プリシラ・チェイカルの場合
『獣使いといえばペットを見下ろして、お座りと唱えてみる。従えば立派な獣使いだ。嘘だ』
そんな見出しから始まる紙面の前でプリシラ・チェイカルは羽ペンをクルクルと指先で回した。ペン先についたインクが机を汚し、おまけに自分の顔にまで飛んでいるのも気づかず溜息をつく。羊のように豊満な巻き毛を掻き上げて窓に目を向ける。様々な獣の声が響いてくるのだ。自由に闊歩する獣、鎖で繋がれている獣、厳重に檻へ入れられている獣もいる。
だが国内最大級の牧舎の中で隔離されているのはこちらだ。書類系統を処理するのに獣が闊歩する環境は無理があるため無理やり確保された空間、そこに獣使い達はそれぞれ専用の執務机をあてがわれている。現場仕事だけではすまないのが務め人の定めだと誰かが言っていた。だがプリシラという人はデスクに埃を積もらせ、書類の不提出紛失を平然とやってのける。下手をすると出社すらせず直行直帰でしばらく姿を見せないことすらあった。それでも解雇を言い渡されないのは天才がもたらす圧倒的な獣の供給量だろう。1人の獣使いが一時期に調教出来るのはせいぜい3頭であるのに対してプリシラの上限は天井知らずとなっている。
だからこうしてデスクに向かっている姿は非常に珍しく、他の同僚達は珍獣を目にする研究者の顔を無遠慮に向けていた。自分に向けられた視線に無関心なプリシラは人間の方には見向きもせず紙にもう一度目を戻した。戻しただけでその筆が進む様子はなかったが。
『仲間であり部下であり友人であり奴隷である獣には愛情を持って接する心が重要だ。彼らに思う通りに動いてもらうのだ。これは強制であって彼らの意思を無視するのだから当然の義務である。
使用する騎獣士達にパートナーとしてくれてやる時にも、父が娘を嫁に出す時ぐらいしぶって、しぶって、相手を見定める気合いとガチンコする元気も必要だ。だって命令はするけど協力してもらうんだから好条件で働かせてあげたいし』
無理やり書き進めてみたがプリシラは首を傾げて「何か違うな」と呟く。周りではカリカリとリズム良く紙をペンで引っ掻いていく。すぐに引き寄せられる小窓、そこに突然でかい毛むくじゃらが激突して丸い目が執務室を覗き込んできた。壁をカリカリと掻く音が部屋に響くと、プリシラはペンをポトリと机に落し迷わず扉を開け放ち獣の元に駆け付けた。すると巨体がプリシラの周りを跳ねまわって一層大きく鳴き声を上げた。
「ごめんね、ソラス待ってたんだね。そろそろ外に出かけようか」
「クゥゥアアア」
モイモイやキューア、カラサス、鳥鳥などの獣が途端にプリシラの元に集まりだした。執務室の扉が再度開かれ、ほっそりとした中年の男がくたびれた顔だけを出してきた。
「チェイカルさん。獣使いの指南書、期限がとっくに過ぎているんだから獣の世話は他の連中に任せたらどうだい」
「嫌です。うちの子はうちのやり方で世話していますんで。そもそも指南書ですか?はっ、獣の操り方にコツなんてありませんよ。ひたすら対話と癖づけと愛情ですって」
雇われ人とは思えない暴虐武人な台詞が聞こえた気がしたが、聞き間違いだとは誰も思わなかった。
「はあ、私本当はこの仕事嫌いなんですよ。獣が死ぬわ魔物を殺さなきゃいけないわ。私の夢はもっと平和的で獣達を幸せに出来る獣専門の飼育アドバイザーとか保護施設員、野生獣管理に携わりたかったのに兄が勝手に入隊届なんざ」
「獣使いの天才チェイカルに学びたいって人がたくさんいるんだ。優秀な人材が増えれば軍事力強化もできるし、君の才能にあやかりたいと望まれているなんてありがたいことだろう。騒がれなくなったら天才なんて終わりだよ?それにその才能を獣の世話如きで終わらせるなんて、あってはならないことだ」
「才能とやりたいことって関係ありませんね」
一言で切り捨てた。
「でも騎獣達の境遇を監視出来るのは良いことよ。今までの悪辣な管理を叩き直せたのは大きな一歩だもの。そうだ、今日は騎獣達が体調を悪くしていないか抜き打ちで見に行こう。メレンは3地区に連れて行ったばかりで寂しがっていたし、夕方にもう1度バレンス家に会いに行ってあげなきゃ」
ブツブツ呟きながらプリシラは牧舎から歩いて出ていく。その耳にはもう部長の声は届いていない。その彼女の後ろをゾロゾロと続く獣達の数は冗談のようにしばらく途切れない。
プリシラの傘下にある獣達がいなくなると牧舎は閑散としてしまった。残ったのは鎖に繋がれる獣達だけ。
騎獣達1匹1匹と頬をすりよせ合って挨拶かわし、プリシラは騎獣舎を管理している騎獣士に激しく文句をつける。獣舎の掃除がなってないだの、1匹ずつの設備がまだ整っていないのかだの、餌が不味いだのだ。最後にはこの子の扱いが悪いので乗り手の騎獣士を今すぐ呼び出せと騒いで徹底的に締め上げた後、再度の獣達への別れの挨拶をすませて去っていく。まさに嵐。
緊急の呼び出しがかかるのはこの後。
鬱蒼とした山で放し飼いしていた獣達を呼び戻した。完全な獣道を整備された街道の如く躊躇なく進む人間に逃げる獣、または近寄って来る獣がハッキリと分かれている。だがプリシラの周りには多種多様な獣が明らかに埋め尽くしていて、視界に入る景色は壮絶なものになっていた。
腰に手を当てたプリシラは獣達を見回して近くにいたモイモイの長毛を撫でる。
「乗せてね、チョロス」
鞍もつかないモイモイの背にまたがって異種の群れに君臨するプリシラは目的地の方角へ腕を振った。それに従って一斉に動く獣は自然界で群れが移動するように明確。
プリシラはモイモイの生身に直接またがっているためふわふわな長毛に完全に埋まっている。駆け足で山をくだる振動で体が上下に揺られているのに対し落下しそうな気配はまるでないのだがその足元には踏ん張るあぶみが無い。そもそもモイモイは大型の猫科ゆえに身体に合わせる馬具が作れず騎乗には向かないのだ。
騎獣するのに一番向いているのはカラサスという獣だ。肩から腰にかけての固い骨格は鞍をしっかり安定させられる。足が速く、頑丈、高い持久力、高度な平衡感覚を備えている。その上、強い個体は急な斜面も登れば水の中へも対応して泳ぐ。何より人間が訓練次第で乗りこなしやすい理想的な相棒。黒く綺麗な短い毛並みで飾りやすく、世話も楽で低コスト。よって騎獣士はそろってカラサスに乗る。
だがプリシラにとってはカラサスもモイモイも関係無い。乗り方のコツが変わるだけだ。
プリシラが持つ物は一つ。オールのように両端が広がった武器をに大刀がついた武器だ。普通、獣使いが戦闘するようなことがあれば獣をけしかけて後ろで命令をくだしているものだ。しかもプリシラのように多勢を操れるならなおさら自分が武器を持つ必要な無いだろう。だがプリシラは騎獣士としての腕も鍛えていた。そちらの腕は二流止まりなもののプリシラという獣使いはとにかく獣だけを危険に晒すのを嫌っている。
「プシィ、来たか」
かたわらに黄金の毛を持つモイモイよりも小さく筋張った猛獣リオンを1匹、肩に鋭い嘴とかぎ爪を持つウォーバードを1羽、腕に長い体を巻きつけ締め付けるウリウラを1本従わせる男が目的地の麓にある閑散とした町に立っていた。HG‐10地区には避難勧告が出されている。
プリシラを呼ぶ男と並ぶと、フワリとした巻き毛、顔つき、肌の色合いなどの似かよった風体から兄妹だと誰もがすぐに気付くだろう。
「レオンハルト、状況説明を」
「急くな。私の今待機させている獣達では足りずプシィの力を借りることになった。他の連中では話にならん私達でしか勤まらん戦闘になる。一刻を争うが冷静さを要する」
町から山を振り仰ぐレオンハルトは厳しい目をする。
「山の中に村がある。この山に龍牙舞が大量発生している」
龍牙舞……鋭い牙は鉤状で刺さった肉を引き裂き、硬い鱗と長い体で天地自在に森へ潜む魔物だ。
見た目には変わり映えしないが魔物は獣とは性質が違う。どれだけ手懐けようにも凶暴で手がつけられないのを一般的な魔物の分類としている。プリシラにとっては魔物も生き物であり、人を襲わない限りは退治する存在ではなく、幾度となく生け捕りにして訓練を試みた。努力の甲斐あって個体差でプリシラに対応し飼い慣らせた魔物もいる。だが、まだ龍牙舞の躾には成功した試しがなかった。
おまけに大群であれば生け捕る余裕もないだろう。殺すしかない。
「村の人間の救済が任務だね」
「もう生きてはいないかもしれん。異常なんだ。数が異常過ぎる。残っている獣達を使い山から移動せんよう威嚇してはいるが、本気で移動を開始されれば被害の拡大は止められん。これ以上の大惨事にするな」
「分かった。でもまあ一応は生き残りがいないかそこのウォーバードで村の様子を探らせてきてよ。後方に控えてるなら守りはリオン1匹いれば十分でしょ?私、今回探索向きの子は連れてきてないのよね」
「馬鹿を言うな、リオンだけでは足りん。プシィと違い私は通常の獣使い同様に獣達を武器にしている。こんな魔物だらけの場所で護衛を手放せるか。分かっているだろうが私がいなければ私の操る獣達の制御はきかん。大群に囲まれて獣達まで暴走すれば目も当てられない。いいか、生き残りは運良く見つけた時だけ命がけで救済する。この際、村の生き残りは期待しない」
プリシラは軽く目を泳がせた後に、騎乗しているモイモイの背を撫でる。
「分かったわ」
周りにいる獣達が、あるいは一般に魔物と呼ばれるものが混じりながら凱旋する。その集団が山を目指すのを最後の一匹までプリシラは見届ける。掃討戦であること、襲ってくる存在があること、けして1匹で動かず助け合うこと、麓から山頂にかけて敵を倒すことと細かい言葉を混ぜながら獣達に命じていく。
プリシラ傘下にある獣達には全てタグがつけられている。通常の獣使いはこれ程の獣を一度に取り扱わないし身辺から離れた場所に配置することもないため無用の心配であるが、よく目立つ場所につけておくことで間違って退治されたり同志討ちをさせないようにしているのだ。細かい命令は理解できない獣も多いがプリシラはそれでも意のままに動かした。
命令がなければ人間は襲うのではなく守ること。
敵を退治すること。
目的地で待機できることだ。
求めることはただの3つ。これだけは全ての獣に徹底させているからだ。
山に向かっていく獣のうちの6匹がプリシラの横で迷いを見せる。これが初めての任務で緊張しているのだ。優しく喉を撫でて、無理だと思ったらすぐに逃げて待機していればいいと声をかけるとチョロスの上に手をついてプリシラを舐める。巨体の重さにチョロスが低く唸るが笑ってプリシラは獣達を甘やかせてあげた。
そして、仲間達と同じく駆けて行った。
1匹が振り返り喉を鳴らして名残惜しんだ。
獣使いとして天才であるプリシラ・チェイカル。彼女の調教は完璧だ。獣達も彼女のために動くし彼女に褒められたいと思い、あるいは群れのボスとして接している。
完璧過ぎたのだ。
「チョロス……向こうへ」
声がかすれてもチョロスは反応し、あいまいな言葉の命令でも意を察して山の頂を目指す。
襲ってくる龍牙舞。足でチョロスに合図すれば巨体を恐れず正面から突進していく。そしてプリシラがオールを漕ぐように振るえば、チョロスが寸前で龍牙舞の横を走り抜けてプリシラの大刃が敵を横裂きにする。背後で魔物は倒れた。
「みんな撤退して」
また1匹倒す。だがついに身動き出来なくなりチョロスは周りを威嚇して牙を剥く。
「一度出直すの。みんな一斉に撤退しなさい!!」
広い山に散っている獣達の何匹に声が届いたものか。あるいは耳の良い獣はこれを拾い訓練通りに仲間の獣達に伝達を始めるだろう。
「甘く見ていた。確かに異常過ぎるっ。まさかここまで、龍牙舞が密集しているなんて!?」
獣達の20倍はいた。山が蠢いているのではないかと思う程の、しかし、この山に集まった理由が分からない程の数だった。
「助けなきゃ、みんなが危ない。邪魔よ、どいて。みんな撤退して!!」
飛び上がってくる龍牙舞が3匹。その1匹をプリシラが槍で口から喉まで貫き血を上半身に浴びて真っ赤に染まる。2匹目はチョロスが胴を食い破る。そして最後の1匹は、背後から現れたリオンによって頭を食い千切られた。
密集する龍牙舞がザワザワと後退する。
「半分くらいは始末出来たようだな」
後ろから多種多様な獣の臭いと息遣いが走り抜けていき龍牙舞達を襲い出した。プリシラとはまた違う色のタグをつけたレオンハルトの獣達だ。そしてレオンハルト本人も。
「数が減り山頂に向かって後退してくれたおかげで包囲網は狭まった。私の獣も見張りを一部中止させ山頂へ向けて仕上げを行う。撤退は必要ない」
槍にぶら下がる魔物の死骸を振り下ろしプリシラは首を振る。木々の向こうで龍牙舞と壮絶な噛みつき合いをして地面に落ち、プリシラの愛した獣が動かなくなる。
「パロナ!!」
悲鳴混じりにチョロスの手綱を握り前へ促す。
「このままじゃあの子達全滅しちゃう!?麓まで一度撤退させて救援を呼んでよ!上に行くまでにみんなが死んじゃう。あの子達を助けなきゃ!!」
いつの間にかチョロスの手綱にレオンハルトが手をかけていたかと思うとプリシラは腕をつかまれ引きずり降ろされていた。チョロスが威嚇するがレオンハルトはまったく動じず大きな牙をもつチョロスの口元に手のひらを向け、その動作だけでチョロスを黙らせた。
「プリシラのために敵を殲滅せよ。獣達を助けたいと言ったな。いいだろう、仲間を助けてこい」
「クルル」
喉を鳴らしてプリシラを見て逡巡したチョロスを見てプリシラの顔色が一気に青ざめる。腕をつかまれながらチョロスに手を伸ばした時には遅かった。顔を一度舐めたチョロスはその素早い身のこなしで森の奥へ飛び込んで行った。
「待って!チョロス、貴方も撤退するの!いけない子!撤退するのよ!!」
自由な片手を伸ばしても届かず、プリシラの胴はレオンハルトの獣リオンにくわえこまれ頂上と逆に連れ去られた。
「頭を冷やせ。村の人間が生きているかもしれない間に撤退することは許されない」
「村の生き残りは期待できないと言ったじゃないの!!」
「私達は騎獣隊だ。命を賭け任務を達する責務がある」
「1人の人間のために私の愛する子達に死ねと言うの?人間に協力してもらうために捕えられて、無理に戦ってくれている子達に責務なんてないわ!仕方ないのよ、命には代えられない!!時間がかかっても犠牲は少なくしなきゃ」
「救援と言うが」
リオンに飛び乗ってレオンハルトは山の麓に向かって速度を上げる。
「騎獣士を呼べば人間の犠牲が大きくなる。犠牲は小さく。その通りだ」
プリシラの表情が愕然とする。
「人間の犠牲を出さないために、みんなを最後まで戦わせるというの?」
「獣はまた育てればいい」
怒りなのか恐怖なのか分からない歪んだ顔でプリシラは声を詰まらせ、それでも焦りで山の頂に上半身を捻って空中で腕を掻く。
「……離して、私、みんなの所に戻るわ。最後まで一緒に戦う。撤退させられないのなら細かい指示を出して少しでも守ってあげなきゃ」
リオンは止まらなかった。
「今日は私の獣も多くが死ぬだろう。また獣を鍛え直さなければならない。数を消耗し過ぎた。天才プリシラ・チェイカルも同じく喪失できる犠牲ではない」
「嫌」
勢いよく駆け降りる視界の中に魔物と獣達の死体が目に入る。今朝は元気に甘えてきたソラスもいた。無残な姿をして。
「嫌よ!」
悲鳴が山の裾を震わせる。
「離して、みんな逃げてえええええ!!」
救援、という名の残党狩りに騎獣士が現れたのは、山が静まり返った次の日だった。
獣は1匹も帰ってこなかった。
誰もが立ち去った。
帰ることを命じられたが墓を作ることだけは頑として譲らなかった。常に押し通していることなので誰もプリシラを止めることはなかった。
呆然として山を巡っていった。
墓を作ると言ってもここまでの規模が死ぬことはかつてなく、女1人で叶う量ではなかった。魔物と絡み合い細腕では引き離せそうにないのも多い。龍牙舞の牙は一度刺さると抜けにくい返しがついているのだ。
「痛かったろうに」
どの獣も逃げなかった。墓を作りきれないプリシラは1匹ずつにつけていたタグを外して集めることにした。見つけにくい所や、悲惨に飛び散った肉片の中、木の上、崖の裾、全ての獣達を撫でてタグを外していく。
今までも死ぬことはあった。
それでもここまで酷いことはなかった。
村の中には墓が作られていた。もう住む人間もいないせいか家の間を縫うように道に墓が並んでいる。まるで村にいた人間がそのまま立っているように道に墓が立ち並んでいる。村をたまたま出ていた村人が見たら住む気にはならない陰気で生活を無視した死人の村だ。
村の中にも獣の死体はあったが騎獣隊の誰も手をくわえている様子はない。人間だけの墓を丁重に作ったらしい。場所はともかく、最低限の弔いを。
「何処にこの気持ちをぶつければいい?村の人間は死んだし、レオンハルト?騎獣隊の連中かな?それとも人間全てを?」
命令通りにこんな絶望的な場所まで辿り着いた獣。何匹もの仲間の死体を見れば逃げたい本能がわいただろうに。命令叱咤する獣使いだって側にいなかった。なのにプリシラの獣は村に辿り着くまで戦い続け、死んだ。
村にはチョロスもいた。もう物を言わぬ姿で、プリシラが口にしたようにきっと仲間を助けたことだろう。敵を倒すという手段で。
タグを集めて埋め、集めて埋め、繰り返す内に66つ目の墓が出来た。
土と血で汚れた掌を見つめ涙を受け止める。側にいられなかったばかりか、墓もまともに作ってやれない。最後によくやったと言ってもやれなかった。
「ごめんね、ごめんね」
小さく呟く声は誰の耳にも届かない。生きる者はこの山にプリシラ1人なのだ。そこでふと獣の数が足りないのに気づく。連れている獣は全て把握しているが1匹だけまだ見つけていない。まだ終わっていないなら立ち止まって泣いていられないと歩き出す。まだ行ってないのは村の更に上にある本当の頂上だ。
村を抜けて向かった頂上は建物も木も途絶えて開けていた。見晴らしの良いそこにやはり最後の獣はいた。
近づくにつれ丸く大きな体に違和感を覚える。
少しの魔物の死体に囲まれ震えて怯えるモイモイ。
「生きている」
最後の1匹が。
近寄ると頭をあげたモイモイは腹の中に5人もの子供を抱えていた。死んでいる子供が2人と、生きている子供が3人だ。
プリシラはその場に屑折れて大声で泣いた。
モイモイのダイスケは自分も怯えながら子供を守っていたのだ。人間を憎みもせず、プリシラに甘えた声をあげて手を伸ばしてくる。
その事件も瓦版に一面を飾った。生還した子供達への感激、悲惨な事態への同情と不安、それから天才チェイカル兄妹の華々しい活躍。
獣が消耗されたことから補充のために計画される獣狩り。通常の獣使いだけでは騎獣隊として機能させられるだけの調教は間に合わないだろう。なにせ今回は千匹を超える犠牲だったのだ。更に日々任務と称して危険な作業にあてられる獣が死んでいる。
生き残っていたダイスケは療養のために牧舎に帰さずプリシラが個人で借りた獣小屋で休ませた。獣小屋に残っている獣の中にはプリシラの傘下ではないが平等に可愛がっている獣達が沈んでいるプリシラを訳も知らずに慰める。
閑散としたままの獣小屋で生き残っている獣達に体を寄せてプリシラは獣達の耳元で囁いていった。他人の調教する獣相手に何処まで命令を守るか、いつまで効果があるものか分からないが毎日のようにその耳に囁いていった。洗脳をするように他の獣使いが気付かないように。
そして、ダイスケが傷を治して本調子になった時にプリシラは馬車を獣用に改良した車を買い、ダイスケに繋いで建物の前に待たせる。それからエヘライナ部長の机に1枚の紙をつきつけて机に落した。その一番上の欄には辞表と書いてある。
その書き出しには『獣使いといえばペットを見下ろして、お座りと唱えてみる。従えば立派な獣使いだ。嘘だ』という文章があった。
そして、数行が続いた後に最近になって記された新しいインクの跡が続く。
「獣の味方である私プリシラ・チェイカルは、獣を消耗品として扱う仕事が性に合わないため考えの相違により仕事を辞めさせていただきます。それでは、さようなら」
「ま、待ちたまえチェイカル君!?」
止める部長の声はもうプリシラには届いていなかった。
「行こう、ダイスケ。傷も治ったことだし美味しい物でも食べに行こう!もう1人で寂しい思いなんてさせないから、ずっと一緒にいようね」
車に乗り込むとダイスケはひとつ返事で駆け出した。
道を歩く誰もが振り返りはしない。騎獣隊の本拠地があるOS地区では獣車は他にもたくさん走っている。目新しい事件に無遠慮で他人ごとな評価を口にしながら、普段通りの生活を始めるのだろう。
プリシラは古い日記を途中で閉じ、今日から新しい日記をつけることにした。
1ページ目はそう。
『都会OSー2地区から。嫌になった。旅に出ることにした。さて……何処に行こう?』