什 ──一面の花に囲まれて
閖上華、十六歳。高校一年生。私が現年齢とばかり思っていたそれは、享年だった。
本物の華ちゃんはきっかり二年半前の今日、宮城県気仙沼市の波路上地区で高さ十メートルの津波に遭い、命を落としていた。
──それが、『私のことはどうでもいい』といって語ってくれようとしなかった、華ちゃんの抱える真相だったのだ。
「……花と同じ。私もあの日、部活が午前中で終わって、午後は海の方に来ていたの」
衝撃が大きすぎて腰を抜かしてしまった私の隣に、華ちゃんはそっとしゃがみ込んだ。そうして、足元に小さく顔を見せている何かの花びらに、指を伸ばした。
「……だから、制服だったんだ」
「そう」
頷いた華ちゃんの服に、私は怖々と手を差し伸べる。けれど何度同じことを繰り返したところで、結果の変わる様子はいっこうになかった。ここまで落ち着くまでにも、もうすでにかなりの時間を消費してしまっていた。
「立っていられないほどの地震だった。おかげで転んだ時、足を捻っちゃって。それでも何とか立ち上がった時、思い出したの。津波が来る……って」
華ちゃんの瞳は、もう怖いものではなくなっていた。
人間はここにいられなくなったのに、草や木はここに戻ってきた──。思えば、そんな言葉を口にしていた時の華ちゃんも、目の前の草花に怒りを向けているようには見えなかったものだった。
「このままじゃいけないって思った。振り返って見ても、逃げ出そうとしている人はごく少数で、崩れた建物の破片を拾い集めたり世話話をしている人たちばかりだったんだ。学校で口うるさく津波の怖さを説明されていなかったら、きっと私自身だって、そうしてた」
「…………」
「『津波てんでんこ』なんて考えていられなかったよ。私のすべきことは、あの人たちに声をかけて回ることだと思った。私、部活でバレーボールやってて、走り込みもそれなりにしてきたから足腰には自信があったんだ。だから、足を痛めて上手く走れなかったけれど、それでも頑張って家々を回ろうとした。ドアを叩いて、チャイムを鳴らして、津波が来るんだってことを必死に伝えたよ。初めは半信半疑だった町の人たちも、私の背後で防災無線が大津波警報を発し始めてからは焦って逃げようとしてくれるようになった。──ただ」
「ただ……?」
「みんなの逃げた先は、指定されていた避難場所だった。あの通信塔のある丘や、うちの経営しているあの民宿に、『あそこなら安全だ』って言いながら避難していった」
「!」
言わんとすることがすぐに分かってしまって、私はなぜか、華ちゃんの方を見ることができなくなった。
無言の時間が、さらさらと音を立てて流れていく。その音を発したのが、顔を並べて咲いているたくさんの草花たちだと気付いた時、華ちゃんがちょうど同じタイミングですっくと立ち上がった。そうして私に、訊いてきた。
「立てる?」
「……うん。立てそう」
まだ上手に力が入らないけれど、華ちゃんの気遣いを無下にはしたくなくて、私も頑張って立ち上がった。
死人が隣で喋っていることにも、姿を現していることにも、いつしか不自然なほどに慣れてしまっている私がいる。華ちゃんだからかもしれない、と考えた。それで十分な理由付けができたような気がした。
ついておいで、とばかりに華ちゃんが歩き出した。
海が近付いている。すんと嗅いだ空気の香りに、心地好い潮の臭さがほんのりと混じり始めていた。
私たちの他に動くものが何もない今、ふと立ち止まって耳を済ませれば、ずっと遠くの海から聴こえてくる波の音をきちんと聞き分けることができる。
あの日、ここから聴こえた波の音は、どんな音だったのだろう。音に混じって聞こえてきていたのは、どんな声だったのだろう。
もしも尋ねたなら、華ちゃんは答えてくれるんだろうか。
そんなことに想いを巡らせていたせいで、着いた、と華ちゃんが口にするまで、私は周囲の景色を見ようともしていなかった。
高さ二十メートルはあろうかという塔が、その場所にはぽつんと屹立していた。『海の殉 慰霊塔』──そんな文句が、黒の面に白文字で書き付けられている。空白の部分にも昔は文字があったのだろう。けれど、今はそこだけ表面が剥がれ落ちてしまっている。何が文字を剥いだのかは、考えたくもなかった。
すぐ先には堤防がある。ぼんやりと眺めていると、打ち付けた波が高らかに跳ね上げられて、飛沫が堤防の上にぴしゃんと跳ねた。怖い。ふとした気まぐれで波が堤防を越えてきそうで、胸の不安が消えてくれない。
その堤防と塔の間の空間こそが、華ちゃんの示した場所だった。
「…………!」
私は息を呑んでいた。
そこにあったのは、見渡す限り一面の、花たちだった。知識を持たない私には名前を知ることのできない、色とりどりの綺麗な花たちが、その場所だけに群生して空へ向かって花びらを広げていたのだ。
「いいでしょ」
華ちゃんはそう言うと、花たちの間へと分け入っていく。私はぽかんとしたまま、入りはせずにその場に立ち尽くしていた。
「どうして、こんなに」
「私が集めたの。生前の話だけどね」
集めた、って。
そっとしゃがんだ華ちゃんは、足元に萌える数多の花たちを長い腕で柔らかに撫でる。まるで風に揺られたように、花たちはご機嫌な音を上げた。草の笑い声とは違う、穏やかな音だった。
「花ってさ、嫌いな人、いないじゃない。どんなに疲れていたって、やりきれない悲しみに暮れていたって、花を眺めていればどんな人もまた、前を向けるようになる。そんな魅力を持つ花のことが好きで、昔から私、いつか自分の手でお花屋さんを開くのが夢だったんだ」
それじゃ、ここにだけこんなにたくさんの花が咲いているのは……。愛しそうに花を撫で続ける華ちゃんの表情に、私はその答えを確かに垣間見た。華ちゃんが、育てたんだ。
「お花畑……作ってたんだね」
「うん。学校や部活の合間にね。この辺りの人たちにも、前はけっこう評判よかったんだけど」
懐かしそうに華ちゃんは目を細める。
「あの日もここへ来て、お水をあげようとしていた。そこに地震が襲ってきた。足を痛めて、それでも起き上がってみんなに津波を報せて回って、気付いた頃には三十分近くも時間が経っていて……。笑えるよね。みんなに逃げて逃げてって触れ回っていた私自身が、時間を忘れていた間に逃げ遅れていたんだから」
華ちゃんの背後に、見上げるような高さの真っ黒い壁が不意に出現したように見えた。
幻覚にしては、背筋が冷えるほどに鮮明な壁だった。
けれど瞬きを一つしてしまうと、そこにはもう、何も見えることはなかった。




