母の喪失2
「あら……」
リビングに入ると、優しい笑みを私に向けたのは、あの百合の女だった。
「先日は失礼しました。私、溝呂木亜矢香と言います」
――溝呂木?亜矢香がエレガントな物腰で頭を下げると、白いレースの付いたスカートの裾が可憐に揺れた。途端に自分が恥ずかしくなる。彼女が百合の花だとすれば、私は精巧に作られた模造の薔薇だ。
「繭美さん、いらっしゃい」
台所から聡の母親が顔を出した。この女の頬はいつも血色が良くて、私を苛つかせる。両手で運ぶお盆が、こんなに似合う女もそういないだろう。所帯臭い、田舎臭い女。
「料理を運ぶのを手伝います」
「あらあら、亜矢香さんにそんなこと……。聡、あんたが手伝って」
想定内だと言うような涼しい顔で、亜矢香が聡にお盆を渡した。そして無邪気な表情を作ると、明るい声を張り上げる。
「先日お買い上げになった絵、何処に飾ったんですか?」
「あぁ、寝室に――」
柔らかく微笑んで余裕の嘘をつく和之は、やっぱり私好みの男だ。
「和之君は、どんな仕事をしてるのかな?」
「父親らしい顔」を見せて、父が聞いた。
私はそんな父を苦々しく思いながら、和之の会社名を告げる。
「ほぉ。エリートなんだなぁ」
「勿論じゃない。私の彼氏なんだもん」
そう言って態とらしく和之の腕にしがみつくと、負けじと亜矢香が聡へ体をすり寄せた。
「――繭美さんと和之さんは、本当にお似合いのカップルですね。お義父様」
「亜矢香さんと聡君だって、お似合いじゃないか。実は亜矢香さんと聡君、婚約したんだ。今日はそのお祝いも兼ねてるんだ。繭美、和之君。今日は来てくれて、本当にありがとう」
父が深々と頭を下げた。こんな父を見るのは始めてだった。
「――婚約?」
私の声は、自分でも慌てるほどうわずった。和之がその声を掻き消すように、「おめでとう!」と手を叩き始める。
「ありがとうございます」
恥ずかしそうに頬を上気させる亜矢香の姿に、言いようのない怒りを感じた。
「聡さん、お義父様が発表されたわ」
料理を運んで来た聡に、亜矢香は甘えた声でそう告げる。
「シャンパンにしといて、正解だったな」
和之がその美しい液体をグラスに注ぐと、父が感極まった声でスピーチを始めた。
「――皆さん。今日は集まってくれてありがとう。こんな暖かい気持ちは、久しぶりだよ」
まるで、母の存在を忘れたかのような口ぶりだ。母と一緒の時は、穏やかな気持ちにはなれなかったということか?それは、自分が悪いんじゃないか。
「さあ召し上がって下さい。お口に合うかどうか分からないけど」
テーブルに並べられた料理を見て、うんざりした。ちらし寿司に、鳥の唐揚げ。まるで子供のお誕生日会だ。そうだった。私はこの和やかなムードを、ぶち壊しに来たんだった。
「ママのローストビーフが、恋しいなあ」
私の呟きに、父が睨み付ける。
「いいんですよ先生。母親の料理を恋しがるのは、子供として当然ですもの。レシピが書かれたノートが残ってましたから、今度、頑張って作ってみますね」
「こんな料理しかできない人が、ノートを見ただけで作れるかなぁ?あれ、結構難しいから」
皆が私の言葉で、気まずく下を向く。父が睨み付けているのを感じるが、私は自分の目的を果たす為にここに来たのだ。手加減はしない。
「でも、繭美さんはお母様の手料理を思い出せてお幸せね。私の母は小さい頃に亡くなったから、面影すら覚えてないんですよ」
ははぁ、これがこの女の手か。私と亜矢香には、「母を亡くした」と言う共通点がある。だから仲良くしましょうか?
「繭美さんには、仲良くして戴きたいわ。親戚になるんだし」
「あんたが聡と結婚してなんで……」
言いかけて、その言葉の意味が分かった。つまり、父とこの女は結婚するんだ。私の顔色が変わると、亜矢香は慌てて口を噤んだ。
「私ったら、また余計なことを」
「――パパ、どういうこと?」
「今すぐ籍を入れるとか、そう言うことじゃない。それにお前にも、賛成して貰ってから……」
「賛成する訳ないじゃない!」
いきり立つ私の腕を、 和之が掴んだ。
「今夜はお祝いの席だし、お父さんも先のことだと仰ってるだろ?」
和之の優しく諭すような声に、私は弱い。
唇を強く噛んで押し黙る。
「ところで…、亜矢香さんと聡さんの馴れ初めは?」
聞いた後で、和之が私の耳に囁く。
「この怒りは、後で発散させてやるから」
私はこんな和之が、やっぱり好きだ。私の感情をコントロールする術を知っている、和之が。
「私達は、昔は兄妹だったんです」と、亜矢香が唐突に語り始めた。
今までの人生で、亜矢香は自分が主役で生きて来たのだろう。どんな場面でも、自分を語ることができるのは、いつもこうして周りが耳を傾けて来たからだ。
「僕の実の父が死んで、お袋は俺を育てることができなくなって。遠い親戚の溝呂木家に、養子に入ったんです」
「それでも法律的には一応兄妹だから、結婚は――」
無理なのでは?と、和之が遠慮がちに言った。
「溝呂木の父が去年亡くなって、僕は溝呂木家とは協議離縁して、母の姓の柏木を名乗ることにしたんです」
「じゃあ亜矢香さんと結婚する為に、聡君は溝呂木家と離縁をしたんですか?」
「ええ、そうなります」
亜矢香がそんな聡に、幸せそうに寄り添う。
「それってちょっとした、兄妹プレイね!きもっ!」
「繭美!」
また、父が大声を張り上げる。亜矢香は私の言葉を聞くと、助けを求めるように聡を仰ぎ見た。しかし聡は、食べるのに夢中な振りを装っていた。 聡は亜矢香を心からは愛していない。直感で、そう感じた。
「――溝呂木の父には、色々と世話になったんです」と、聡がしみじみ語った。
そうか、世話になった人の娘だから結婚するのか。
「では、繭美さんと和之さん、お二人の馴れ初めは?」
亜矢香に聞かれて、「塾の講師と生徒です」と心の中で答える。十三歳だった私に、一回り年上で塾の講師の和之が、手を出したんです。
「朝、満員電車の中で貧血で倒れた繭美さんを、こう、私が御姫様だっこしまして……」
嘘吐き。和之の話に笑う皆の声を、何処か遠くで聞いていた。
…◇ … ◇ …
「――和之さん、今夜は泊まれるの?」
殺風景なシティホテルの唯一の救いは、夜景が綺麗なこと。けれど今夜は、窓をつたう雨ばかり。こんな日は、私と和之の関係がどんなに安っぽいが思い知らされる。
「今夜は、大学時代の友達と飲み明かすって言って来たから。泊まれるよ」
私が喜ぶとでも思ったのか、奥さんに上手い嘘をついたことを自慢げに語る。奥さんを欺いて、若い女を抱く。そのことの何に対して、得意げになってるのか。馬鹿な男。
「でも、何だか疲れちゃった」
「意外に大人しかったじゃないか。聡君達の婚約がショックだったから?」
「違うよ!」
和之が私を柔らかくベッドに押し倒して、下着をゆっくりと引き下ろした。
「シャワーを、浴びて来る」
起きあがろうとすると、肩を押さえ付けられる。
「このままいい。綺麗だなぁ……。別人みたい」
綺麗だ――。私はあの時の聡の瞳を思い出す。何で、あんな目で私を見るのか。
「あそこのショップの店員さん、繭美のことモデルさんですか?だって」
「何て答えたの?」
「女優の卵」
和之の指がそこに触れる。いつものように最初は軽く。私もいつものように、少し抵抗してみる。和之の好みだ。
確かに……、私は女優だ。
シナリオは?まだ未完成。




