孫堅と玉璽
三国志演義では呂布と劉備・関羽・張飛らとの熾烈な一騎打ちが繰り広げられる
虎牢関の戦い。
洛陽で献帝を傀儡として漢王朝を牛耳ってしまった董卓と、
それに対する反董卓連合軍との戦いだが、
史実では元より劉備三兄弟はこの戦いには参加していない。
そもそもこの反董卓連合軍は董卓のいる洛陽を遠巻きに取り囲んだだけで、
殆ど満足に戦争さえ行わなかった。
連合の盟主は袁紹だったが、彼はもう董卓の事なんか放っておいて、
華北の地で自立することを目論んでいたほどで、
その他、諸侯達も概して皆、決起はしたものの軍事活動そのものに関しては
非常に消極的だった。
で、
これは実に意外なことながら、
実際に董卓軍を相手に激しく戦い呂布や華雄を相手に彼らを撃破し、
董卓を洛陽から長安へと追い払い、既に焼き討ちされた後だったが
その都の奪回までを果たしたのが、
あの袁術だった。
まあ厳密には彼の下で戦っていた孫堅なのだが、
演義では人からの讒言を信じた袁術から兵糧攻めに遭い、
壊滅して長沙へと無念の撤退を遂げた孫堅軍だったが、
実際にはその後があり、
補給を止められた孫堅は直ぐに自らパトロンの袁術の下へと乗り込んで
直談判に臨み、
彼に補給の続行を確約させ、
そしてそのまままた北進して胡軫・呂布・華雄らをまとめて
陽人の戦いで撃ち破り、
洛陽への一番乗りを果たした。
だから実際、本当に凄かったのは堅パパなのだが、
ただこの人はどうも後世にも扱いが中途半端で報われない。
しかし孫堅の史実での活躍は本当に凄い。
殆どもう超人の域に達している。
かつての黄巾の乱討伐の際、孫堅は指揮官の立場にありながら
自ら敵城の城壁をよじ登って一番乗りを果たしたり、
当時、ビビッて誰も手を出すことのできなかったあの董卓に対しても、
彼と一緒の現場で賊乱討伐の任務に当たることになった際、
孫堅は遅参してきた董卓をみて総司令官の張温に向かい、
「こんなヤツは組織のガンです。私にお命じ下されば、
今この場で叩き斬ってご覧に入れましょう」なんて言ったりしてます。
漢王朝を逆賊の手から救い、賊乱を打ち払って再びこの世に大義と平安を
取り戻そうとする彼の態度も一貫していて、
孫堅の人生などはもう、まさにハード・ボイルドそのもの。
ただ残念ながら非常に短命で、
そのため三国志演義でも途中退場のようになってしまって
いまいち主役になり切れず、
それどころか孫堅は密かに玉璽を横領し、天下を窺う野心家との
イメージが強い。
特にこの玉璽の一件に関しては孫堅にとって、
現代にまで非常に大きなマイナスイメージとなってしまっているようです。
ただこの孫堅がこの、一番乗りをして入城した洛陽の廃墟から
玉璽を発見したというソースに関しては、
正史ではないものの『呉書』、『山陽公裁記』、『江表伝』といった
関連史書のあちこちに記事として実際に書かれています。
※『三国志 破虜(孫堅)伝』注、「呉書」
「吴书曰:坚入洛,扫除汉宗庙,祠以太牢。
坚军城南甄官井上,旦有五色气,举军惊怪,莫有敢汲。
坚令人入井,探得汉传国玺,文曰“受命于天,既寿永昌”,
方圜四寸,上纽交五龙,上一角缺。
初,黄门张让等作乱,劫天子出奔,左右分散,
掌玺者以投井中。」
(『呉書』に曰く:孫堅は洛陽へと入ると、漢の宗廟を掃除し、
祠に太牢(生け贄の肉)を捧げて祀った。
孫堅の軍勢は洛陽城南の甄官の井の上にいたが、早朝、その井戸の中から
五色の気が発生し、
軍はこぞって驚[惊]き怪しみ、
敢えてその井戸の水を汲もうとする者はいなかった。
孫堅が人に命じて井戸へ入らせると、漢の伝国の御璽を探し得た。
印文には“命を天において受く。すでに寿しくして永昌ならん”とあり、
周囲は四寸、上の紐には五龍が交差し、上の角の一つは欠けていた。
昔、黄門の張譲らが反乱を起こし、
天子をさらって出奔したことがあったが、左右の者は分散し、
御璽を掌握していた者が井戸の中へと投げ入れたのだ。)
※『三国志 破虜(孫堅)伝』注、「山陽公載記」
「山阳公载记曰:袁术将僭号,闻坚得传国玺,乃拘坚夫人而夺之。」
(『山陽公載記』に曰く:袁術が帝号を僭称した際、
彼は孫堅が伝国の御璽を手に入れたと聞き、
孫堅の夫人を拘禁して、これを奪った。)
果たして本当に孫堅は洛陽で玉璽を発見したのか?
で、
これは結局私が想像するに、
洛陽での玉璽の発見とは袁術が捏造し、
噂としてバラまいた作り話なのではないかと・・・。
そのころ活動していた反董卓連合において、
袁術の兄で連合の盟主でもあった袁紹が、
董卓が傀儡として擁立した献帝とは別に、皇族で幽州牧だった
劉虞という人(演義での劉備のモデルになったのではないかとされる人物)を、
連合側の新たな皇帝として擁立しようとしたりしていたのだが、
だからその袁紹が立てようとした新皇帝に対し、
袁術が、
そっちが皇帝なら、こっちはじゃあ玉璽だということで、
ちょうどその頃、洛陽への一番乗りを果たしていた彼の部下の孫堅が、
その廃墟の洛陽の中から伝国の玉璽を発見したということにして、
噂をバラまいたと・・・・・。
で、これはもう別に全然根も葉もない、単なる投げっ放しの噂話しで構わない。
「え?何だアイツ、本当に玉璽持ってんのか?」と、
たとえそれが真偽不確かな話だったとしても、
これはもう、そのたった一つの情報のために、千数百年後の現代の我々までが、
未だこの玉璽の問題について振り回されている程ですから。
また当時袁紹は、新皇帝劉虞の擁立計画もそうですが、
その事とも合わせて、彼は自分で勝手に金銀の印璽や玉印までも偽造して、
それで本来は中央へと推挙して送らねばならない孝廉や計吏を
自分の下へと呼び出し、
王朝の叙任権を私していたらしい。
玉印などに至っては皇帝専用の印璽である。
袁紹はもう一人で独自の王朝を開いたかのような気でいたのだろう。
なので詰まりはそうした、袁紹の偽造していた印璽に対し、
“お前達の使ってるそのハンコなんてどうせ偽物だろう。
こっちは本物を見付けたぞ”と、
袁術にしてみればそういう意味合いも持っていたのかもしれない。
だからこれは袁術と袁紹兄弟の争いで、
結局袁紹の新皇帝擁立の一件は劉虞本人の強い拒絶と、
その他連合諸侯の激しい非難に遭い、
失敗に終わるのだが、
だから洛陽での孫堅による玉璽の発見も、それが袁術の創作だったとして、
袁紹の新王朝開闢計画失敗の時点で、もう用はなくなる。
袁術自身、自分で忘れてしまったかもしれないが、
しかし孫堅が玉璽を見付けたという話はその後も尾を引いて、
演義では今度はそれが孫策の持ち物として出てきて、
また袁術の下へと戻ってくるという。
しかもそれがまた今度は大飛びして劉備が発見してしまうなどと・・・。
史実でも孫家が所有していた筈のその玉璽の存在については一切何も無しと。
結局何もなかったのではないか。
玉璽と言えば袁術皇帝で、
後世の我々はそんな彼の行為を様々に揶揄したりしていますが、
あるいは、
「あ?何だ玉璽だとか・・・、お前達はまだそんなこと言っていたのか?
そんな話、ワシもスッカリ忘れておったわい」などと、
思われていたりするかもしれない。