無償奉仕者(ボランティア)なんだからね」

 腰に手をあてがって小本先生が浮かべていたのは、苦笑いだったのだろうか。それとも、安心して自然にこぼれた笑みだったのか。


 そうだ。

 私には、みんながいる。

 私のことを気にかけてくれて、笑いあってくれる人たちがいるんだ。

 華ちゃんは今頃、どこかで寂しさに震えているかもしれないのに。誰からも認識してもらえないまま、いえ──自分からその可能性をシャットアウトして、涙を圧し殺しながらみんなのことを見守ろうとしてくれているのに。

 私には、こんなに……。


 気が抜けた一瞬、ぼろっと目元を溢れ出した涙が、私の頬をいくつも流れ落ちていった。

 力が入らない。上手く立てないよ。それでも頑張って立ち上がろうとする私を、先を行くみんなが振り返った。

「あれ? なんで泣いてるの?」

「さっき悪夢でも見てたの?」

 踵を返して駆け寄ってきそうなみんなに、大丈夫、と私は答えた。

 大丈夫。みんなの力を借りなくても、大丈夫だから。

 いつまでも元気を与えられる側じゃなくて、今度は私がみんなを安心させてあげられるように。そうやって交わした約束の証を、私はもう、決して手放したりはしないから。




「何でもないよ。……今日も、頑張ろうね」




 自分の足で踏ん張って立ち上がり、目尻に残った涙をぐいと腕で拭った私は。

 きっと、しゃんと笑えていたと思う。






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