所謂、世界観
批判があればどしどしください。ただ単に暴言を吐いたもの以外には全てに返信します。
まえがきに書くもんじゃないんだろうけど、そうしないと感想なんてもらえそうにないので。
現代の医学はとても発達している。一昔前では為す術のなかったことが、今なら治療することができる。それこそ適切な処置もせず、熱を出せば神に祈っていた時代に比べれば凄い進歩である。しかし、当時はそれが最善の方法であったのだし、死ねば神に見放されたとでもされていたのだろう。逆に言えば、生きたものは神の加護を受けたとされていたのではないだろうか。
加護と言われれば聞こえは良い物だ。しかし、何かを得るには同じだけの何かが必要なのが世の常であり、それを手に入れるには少なくない代償があったはずだ。時間だったり、まぁ祈祷をするくらいだから生気だったりするだろう。少なくともどうでもいい物ではないはずだ。
ところで、人間万事塞翁が馬、という諺を知っているだろうか? 簡単に説明すると、いつ福や災いがくるかは予測できない、といったものである。そんなものは当たり前だとしてしまえば、まぁその通りなのだが、ここで重要なのは、予測できなくて我が身に降りかかった福や災いが、本当に自分にとって福であり災いであるか、ということだ。
『自分にとって良いことが災いなわけがない、逆も然りだ。』なんてことを思ってもらいたいのではない。少し捻くれて考えて欲しい。
自分の身に降りかかった福によって災いが起きたら、それは福と呼べるのか
何を言っているかよくわからないだろう。ならばタイトルにも書いてあることや、今までに述べたことを踏まえて、解り易くしてみよう。キーワードは、加護、呪い、代償だ。もうお分かりだろう?
神の加護が与えられたが代償に何かを失ってしまったら、もはやそれは呪いと呼ぶのではないか
生まれ持って不幸な身体な人も世の中にはいる。ならば日常生活を送っていただけなのに、異常に巻き込まれる人もいるはずだ。それこそ、道端を歩いていたら未来を歩けるようになった、けど過去には戻れない、なんて加護を受けたりした人もいるかもしれない。いないかもしれない。もしかしたら友達がそうかもしれない。
これは自分には関係ない話だから言えることだが、もしそんな運命を背負った人がいたとしたら
頑張って生きてください
亀更新かもしれない。とりあえず投稿し始めた時くらいは連投します多分。
そしていきなりの改稿、読み返すとダメな部分だらけでした