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什一 ──そっと泣きながら




「きっと偶然だったと思うの。遠くに迫り来る津波が見えた時、私、ちょうど岩井崎に向かおうとしてこの場所に差し掛かってきていた。山よりも高い津波が、地響きみたいな音を立てながら信じられない速度で走ってきた。どっちの岬に向かうにも、もう、遅すぎる。すぐにそのくらいの察しはついた。

私、思ったよ。ああ、これから私、死ぬんだな──って。やりたいことも叶えたい夢もまだまだたくさんあったのに、ここで死んじゃうんだなって。

どうせ死ぬなら、この子たちと一緒にいてあげたかった。海水に浸かった植物は枯れてしまうって、知識としては知っていたの。大切にしてきた花たちと運命を一緒にするなら、みんなを遺して死ぬ不幸者の私のこと、少しは神様も赦してくれるんじゃないかって思ったから」


 なのに──。鋭く呟いた華ちゃんはその瞬間、ほんの少し、顔を歪めた。


「蓋を開けてみたら、この子たちはこの場所で蘇った」

「え……?」

「津波に浸かってダメになったはずだったのに、その年の夏にはまた、ここにたくさんの花が咲いていた」

 華ちゃんの周囲で咲き誇る花たちを、気付くと私は凝視していた。何気なく咲いているはずの花たちが、一瞬、何か恐ろしいものに見えた。

 どうして?

「私にも分からない。たぶん、鳥が種を落としたり、地下に根っこや球根が残っていたりしたんだと思う。……私が思っていたよりも遥かに、この子たちは逞しかったんだ」

 華ちゃんは寂しそうに、笑い声を上げた。

「結局、津波に飲まれて命を落としたのは私だけだったんだよ。──ね、だから言ったでしょ。こんなのただの笑い話なんだってさ」

 私が笑えるはずがないのを知っていてそんな話を振る華ちゃんが、憎いどころか可哀想で仕方なくて、私はずっと地面を見つめていることしかできなかった。

 お世話を欠かさず、目をかけて大切に育ててきたはずの花たちが、運命を共にしたはずだった花たちが、誰かのお世話を受けることのなくなった今でも賑やかに咲いている。

 取り残されたような感じがして、やりきれなかっただろうな。虚しかっただろうな。それに何より、寂しかっただろうな……。

「それでもまだ、こうやってここに足を運ぶんだね」

 私の問いかけに、華ちゃんは黙って頷いた。

「今は、ついでになっちゃったけどね。今もこうして現世(こっち)に残っているのは、花たちのためなんかじゃない」

「なら、何の……?」

「遺してしまったお父さんやお母さんのこと、見守ってあげたかった」

 刹那、初めて華ちゃんの姿を見かけた時の光景が私の脳裏を過っていった。もしかして、あれは。

「私の身体、すぐに見つかっちゃったんだ。お父さんもお母さんも、もう二度と起き上がれなくなった私の身体に取り縋って、何日も、何日も、泣き続けてた。そんな二人が心配で、向こうに行くことがどうしても、できないの」

「じゃあ、あの時は」

「あの部屋に寝てるんだ。お父さんと、お母さん」

 予感が現実になる瞬間は、身体に優しくない。ぞくりと粟立った肌にほのかな痛みを感じて、私は長い長い息を吐きだした。落ち着いたことで改めて、自分が何をしてしまったのかを思い知ることができた。

 華ちゃんが大切にしていたはずの時間を、あの時、私は邪魔してしまっていたんだ。


「──あの時、びっくりしたのは私だって同じだったんだから」

 足元の花をじっと見つめながら、華ちゃんはぽつりと滴が垂れるように、そう言葉を落とした。

 声が、震えていた。

「どうして花に私のことが見えるのか、まるで分からなかった。パニックになって逃げ出そうとしたくらいだった」

「誰にも、見えないの?」

「見えないよ。当たり前じゃない。死人が化けて出たら、誰だって妙に思うでしょ。だからどこの誰にも見つからないように、ぜったいに姿を見せないようにしていたつもりだった」

 そこまでしなくていいのにと思ってしまうのは、私が間違っているんだろうか。

「華ちゃんは、自分に厳しすぎるよ」

 私は小さな声で、口を挟んだ。

「赤の他人だったらともかく、お父さんやお母さんは華ちゃんが出てきてくれたら喜ばないはずないのに」

「私だってそう思ってるよ」

 華ちゃんが早口になった。

 ああ、また私、怒らせてしまったのかな。口を挟んだことを早々に後悔し始めた私のことなど、華ちゃんは見ようともしてくれない。

「私が出てきたら、そりゃ喜ぶかもしれないよ。でもそれ以上にきっと、困惑させてしまう。どうしたらいいのか分からなくさせてしまう。せっかく私のいない日常に二年半もかけて慣れてきたのに、私のせいでそれが全部台無しになるんだよ。花はそんなこと、私にできるっていうの?」

「そんな……。私は、ただ……」

「命を落とした私たちが願っていいのは、生き延びた人たちが私たちのことを忘れてくれることだけ。たったそれだけなの。花には分からないかもしれないけど……」

 私の言葉を遮るように、或いは──言葉の中に何かを懸命に隠そうとするように、華ちゃんはどんどん早口になる。

「もうこのまま永遠に、誰とも口をきかず、誰にも話を聞かれることなく、この場所に残り続けるんだと思ってた。丸裸にされた波路上にも草花が戻ってきたみたいに、いつかお父さんやお母さんやみんなが前を向いていってくれるのを、この場所で待ち続けるしかないんだと思ってた。それが私の宿命なら、どんな寂しさにだって耐えてやる。そう決心してたの。だからこそ、どうして花が私のことを見られるのか分からなかったし、その理由が知りたかった。もしかしたら花は、他の人とは違う何かを抱えているのかもしれないって思った。花をあっちこっちに連れ回して、色んな景色を見せてあげたのも、それが理由だった」

「……なら、どうして自分が生きていないこと、素直に教えてくれなかったの」

「怖がられたくなかった」


 華ちゃんがそう答えた瞬間、私は気付いてしまった。花たちに向かって俯きながら話し続ける華ちゃんの瞳から、街路灯の光を浴びて銀色に煌めく何かがこぼれ落ちていったのを。

 その早口の中に、華ちゃんが何を隠そうとしていたのかを。


「せっかく……せっかく私の姿の見える人なんだもん。もう誰にも伝わらない私の言葉、たった一人聞いてくれる人だったんだもん……。離れていってほしくなかった。たとえ明日が来れば東京に帰っていっちゃうんだとしても、せめて夜が明けるまで……私のそば、離れないでいてほしかったの」

 華ちゃんは、泣いていた。

「ごめんなさい。困らせるようなこと言って、身勝手なこと言ってごめんなさい……。だけどお願い。私の気持ち、分かってよ……。少しでいいから、今夜限りでいいから、私、誰かと話していたかったんだよ……」

 どうして。どうして、そんなことを言うの。私は一度も離れるなんて言っていないのに……。

 そう言って笑って、それから背中を優しく擦ってあげたかった。けれど、そのどれも達成できないことが分かっていた私は、さめざめと涙を流し続ける華ちゃんの姿を見つめているほか、なかった。

 そうだよね。遺された人が寂しいのなら、遺して逝かなければいけない人が寂しくない道理なんてどこにもない。今になってようやくそのことを悟ることができたのに、私は華ちゃんに触れられない。どんなに癒してあげたくても、触れることができない。

 きっとこの気持ちは、華ちゃんが華ちゃんのお父さんやお母さんに対して感じ続けてきた気持ちと同じなんだ。本当はすぐ近くにいるのに、眼前で悲しみに沈んでいる大切な人をどうしてあげることもできない。この苦しさに、華ちゃんは二年半もの間ずっと、喘ぎ続けてきたんだね。

 掴みかけたその気持ちは、すんなりと受け止めるにはあまりにも苦しくて。

 私は唇をぎゅうと強く噛んだ。滲んだ血が舌先に触れて、鉄の味が仄かに口の中に広がった。この痛みが消えない間は泣かないで済む。そんな自信と、華ちゃんの前では絶対に泣くもんかという決心が、私の気持ちを強く強く駆り立てていた。






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