6
「お疲れ様です」
二十二時。バイトを終え、店のシャッターを閉める。駅前の、夜の騒がしさが、遠くから聞こえた。
バイト仲間の主婦の後ろ姿を目で確認して、彼は彼女と自転車置き場へと向かった。
「俺、今月いっぱいでここ、辞めるんだ」
彼が言うと、彼女が彼を見つめた。
「辞める前に、君に聞いて欲しいことがある」
彼は、心を決めた。ここ最近、毎夜行ってきた脳内シミュレーションによって何度も何度も練習した通りに。彼は静かに、言葉を紡いだ。
「君が、すきだ。すごく」
辺りの雑音が、すぅっと引いてゆく感覚を覚える。全身が痺れ、なぜか寒く、でも汗が滲んだ。
「君の容姿も、声も、仕草も。とてもかわいいと思うし、食べることと寝ることがすき、っていう、その自然なところが……その他人に媚びないようなところが、とても素敵だと思う」
声が震えてしまうような気がして、彼は拳に力を込めた。
「だから、すきなんだ。きみのことが。俺は就活に失敗して、フリーターだし、自分自身不甲斐ないな、って思うけど、でも、まだ諦めてないんだ。まだやりたいことがたくさんあるし、自分の力を試してみたいし、やり遂げたいことだってある。俺は今のまま、死ぬつもりはないんだ。きっと、いつかは幸せになりたいって、思ってる。
だから、きっと君も、幸せにしてみせる。約束する。
だから、俺と付き合って欲しい」
彼女は、あきらかに動揺していた。
しかし、彼は黙って返事を待った。
しばらくして、
「お気持ちは、すごく、うれしいです」
彼女はポツリ、ポツリと、言った。
「でも……あのっ……」
彼女は言葉を選び、何度か口をぱくぱくとさせながら、懸命に返事をした。
「ごめんなさい」
ペコリとお辞儀をしながら、彼女は言った。
梅雨時特有の湿り気を含んだ生暖かい風が、ひゅうと吹き抜ける。
彼は身体がいつも通りの状態に戻っていくのを感じた。
「いいんだ」
自分でもびっくりするくらいの、さわやかな声だった。
「こういうこと言ったの、はじめてだったんだ。言えて、よかったと思う。困らせてしまったよね。わかってたんだ。でも、言いたかったんだ。聞いてくれて、ありがとう。ちゃんと返事をしてくれて、ありがとう。それだけで、すごくうれしい」
彼はそう言うと、シャッターの閉まった職場を見た。「もう悔いはない」小さな声で、そう言った。
「じゃあね。本当に、ありがとう」
君のこれからの一生、辛いこともあるだろうけれど、できるだけ安らかで、幸せなものになるよう、願ってる。
彼は自転車に跨り、彼女の横をすり抜けると、真っ直ぐ家へと漕いだ。
途中、交差点でガードレールに足をかけ、背負ったリュックのポケットから煙草を取り出すと、一本くわえて、火をつけた。
煙草越しに深呼吸をして、吐くと、黒い空に煙が広がって、少しして、消えた。
車通りの少ない道路、彼は自転車を走らせた。脚に力を込めて、いつもよりスピードを出した。
そう、いい経験になった。告白も、フラれることも。
経験は何かを書く時に役立つだろうし――はじめてってのは、勇気がいるもんだ。誰だって最初は自転車に乗れないけれど、一度乗れてしまえば自転車の乗り方を忘れることはない。おんなじことだ。
何かを振り切るようにして自転車を走らせ、家へと向かう。
今日はきっと、ぐっすり眠れる。風を切りながら、彼は、そんなことを思った。