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  作者: 木下秋
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 ――脳内シミュレーション、終了。




 彼が目を開けると、ダークグレーで支配された自分の部屋の様子が見えた。


 もう常夜灯を点けて眠るような歳でもなかったが、彼は完全な暗闇の中で眠ることが苦手だった。ベッドに横たわる彼の右頭上と、左側面に位置している窓にはカーテンがかかっておらず、主に月明かりを由来とする光が部屋に射し、ぼんやりと明るい。右方に顔をやると、テレビの電源の赤、Wi-Fiルーターの緑、空気清浄機の青といったLEDが光っている。枕元のスマートフォンに手をやりスリープボタンを押すと、画面は空気を読まずに全開に光り、彼は目を細めた。表示された時刻は午前三時過ぎ。つまり、彼が部屋の電気を消してから眠れずに、二時間が経ったということだった。



 夜寝る前に“その人”の顔が浮かんで眠れなくなったなら、それはもう“恋”だ。



 彼の頭に、そんな言葉が浮かぶ。



 彼を悩ませていたその原因である彼女は、先月彼の勤務先である書店に新人アルバイトとして入ってきた女学生だった。


 彼女は二十歳ハタチの大学二年生。身長は彼の顎の位置くらい。黒く長い、パーマのかかった髪を後ろで結い、キョロっと大きな二重の目を持っていた。頬にはぽつぽつと仄赤い吹き出物の跡が浮かんでいて、それが若さを感じさせた。彼は、それが完全に消えてしまったなら、彼女は少女から大人の女性になるのだろうと、なんとなくそんなことを思った。本人からすれば悩みの種であろうとも、彼にとっては『あばたもえくぼ』。赤毛のアンのそばかすのように少女性を感じさせるそれは、彼の目にはかわいらしく見えた。


 話をしてみると、入れ込んでいる趣味はほぼ無く、眠ることがすきだという。また、美味しいものを食べることがすきで、給料は食費に消えてゆくらしい。食欲、睡眠欲という自らの欲求に素直で、またそういった身近な所に幸せを見出せる所に、彼は感心した。


 彼女は職場では常に少し緊張したような様子で、おどおどとしていた。しかし少し観察してみると、それは恐怖からくるようなものでなく、常に誰かしらに気を使っている結果の挙動であることがわかって、彼は好感を持った。声は小さいが、お辞儀は常に最敬礼。客だけでなく、同僚である店員にも礼を言う時にはお辞儀をした。初日なぞ、彼はなぜか目が合うだけでペコリとされ、苦笑いするしかなかった。



 一目惚れではなかったが、彼は彼女に会うたびに、だんだんと惹かれていった。


 こんなことがあった。ある週の日曜。彼女がバイト先にやってくると、風邪をひいてしまったらしく声が出ないとかすれた声で言う。彼は人員が足りていたなら帰宅を許していただろうが、店員の休憩を回す為にはやむを得ず、彼女にレジに出てもらうことにした。全店員の休憩を回し終えた彼は彼女の元へ行くと、まるで医師のように病状を聞き出した。



 いつから悪いの? 五日前? 病院は行ったの? あぁ、返事はしなくていいよ。うなずきでわかる。ちょっと調べてみたんだけど、やっぱこの辺じゃあ日曜にやってる病院はないみたいだ。やってたら今すぐにでも行かしてあげたいけど……。そっか、忙しかったんだ。でも、病院は行かなくっちゃダメだよ。明日は行くんだよ。うん、内科か、耳鼻咽喉科でいいと思う。



 マスクをした彼女は完全に乾燥しきったかすれ声で接客をしながら、時折痛そうな咳をした。彼は声を極力出さないようにと言ったが、彼女は何も言わなくたって咳をした。ゴホッ、ゴホッ、と、まるで喉から血を出さんばかりに、いかにも辛そうな咳だった。彼は自分の心がチクリと痛むのを感じた。その日の終わり、念を押して病院に行くことを勧めると、彼女は頷きながらもまた咳込んで、顔を上げた時には涙を流していた。透明に澄んだ一粒の光が、彼女の頬にわだちをつくる。



 庇護欲。帰宅する彼女の後ろ姿を見つめながら、彼の心に浮かんだ言葉はそんなものだった。守ってやりたい。看病してやりたい。許されるなら、彼女を今すぐにでも病院につれて行ってやりたかったし、おかゆでもなんでも作ってやりたい気持ちだった。テレビで見た、喉に良く効くハチミツなんぞを、ネットショッピングですぐにでも取り寄せたいと思ったし、もし自分が彼女の恋人だったなら、手を握ってやりたかった。風邪をうつしてくれたってかまわない。その苦しみを、分けてほしい。そう、思った。


 その日の夜からだった。部屋の電気を消し、さぁ寝ようという時になって、その症状は現れた。彼女の顔が頭にぼんやり浮かび、彼女のことを思うと、眠れなかった。病気で言う、初期症状だ。いや、恋は、完全に病気だといってしまえる。恋煩いにほてらされた彼は、なんとも言えない息苦しさを味わっていた。日々が過ぎるにつれ、彼女に会うにつれて、彼の症状は徐々に重くなっていった。胸が詰まるようだった。意識して、吸う、吐く、をしなければならなかった。空気中の酸素濃度が、薄まってしまっているような気さえした。夜、薄暗闇の底で、なかなか寝付けない彼は、水面に口を出して必死に酸素を摂取しようとする小魚のように、醜く、え息をした。

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