母の嫉妬3
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
和之から連絡が来たのは半年振りだった。母が死んだ直後に一方的に去って、梅雨のじめじめした蒸し暑い日に、また不快なメールを寄越してくる。和之らしい。私達の関係には、春のほのぼの感や、秋の爽涼とした風は似合わない気がする。
「繭美ちゃんに会いたい。会いたい!会いたいよう!」
年齢に似合わない幼稚な文面に苦笑しながら、私はこう返信する。
「いいよ。会っても」
「やった!本当?本当に?」
和之にお願いしたいことがあった。私はずっと和之の思い通りの人形に徹して来たのだから、少しは見返りを要求しても許される筈だ。
久しぶりに会った和之は、腹回りに肉が付いて中年の匂いを漂わせていた。
「毎晩家に真っ直ぐ帰って、愛妻料理を食べてたらさぁ、ちょっと太っちゃってさぁ」
「愛妻?」
意地悪く聞き返す私に、「言葉のあや」と戯ける。私はこんな軽い男とは、絶対に結婚しないだろう。奥さんに、同情する。同情することで、優越感を感じたいだけかも知れないが。
「奥さんの写真とかないの?」
「ほら」と、携帯の画面を見せられた。
ははぁ、と、納得する。鈍そうな女だ。
「あ、繭美ちゃん。こいつのこと、ブスじゃん。って思ったでしょ?」
「別に、関係ないし。どうでもいい」
和之は少し会わない内に、甘えキャラに変貌していた。それは奥さんという安心できる母親を得たからかも知れないし、元々そう言うモノを持っていて、今まで虚勢を張っていただけかもしれなかった。どちらにしろ、私の和之に対する未練は、すっかり消えてしまった。
「で、お願いって?」
「絵を買って欲しいの」
「絵?誰の?」
「柏木聡って人の」
「有名なやつなの?俺は知らないんだけど」
「私も良くは知らない」
「ふーん」と、 私を探るように見ていたが、
「繭美ちゃんが俺にお強請りするようになったなんて、ちょっとショックだなぁ」
また戯けて誤魔化した。でも、何故絵を買って欲しいのか、しつこく聞いてこないのは大人の余裕。
「和之さんに求める物が、違って来たんだよ」
冷静に言い放つと、意外にも和之はシリアス顔になった。
「そう言う風にしちゃったのは、俺だもんね。いいよ。買ってあげる」
和之がギャラリーのドアを開けて、その不快な音に眉を顰めるのと、聡が私に気付いたのは同時だった。何かを感じ取った和之が、「そう言うことか」と、私の表情を盗み見る。
「始めまして、柏木です」
「あ、どーも」
反射的に名刺を差し出す和之は、如何にもサラリーマンっぽい。名刺は有名な証券会社のものだ。私はそういった和之の表の顔に、今まで関心がなかった。
「私は絵画など、全く分からないのですが……、君はどの絵が気に入ったの?」
君?クスリ、と笑う。さっきまでは「繭美ちゃん」って呼んでいたのに。
「これがいい」
菊なのか百合なのか、白い花が描かれた小さな絵で、タイトルは「献花」だった。
「じゃあ、これを戴きます。幾らなんですか?」
躊躇する聡の代わりに、受付の女が叫ぶ。
「号、三万だよ!」
「号?」
「キャンバスのサイズです。この絵は一号サイズだから、三万円なんです」
聡は照れて頭を掻いた。その仕草を、和之が薄気味悪く眺めている。
「じゃあ、あの絵は幾らなの?」
私は、一番大きな絵を指差した。
「あれは三十号だから……」
「九十万ってこと?売れるの?」
「売約済みの札が付いてるじゃん!」と、例の女が、私の背後で意地の悪い声を張り上げた。
「絵には価値があって無いようなもんなんだよ。この絵を一億円で買う人がいりゃ、この絵は一億円の価値。聡、値引きなんてしちゃ駄目だよ!」
言いたいことだけずけずけ言って、さっさと受付に戻って行っく。
「カズミ、分かってるって~」
「私は値引きなんて要求しませんから、ご心配無く」
和之が大人しくお金を払い、私はその小さな絵を受け取った。
「ありがとう繭美ちゃん」
聡は本当に嬉しそうに、ペコリと頭を下げる。
その時だった。あの匂いを嗅いだのは。振り向くと、そこには真っ白な百合の花が咲いていた。女は一瞬にして、自分の敵になる女が分かるんだ。
「亜矢香さん!」
純白のワンピースが、眩しく私の目に飛び込んで来た。私は意識的に背筋を伸す。決して美人じゃないけど、内面の清らかさは外見に表れる。そこに男は惹きつけられるのか?聡も、そんな一人なのだろうか?
「近くに来たから……」
頬を上気させながら、弾むように言う亜矢香。年齢は私より上のようだけど、精神年齢は低い。絶対に、処女。ふん、と、鼻で笑う。こんなお嬢さんが、どんな用事で廃れた商店街に来たんだ。嘘吐きめ。
「どの絵をお買い上げくださったんですか??」
首を傾げるその仕草に苛つきながら、「貴女に何の関係が?」と強い視線を返すと、途端に青ざめた。
「不躾に聞いてしまって御免なさい。つい、嬉しくて」
助けを求めるように、聡の顔を仰ぎ見た。その仕草が余りにも健気に見えたからか、
「献花ですよ」と、和之が代わり答えた。
「あの絵!聡さんお売りになったんですね」
そう言って、慌てて口を塞いだ。
「私、また余計なことを。父にもよく言われてたんですよ。よく考えて、話せって。お喋りだって……」
「実はあの三十号の絵、亜矢香さんのお父様が買って下さったんだ、亡くなる前に」
「――私、両親がもうおりませんの」
おりませんの?何語?私は改めてその絵を見つめ、タイトルに納得する。
「野望」
寒色系の渦の中に、一筋のオレンジ色の光が差している。その光は、釈迦が罪人に垂らした最後の希望、あの「蜘蛛の糸」のように輝いていた。聡にとっては亜矢香が、この光なのか?いや、亜矢香の父親が?
「献花、あの絵に何か思い入れがあったの?」
「最近亡くなった知り合いの為に、描いたもんだから」
「――最近亡くなった?」
私の声は、自然と上擦る。
「恩人だった……」
「恩人?」
「何も返せないまま、急に逝かれてしまって。本当に急に……」
私の探るような視線に気付いた和之が、柔らかく背中を押した。それは、私を正気に戻す合図。
「そうだ!行かなきゃ!私達、これから予定があるの」
和之の腕に自分のそれを絡めると、亜矢香が頬を染めて恥ずかしそうに俯いた。
「お似合いのカップルですね。聡さんもそう思いません?」
「――ええ。お似合いです」
そこを出た私達は、互いに苦笑いで見つめ合う。
「亜矢香とかいう女、馬鹿だよね」
「女は少々馬鹿で良いんだよ。頭のいい女じゃ、浮気も直ぐばれる」
そう言って私を抱きしめて、唇に軽くキスをした。ニヤリと笑う和之と、挑発的に微笑む私。確かに、お似合いかも知れない。
◆十一月十日◆
あの部屋には、女の気配がある。シーツを捨てた日から、聡は巧妙にそれを隠すようになったが、私には分かる。女にはそれが分かるように、予め力が備わっているんだ。
いつものように散らかし放題だが、マットレスには掃除機を掛けた痕跡がある。急いで掃除機の中を調べると、長い髪の毛が見付かった。勿論、私の物では無い。
シーツに掛けられた大量の男物のコロンは、女の痕跡を消す為の物だろうか?
一つ疑い出すと、全てが怪しく感じる。私は必死になって、見えない女の影と戦っていた。
あぁ、最近なんだか疲れる。心も体も疲れ果てて、神経がギシギシ軋む音が聞こえそうだ。
そう、最初から分かっていた筈。若い男に恋をすると言うことは、つまりそう言うこと。嫉妬、嫉妬、嫉妬。決してなくならない、若い女達への嫉妬。私が二度と手に入らない物を持ってる女達への嫉妬。
彼が一つ年を重ね私に近づく度に、私は一つ彼から遠ざかる。決して埋まらない、その溝。いつか、聡を失う、恐怖。嫉妬とその恐怖の間で、私はいつか気が狂う。
――そう言えば、処女の血を浴びて、若さを保とうとした女王の話を読んだことがある。彼女も若い男に恋をしてたのだろうか……。
悔しい。私に繭美の若さと知恵があれば、聡を夢中にさせて翻弄することができるのに。
繭美には年の離れた、大人の彼氏がいるようだ。夫は心配して外出禁止と怒鳴ったが、大人の男なら逆に間違いを起こすこともないだろうと、ほっとした。男親と女親では、こうも受け取り方が違うのか。それに、こんな両親の子供だもの。品行方正と行く訳ないじゃない。
夫が繭美を「帰りが遅い」と 叱りつけているのを見て、思わず笑いそうになってしまった。そんな自分は、帰りはいつも朝方じゃないか。勝手な男。馬鹿な男。
――死ねばいいのに。
◆十一月三十日◆
聡が女と一緒の所を押さえたくて、私は予告無しにマンションへ行くようになった。その度に、聡は不機嫌になる。当然だ。こんな中年の女にいつも監視されているのだもの。うんざりするだろう。けど、そうしようもない!自分を押さえられない。
「確かにここは、祐子さんに払って貰ってる。だからって、監視みたいな真似は止めてもらいたいんだけど。結構、ストレスだよ」
そうやんわり抗議されても、私は止めなかった。いや、止められなかった。
今日、聡の働くコンビニを通ったら、彼の姿が無かった。出勤日の筈なのに……。嫌な予感がした。
鍵を開けるのももどかしく、私の形相に驚いた聡を押し退けて寝室に直行する。
「祐子さん、どうしたの?」
無言でブランケットを捲り、シーツを確認した。勿論、ゴミ箱の中も。
「祐子さん、もう止めてよ!」
「煩いわね!」
寝室で、目的の物は見付からなかった。足早に、リビングに移動する。
本当は、恐ろしかった。女がいる証拠なんて見たくない。見たくないけど、その証拠を探さずにはいられない。
「さーとーし~。ママが来ちゃったの?」
スーパーで会ったあの女が、体にタオルを巻き付けた姿でビールを飲んでいる。そのビールは、私のお金で買ったもんだ。勿論、そのタオルだって。我慢できない熱い感情が溢れて来て、私は脱ぎ散らかしてあった洋服を彼女へ投げつけた。
「ちょっとオバさん!何すんのよ!」
「出て行きなさい!早く!」
「ちょっと、聡!どーなってんのよ。この人、どうしちゃったの?」
「カズミ、今日の所は帰ってくれ……」
女は観念したようにノロノロと服を着て、ぶつぶつ文句を言いながら出て行った。
「何て男!」
聡の頬を殴りつける。一度それをしてしまうと止めることができなくなって、何度も何度も拳を振り落とした。
「――祐子さん」
聡がゾッとするような冷たい声で名前を呼ぶから、私の体は凍ったように動けない。
「どうして?私は聡に一生懸命に尽くして来たじゃない?聡を私だけの物にするには、どうしたらいいの?」
「祐子さん。カズミとは、関係ない。ただの幼馴染みだよ」
「嘘!何で嘘吐くの?聡には他に女がいるんでしょ?言いなさいよ!」
「みっともないよ。大人の女の嫉妬は。それじゃ十代の女の子と同じじゃないか。寧ろ…、十代の女の子の方がドライかもしれないよ」
私の体を乱暴に押し退ける。
「聡……」
「そろそろ限界かな。祐子さんの相手をするのも」
「あ~あ」
大袈裟に溜息を吐いて、ソファーに体を投げ出す。
「聡が悪いのよ!ここに他の女を連れ込むなんて!ここは私と貴女の二人だけの部屋なの!二人だけなの!」
彼の膝に縋り付くと、私は泣きながら懇願した。
「お願いだから、私だけの聡でいて」
「もう無理だよ。俺には、自由がない。祐子さんに、飼い殺されるのは嫌だ!」
聡は私を振り払って勢いよく立ち上がると、荷物を纏め始めた。
「お願い止めて!」
「もう無理なんだって!」
「いいわ!」
そして私は、決して口にしてはいけない言葉を吐いてしまった。
「何でもする!何でも許す!だから行かないで!聡の自由にしていいから!だから、お願い!」
「――本当に?」
彼は私の涙に濡れた瞳の奥を、探るように見つめる。
「本当よ。だから……」
聡に息が詰まる程に、強く抱きしめられた。あぁ……、吐息が洩れる。こうして聡に抱きしめられていたいだけなのに。
「ありがとう!祐子さんはやっぱり最高だよ!スキだよ」
――好きだ。その言葉の為に私は大金を注ぎ込み、プライドを捨てる。彼にその価値はあるのか?今はもう、分からない。
でも、ここで止められない。だって……。ここで止めたら、私が聡に費やした二年間が無駄になる。それを言うなら夫と私の二十年は一体何だったんだ?
愚か……。愚かな私。