什仁 ──微笑んでいた
「……隣、いいかな」
そう声をかけた私の顔を、華ちゃんはようやく見てくれた。その潤みきった瞳を、私も真っ直ぐに見つめ返した。
それからそっと、花火大会の夜空のように咲き乱れる花たちの間へと、足を踏み入れた。
潮の香りが急に遠ざかり、ほんわかと甘美な花粉の匂いが私を包み込んだ。やっぱりこんな格好で来たくなかったな。今になってしても遅い後悔は、そっと摘んで脇に置いておく。
華ちゃんに倣って地面にしゃがむと、目線のレベルは一気に何十センチも下がった。私たちの身長と花たちの草丈は比べるべくもなかったのに、この視界から見るとまるで平等の存在感を持っているように感じてしまう。慰霊塔も、堤防も、岩井崎の高台や波路上の町並みも、花畑の向こうに蜃気楼のように浮かんでいる。
綺麗だ。どの花も、ため息をつきたくなるほどに綺麗だ。ここが何十人もの人々が命を落とした場所であることも、幾多の『生活』が海へと流れ出してしまった場所であることも忘れて、このままいつまでもここで花の香りに埋まっていたいと思った。
「この花たちを、華ちゃんは守ってきたんだね」
呟いた私は、華ちゃんがそうしたように、顔を並べた花たちを丁寧に撫でた。華ちゃんの啜り泣く声が、いつしか聞こえなくなっていた。
たった今、胸の中で花開いたばかりの想いを、撫でる手を動かしながら私は言葉に書き起こそうとした。
「……華ちゃんが大切にしたかったもの、私、何となく分かった気がしたよ。花を愛でている間の、ただ純粋に“綺麗だ”って思う気持ち。その瞬間だけは他の何も考えなくていい、ただ“綺麗だ”って思っていられる、そんな時間……」
「うん」
華ちゃんはまだ、鼻声だ。
「震災が起きて、それまでありふれていた日々が急にまるっきり変わってしまって、みんな、疲れてる。お酒も遊びも歌も、同じように疲れを癒やすことはできるけれど、それと同時にまた新しい疲労を身体の中に溜め込んでしまう。でも、花にはきっと、無条件に人の心を綺麗にしてくれる力があるんだと思う」
「花って、不思議なんだね」
「そうよ。花は、不思議」
華ちゃんがそう返してくれた時。不意に潮の香りが打ち寄せて、私は目線を上げた。
少し明るみ始めた東の空から、海を渡ってきた風が花畑の上をざわざわと越えていく。
津波が全てを飲み込んでいってしまっても、ここには華ちゃんがいて、優しい風が流れている。みんな、心地よさそうだ。幸せそうだ。
そう思った時、久しぶりに口元が自然に弛んでゆくのを私は直に感じた。
ああ。華ちゃんが期待していたのは、これだったんだ。嬉しくて、けれど哀しくて、私には隣にいるはずの人を振り返ることができなかった。
『見せたいものがあるの。花──あなたの知りたいことに、少しくらいは触れられるかもしれないよ』
思えば最初、そんな誘い文句と共に、華ちゃんは私をここまで連れてきたのだ。
いま、ようやく少し、手が届いた。華ちゃんがこの花畑で、私に見せたかったもの、伝えたかったものが、何だったのかに……。
「花」
頭の上から華ちゃんの声がした。華ちゃんはいつの間にか、立ち上がっていた。
「前に言っていたじゃない。あれほどの悲劇に見舞われていながら、ここの人たちがどうして笑って生きていくことができているのか分からないって」
「……うん」
それが、私がこの町へと持ち込んでしまった最大の疑問。そして同時に、私をこの町まで連れてきてくれた想いの、ひとかけらでもあった。
「『咲』っていう字には、『咲う』っていう読み方があるの。──私たちが泣いていても怒っていても、或いはこの場所で生きていけなくなってしまっても、ここには必ず季節が巡ってくる。そうすれば綺麗な花が蕾をつけて、そうして咲うの。私たちが何もしなくても、ね」
華ちゃんの声が、何だかひどく儚かった。海風が強くなって、うまく聞き取れない。私も華ちゃんの隣に立ち上がろうとした。
それなのに華ちゃんは、そこで聞いていてとでも言うように、私のことを手で制してしまった。
「人間だって同じなんだよ。乗り越えられない悲しみも、耐えられない苦しみもこの世にはたくさんあるけれど、それでもここで生きていけばきっといつか、自然に笑えるようになる時が来る。ここに花が咲くように、心の中で前向きな気持ちと悲しみのバランスがきちんと取れて、笑顔を浮かべられるようになるの。悲しみを忘れるんじゃなくて、両立できるようになるんだよ」
「前向きな気持ちと悲しみの、バランス……」
「私は、花にもそういう人であってほしい」
唐突に出た私の名前に、えっ、と思わず私は尋ね返してしまっていた。
振り仰いだ華ちゃんも、微笑んでいた。見る間にその頬を一滴の涙が駆け降りて、私の肩の上でぴちょん、と跳ねた。
「花たちを眺めているのと同じだけの力が、人の笑顔にも備わっているの。だから花も、笑ってあげて。ここで生きていく人たちのことを想ってくれるなら、そんな悲しそうな顔はやめて、一緒に笑ってあげられる人でいてほしい。私はもう二度と、大切な人たちに笑いかけてあげることができないから……」
ああ、やめて。もうそんな笑みを浮かべるのはやめて。眉も口元も歪めながら、それでも笑っていようとする華ちゃんのことを、私はそれ以上見ていることができなかった。そんなに急に言われたって、勇気も強さも足りない私にはまだ、その悲歎を笑顔で支えてあげることができない。できないよ。
それでも、これだけは誓ってあげたかった。
「うん。……約束、する」
「よかった」
華ちゃんの声に、また海風が重なる。風にはためいた制服のスカートが、花びらのようにふわりと宙で舞った。
よかったと言いたいのは私の方だった。私も今、この場所で華ちゃんと同じ結論に辿り着いていた。震災を乗り越えて今も咲き誇る花たちの姿に、華ちゃんは遺されて生きてゆく人間の在り方を重ねていたんだ。花には笑みと同じだけの力が備わっていると信じる華ちゃんにとって、今や遺産になってしまったこの花畑を見守ることは、自分の代わりに誰かの心を幸せにしてあげられるように──そんな、誰にも届くことのない願いのこもった生業なのだ。
悲しくても笑えば、苦しくても微笑めば、人は互いにエネルギーを分け合って生きてゆく。それは無理をしているのでも、あるいは悲しみや苦しみをなかったことにしてしまっているのでもなくて、ごく自然にありふれたモノなのだ。世界から花が消えないのと同じように、この地上から笑顔が絶えることなどないのだから。
その営みが『復興』を支えるチカラになるのなら、私だってその一翼を担える人になろう。
それが華ちゃんとの約束。
それが私の誓いだ。
けれど。達成感にも似た恍惚の境地に溺れかけたその瞬間、私は誰かにぐいと襟元を掴まれたように、現実に意識を戻してしまった。
確かにこれで私の疑問には解が出た。そしてそれは、華ちゃんと共に目指す行き先に到達してしまったということでもあって。だとしたら私たちは、これから──。
不穏な予感がする。もう一度、見たい。華ちゃんが笑っているところを、この目で見たい。
そう願おうとした刹那。感じたことがないほどの強い眠気が、がつんと私の頭を殴るように押し寄せた。突然白くなり始めた視界に、私はパニックになった。何、これ。さっきまであんなにも目、はっきりと醒めていたのに……。
「あなたと話せて嬉しかった。誰かと言葉を交わせる幸せを、久しぶりに感じられたよ。……でも、もういいの。夜が明けきる前に、花にはきちんと睡眠に戻ってもらわなきゃ」
「……なん、で」
「朝が来たら、また私たちの街、綺麗にしてくれるんでしょ? 一徹の状態で働いてもらうんじゃ、花にも、気仙沼の人たちにも悪いじゃない」
急速に失われてゆく意識の中に、華ちゃんの声がする。いたずらっぽい笑い声が聞こえる。
華ちゃんが私に何かをしたらしいことだけは、何とか私にも理解できた。けれど、そこまでだ。頭がぼやけて、もう何も考えることができない。
どうして。こんなに急にお別れしなくちゃいけないなんて聞いてないよ。今まで一度もくれなかったんだから、たまには私に選択権をくれたってよかったじゃない。まだまだ聞きたいことだって、教えてほしいことだってたくさんあったのに。
こんな状態じゃ、何もできない。待ってと叫ぶことも、華ちゃんの笑顔をもう一度、見ることも──。
それでも、真っ白に染まってしまった視界の中へと、私は無我夢中で手を伸ばした。
掴んだそれは華ちゃんの腕ではなく、一輪の華だった。
「大切にしてね。──私と花の約束の、証だよ」
ありがとう。
その言葉が、辛うじて記憶に引っ掛かった華ちゃんの最後のことばになった。




