母の喪失
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
久しぶりの和之とのホテルだったけど、和之はご機嫌斜めだった。
「昨夜、メールを返してくれなかったね。どうしたの?何してたの?」
「サークルの友達と、カラオケに行って来たから」
「カラオケ?」
和之は私の服を器用に脱がしながら、訝しげに聞き返す。
「繭美ちゃんって、カラオケ嫌いじゃなかったっけ?」
「しょうがないじゃん。お付き合いなんだから」
本当は合コンで知り合った子と、会っていた。最近の和之は変な嫉妬をするから、私は下手な嘘を吐いたのだ。
「ふーん」
私の体を異動していた和之の唇が、グロスを塗ったように光っている。
「――嘘吐き」
その唇は、私の体液の匂いがする。女の私が、匂う。嘘だと気付いて欲しくて、嘘をついた。何故だろう?和之の気持ちをかき乱したくなった。
「繭美ちゃんが俺に嘘吐くなんてさ、大人になって来たのかな?」
「私の成長は、和之さんが一番知ってるでしょ?」
「体は成長しても、心はまだ十三歳の繭美ちゃんのままだと思ってたんだけどな」
和之は、私の体を心地良くする術を知っている。でも、心を心地良くしてくれいから、私は満たされないままだ。私は、もっと満たされたい。もっと。
「和之さんは、奥さんと上手くいってないの?」
「いってるに決まってるじゃん」
「ふ~ん」
私は正直に語ろうとしない和之に苛々して、悪戯心から昨夜の事をばらしてしまった。
「実は昨日は、合コンで知り合った子と遊んでたんだー」
「それで、――寝たの?」
鋭い視線で聞かれて、私は思わず目を逸らす。
「してないよ――」
それは本当だったが、和之のその執拗な態度が、日記の中に母を思わせた。体が、震える。
「じゃ、繭美ちゃんは、俺しか知らないんだ」
じりじりと、壁に追い詰められた。
「和之さんどうしたの?私なんか、使い古したバスタオル以下なんでしょ?」
「繭美ちゃんが他の男といる所を想像したら、やばかった」
「やばかった?」
「年甲斐もなく、嫉妬した」
「嫉妬?それって、執着?」
和之が、皮肉な笑みを浮かべて私を壁に押し付ける。私の体の自由を奪うことが、心を引き留める術だというように。
「それも愛の一種だろ?」
また和之の手が、ブラウスの中に滑り込んで来た。
「そろそろ時間だよ。帰らなくていいの?」
「明日の朝まで、一緒に居ようよ」
――気持ちいい。気持ちいい。誰かに必要とされるのは、気持ちいい。それが例え、歪んだ感情であっても。
祖母は私を自由にさせているけれど、それには何か理由があるようでならない。時々、腫れ物に触るように言葉を選んで話し掛けて来る。
それは母を亡くして直ぐの私を気遣ってるようにも思えるし、爆発しそうな爆弾の線を選びかねてるようにも思える。青い線と赤い線、切るのはどっち?と言うように。そんな態度を取られると、私は益々イライラして爆発したくなった。
和之は前にも増して、私に会いたがるようになった。繭美ちゃん、繭美ちゃん、繭美ちゃん。まるで室内犬のように私の足に絡まる。祖母も、和之もどうかしている。何故もっと、普通に愛してくれないのだろうか。
父の誕生日が、近づいていた。あの女なら手料理で持て成すに違いない。考えてみれば、今まで父の誕生日を祝うことなど全く無かった。あの女の甘辛い料理を食べながら、父はその瞬間に幸せを噛みしめるのだろうか?少し前まで身を置いていた殺伐とした家庭と比べて、「ああ、今は幸せだ 」と、満面の笑みを浮かべて思うのだろうか。勝手な男。勝手な父。私を憎しみの暗闇に投げ込んで、自分はぽかぽか陽気の縁側で、あの女と幸せを築くのか。許せない。私の怒りは、誰にぶつければいいのだろう?ぶつける人はただ一人。聡しか、いない。
だから、「父の誕生日を祝う」と、あの小太りな女から手紙が届いた時、思わずニヤリとしてしまった。
「繭美ちゃん、手紙は誰から?」
「パパの誕生会のお知らせ」
「祥子って誰?新しい女かしら?一周忌もまだなのに!」
「いいじゃない。パパだって寂しいのよ」
「それでも早すぎるわよ!」
勿論私にとっては、父が寂しかろうが、誕生日だろうが、どうだって良いことだった。父の誕生会に行く理由は、一つだけ。その会のメンバー全員を、嫌な気持ちにさせる為だ。
「――え?パパの誕生日のプレゼント?」
「和之さん、ワインを選んでくれない?私は全然詳しくないから」
すると、和之の目が怪しく光った。
「何を企んでるの?」
長い付き合いの和之には、隠し事はできないらしい。
最近の和之には、変な色気がある。大学まで車で迎えに来た和之を、友達は「セクシー」と評した。
「俺は昔からセクシーですけど?繭美ちゃんが子供だったから、分からなかったんだよ」
多分、私が和之と一緒に居たい理由はこれだと思う。和之だけが、私を子供扱いしてくれる。むかつくけど、心地良い。
結局お祝い事だからと、和之はクリスタルを買ってくれた。ドンペリじゃ俗っぽいし、 ヴーブクリコじゃ地味過ぎると言いながら。
「アメリカじゃドンペリより、クリスタルの方が値段が高いんだけどさ。日本じゃドンペリをありがたがる。日本人の価値観って、俗っぽくてセンス無いよなー」
こんな薀蓄を語る和之は、珍しかった。
「愚痴っぽくなったら、オヤジでしょ?」
何かあったと悟りながら、私はこんな冷たい言葉を発してしまう。慰めてあげるような関係でもないし、そんな関係を拒否したのは和之だ。
「繭美ちゃんはきっついなぁ。クリスタル、買ってあげたのに」
「和之さんも飲むんだからいいじゃない?」
「俺も、飲む?」
少し頭を傾げて考えた後、やっと合点が言った風で眉間に皺を寄せた。
「ダメダメ、俺を巻き込まないでよ」
「お願い」
「ダメ」
和之は力強く頭を振る。分かっていた。和之は私と、甘いクリームを舐めたいだけだって。
「どうしてもダメ?」
「君の問題に絡みたくない。正直、うざい」
「――あっそ」
けど、世の中そんな甘くない。和之だけ、甘いクリームを舐め続けられる訳がない。私は初めて、和之を追い詰める台詞を吐いた。
「じゃぁ、私は今日から、作家になりま~す」
「作家?何それ」
「私は十三歳で、彼の愛人になった。少女は幼い時からの性体験を、赤裸々に語った。どう?」
「お好きにどうぞ」
「それを和之さんの会社と、奥さんの所に送る。どう?」
聡の個展で見た和之の名詞から、会社名は分かっていた。
「俺の家が何処か、知らないじゃん」
「いつだったか、結婚式の招待状がバッグから覗いてたよ」
「そっかー。じゃあ、降参するしかないかな」
和之は優しく笑った。それが余裕なのか、私を子供だと侮っているのか分からない。私は微妙な笑みのまま固まる。
「俺は繭美ちゃんに、何もしてあげたことないもんな。お願い、聞いてあげなきゃね」
「私、この洋服じゃ行きたくないの」
私は祖母の趣味で、上質な素材のブラウスとシンプルな黒のスカートを履いていた。上質なのは分かる。けど私は、質よりトレンドを重視したい年齢だ。
「まぁ確かに。そのデザイン、古臭いもんね」
「私が輝いて見える洋服を、和之さんにプレゼントして欲しいの」
「洋服だけでいいの?」
「靴と、バッグも」
急に車がUターンした。
「じゃぁ、俺が知ってるショップに連れて行くよ」
和之は怒らなかった。それだけ私を好きなのだろうか?少し、心が痛んだ。
「男に物を強請っても、平気な顔をしてりゃいいんだよ。何故なら男は、頭の中でその見返りをちゃんと考えてるから」
その言葉を証明するように、ストッキングを履いてない私の足を撫で回す。
「ちょっと、運転気を付けてよ」
「人は正義より、悪に強く引かれるんじゃないかって思うんだ」
さりげなく本音を言う和之に、納得する。でも自分が悪なのか何なのか、分からなかった。そして何より、どちらにもなりきれない自分の青臭さが嫌だった。
私達を出迎えた父の笑顔が固まった。それは私の格好だったか、後に立っている和之だったか分からない。それか、両方か。
和之に連れられて入った表参道のショップで、私は完璧な「女」を演出された。胸元が大きく開いてフリルがついた黒のキャミソールに、ボロボロのデニムのミニスカート。ラインストーンが沢山付いたミュールに、繊細なビーズできたバッグ。何時も後ろで結んでいた髪は、下ろしてカールさせていた。
「――その、繭美は雰囲気が代わったな」
「もう十九歳だから」
「う、後ろの方は?」
「始めまして。お嬢さんとお付き合いしてる、望月です」
和之の名字を久々に聞いて、私も柄にもなく緊張して来た。
「お付き合い、してるのか?」
「そう」
意識的に顎を上げる。
「そっか。――まぁ、上がりなさい」
和之が柔らかく背中を押して、耳元に囁いた。
「ショックを受けてるね」
「そうだね」
ニヤリと笑う口元に、和之がキスをする。すると、洗面所から現れた聡と出くわした。
「望月さん?先日はどうも」
「いいえ、どういたしまして」
「繭美ちゃん?何だか雰囲気が変わったな」
私はグロスの光る唇を歪めて笑う。そう?とさりげなく。
「綺麗だなぁ。なんか、女優さんみたい」
「大袈裟だよ」
聡の真っ直ぐな視線を受けると、何故か体が震えた。こんな風に、男の人から見つめられたことが今までなかった。