表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: 木下秋
6/6

6

「お疲れ様です」


 二十二時。バイトを終え、店のシャッターを閉める。駅前の、夜の騒がしさが、遠くから聞こえた。


 バイト仲間の主婦の後ろ姿を目で確認して、彼は彼女と自転車置き場へと向かった。


「俺、今月いっぱいでここ、辞めるんだ」


 彼が言うと、彼女が彼を見つめた。


「辞める前に、君に聞いて欲しいことがある」


 彼は、心を決めた。ここ最近、毎夜行ってきた脳内シミュレーションによって何度も何度も練習した通りに。彼は静かに、言葉を紡いだ。


「君が、すきだ。すごく」


 辺りの雑音が、すぅっと引いてゆく感覚を覚える。全身が痺れ、なぜか寒く、でも汗が滲んだ。


「君の容姿も、声も、仕草も。とてもかわいいと思うし、食べることと寝ることがすき、っていう、その自然なところが……その他人に媚びないようなところが、とても素敵だと思う」


 声が震えてしまうような気がして、彼は拳に力を込めた。


「だから、すきなんだ。きみのことが。俺は就活に失敗して、フリーターだし、自分自身不甲斐ないな、って思うけど、でも、まだ諦めてないんだ。まだやりたいことがたくさんあるし、自分の力を試してみたいし、やり遂げたいことだってある。俺は今のまま、死ぬつもりはないんだ。きっと、いつかは幸せになりたいって、思ってる。

 だから、きっと君も、幸せにしてみせる。約束する。

 だから、俺と付き合って欲しい」


 彼女は、あきらかに動揺していた。


 しかし、彼は黙って返事を待った。


 しばらくして、


「お気持ちは、すごく、うれしいです」


 彼女はポツリ、ポツリと、言った。


「でも……あのっ……」


 彼女は言葉を選び、何度か口をぱくぱくとさせながら、懸命に返事をした。


「ごめんなさい」


 ペコリとお辞儀をしながら、彼女は言った。


 梅雨時特有の湿り気を含んだ生暖かい風が、ひゅうと吹き抜ける。


 彼は身体がいつも通りの状態に戻っていくのを感じた。


「いいんだ」


 自分でもびっくりするくらいの、さわやかな声だった。


「こういうこと言ったの、はじめてだったんだ。言えて、よかったと思う。困らせてしまったよね。わかってたんだ。でも、言いたかったんだ。聞いてくれて、ありがとう。ちゃんと返事をしてくれて、ありがとう。それだけで、すごくうれしい」


 彼はそう言うと、シャッターの閉まった職場を見た。「もう悔いはない」小さな声で、そう言った。


「じゃあね。本当に、ありがとう」


 君のこれからの一生、辛いこともあるだろうけれど、できるだけ安らかで、幸せなものになるよう、願ってる。



 彼は自転車に跨り、彼女の横をすり抜けると、真っ直ぐ家へと漕いだ。



 途中、交差点でガードレールに足をかけ、背負ったリュックのポケットから煙草を取り出すと、一本くわえて、火をつけた。


 煙草越しに深呼吸をして、吐くと、黒い空に煙が広がって、少しして、消えた。



 車通りの少ない道路、彼は自転車を走らせた。脚に力を込めて、いつもよりスピードを出した。



 そう、いい経験になった。告白も、フラれることも。


 経験は何かを書く時に役立つだろうし――はじめてってのは、勇気がいるもんだ。誰だって最初は自転車に乗れないけれど、一度乗れてしまえば自転車の乗り方を忘れることはない。おんなじことだ。



 何かを振り切るようにして自転車を走らせ、家へと向かう。


 今日はきっと、ぐっすり眠れる。風を切りながら、彼は、そんなことを思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ