母の嫉妬2
◆八月二十日◆
夫はグアム、繭美はお友達と北海道に行ってたから、この四日間は聡のアパートで過ごしていた。けれど、二人とも今夜には戻って来る。自宅に帰らなければならなかった。
私は聡を、古く汚いアパートから新築のマンションに引っ越しさせた。費用は全部、私が出した。
最近の聡は、愛人業が板に付いてきた。アルバイトも休みがちだし、私にお金を出させるのに慣れて来た。それどころか、お金が無ければ平気で「頂戴」と言う。
唯一の救いは、絵だけは描き続けてることと、セックスに手抜きしないことだ。そりゃ何も持って無い聡にとっては、体を使ってのご奉仕しかできないのだし、また時に必死になっている姿は可愛らしくもあるから、私も言われるままにお金を出してしまう。
「今度、個展を開かないかって言われてるんだ」
雨が降ってるからと言う理由だけでアルバイトを休んだは聡は、私の作ったパスタを美味しそうに啜っている。
「貴方は、私達の関係をどんな風に考えているの?」
彼の反応を気にしながら、そう聞いてみる。この質問を口に出すまで、何度も何度もシミュレーションを行った。深刻になり過ぎず、重くならず、軽く、明るく……。この質問をすることで、喧嘩になるだろうか?聡が嫌がるのは、目に見えていた。けれど、どうしても聞かずにはいられなかった。
「どんな風にって?」
「つまり、将来のことよ」
「将来?」
聡はパスタを喉に詰まらせて、慌てて水に手を伸ばす。
「私達、もう二年もこんな関係を続けてるじゃない?」
「そうだけど、ちょっとびっくりしたよ。そんなこと考えてるとは思ってなかったから」
「聡は時が来たら、私を捨てるんでしょ?」
言い出したら感情の歯止めが効かず、つい、結論から口にしてしまった。なんて醜い、憐れな女なんだろう。
「じゃ祐子さんが家庭を捨てて、僕とずーっと一緒に暮らす?僕はいいよ。祐子さんがここに住んでも」
悪戯っぽい上目使いの瞳。私ができないことを、知っている目だ。
「お金が無い私と、暮らして行けるの?」
「さぁ、どうだろうなぁ」
聡が馬鹿にしたような口調で言うから、
「真剣に答えてよ!」と、思わず大きな声を出てしまった。
それでも聡は、肩を竦めてにやついた顔のままだ。こんな時、キッチンに走って庖丁を掴みそうになる。衝動的に男を刺してしまう、女の気持ちが良く分かる。
聡はこの二年間、「好き」だと言ってくれたことがない。好き、愛してる、そんな陳腐な台詞が欲しいのか?違う。私は今まで、誰にも言われた事がない。私はただ、価値のある女になりたいだけなんだ。
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
商店街の小さなギャラリースペースで、聡が個展をするのを知ったのは偶然だった。
駅の掲示板に貼り付けてあった手作りポスターに、聡の名前を発見したのだ。
私は母の日記を読みながら、聡に対して憎しみを募らせていた。女から金をせびって平気でいられる、負け犬。母の代わりに、復讐をしたい!そんな気持ちが、日に日に強くなって行った。
「五百円です」
変な機械音を立てるドアを開けると、入り口に座っていた女がそう言った。
「お金、取るんだ」
ガムをくちゃくちゃと噛みながら、女は不遜な態度で私を仰ぎ見る。こんなギャラリーには似合わない、赤い髪の化粧が濃い下品な女だ。まるで、昔のパンク歌手。
「五百円、ですけど?」
私は観念してお金を渡し、中に入った。油絵の具の香りが漂う部屋に所狭しと飾られてるのは、抽象画と言われる類の絵だった。
「あれ、繭美ちゃん?来てくれたの?お父さんに聞いたの?」
聡が大袈裟な仕草で、奥から現れた。
「嬉しいなぁ。嫌われたと思ったから」
「別に、好きじゃないけど」
私は冷たく言い放つ。一度会っただけなのに、急に馴れ馴れしくなった聡にも腹が立った。
「私、高校時代は絵画部だったから。絵は詳しいんだ」
「そうだったんだ。誰の絵が好きなの?」
「――ロートレック、かな」
「ムーランルージュの画家だね?彼の絵の何処が好きなの?」
「絵じゃない。私は彼の愛人になりたかったの」
「過激なことを、言うんだね」
彼は困ったように、頭を掻いた。
「彼は子供の時に馬から落ちて足の骨を折って以来、成長が止まってしまったんだよね。自分のことを小瓶ちゃんで呼ぶなんて、達観してるって思わない?」
「分からないな……」
「何が?」
「繭美ちゃんが、ここに来た理由だよ。僕の絵が観たかった訳じゃないでしょ?」
「私、貴方を不幸にしたいの」
「どうして?」
「私が不幸だからよ」
聡は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに優しい、余裕の笑顔に戻った。
「――いいよ」
「え?」
「不幸にしてもいいよ。って言っても、僕って楽観的だから、不幸にするのは難しいと思うけど」
「ふん」私は鼻で笑う。その強がりが、いつまで保つか。
「いい人ぶらないでよ。私は貴方のこと、よく知ってるんだからね!」
「よく知ってる?さぞかし悪い噂なんだろうね。そんなに怨まれてるんだから」
「ここを借りるお金どうしたの?今度のスポンサーは、何処の奥さん?」
「――ごめん、何言ってるの?ここのオーナーが知り合いで、安くして貰っただけだよ」
その時また例の機械音がして、聞き覚えのある声がした。
「繭美?お前も来てくれたのか?」
父が例の女を連れて、満面の笑顔で立っている。女が着ている麻のスーツの皺が、彼女をますます見窄らしく見せていた。
「繭美ちゃんは、僕のポスターを観て、来てくれたみたいです。入場料まで払ってくれて、申し訳なかったです 」
「そうかそうか。そりゃ散財させたな」
父が財布から一万円札を抜いて、私に渡す。お金でしか感情を表せない、可哀想な男。
「繭美さん、わざわざありがとうね」
小太りの女が、人の良さそうな笑顔で私にぺこぺこ頭を下げた。あぁ、面倒臭い。
「すいません。僕は繭美さんをそこまで、送って来ますから」
聡はそんな母親を見ると、私の背中を押した。どうやら、ギャラリーの外に出ろという合図らしい。
「お袋の前で、変な話は止めてね。僕は君が思っているような、悪い男じゃないよ。分かってくれると、嬉しいんだけどな」
そして私の頭を、子供のように撫でる。
「だって僕達、兄妹になるかもしれないんだからさ」
「馬鹿じゃないの!」
吐き捨てるように言って、その手をはねのける。
「そんなこと、させる訳ないじゃん。邪魔してやるから」
「困ったなぁ……」
拒否され行き場をなくした聡の手が、いつものように髪をクシャクシャと掻きむしった。
「相当嫌われてるんだなぁ」
「貴方が思ってる以上にね」
もっと、もっと、聡を傷つけたい。けれど私が毒を吐く度に、聡は余裕の表情で笑うのだ。
――分からない。何故母は、私には愛情を感じなかったのに、他人の聡をあんなに愛したんだろう。私の存在は……、母にとって、一体何だったんだろう?
◆九月十五日◆
聡がアルバイトから帰る前に食事の用意をしようと、久しぶりに彼のマンションに行った。すると、私の化粧品や洗面道具が、全てクローゼットに押し込められている。
直感で、女だと思った。
まだ聡は若いのだ。私も彼が望む時に、ここに来れない。既婚者の私が、聡を責めるのは筋違いなのだ。分かってる。分かってる。分かってる!
でも頭に血が上って、部屋中を探さずにはいられなかった。その女の痕跡を……。
そしてついに、ゴミ箱に使用済みのコンドームを発見した。膝がガクガクと震え、その場にしゃがみ込む。
私が選んだブルーのシルクのベッドカバー、素肌で横たわるととても心地良かったのに!そこで、聡が他の女を抱いた?
急いでシーツを剥がし、ゴミ箱に力任せに突っ込んだ。フロアにぞうきんを掛けて、お風呂も念入りに磨き上げる。その薄汚い女の痕跡を、早く消したかった。
掃除をし終わると、怒りが溢れて来る。私がお金を出してるこの部屋で、私が選んだこの家具で、あのベッドで、聡が他の女を抱いた!その現実に、押しつぶされそうになる。
私は聡に、ラブホテル用意してあげただけのか?こんな所、直ぐに解約してやる!聡なんか、浮浪者にでもなればいい。
次に、自分の馬鹿さ加減に、涙が流れて来る。信じた自分が馬鹿だった。
馬鹿、馬鹿、馬鹿。
「友達に部屋を貸したんだ。親の家に住んでる貧乏フリーターには、ホテル代は高すぎるって」
「――そうだったの?」
「ほら」
帰って来た聡は、そう言ってワインを差し出した。
「このワインは、高いのよ」
「そいつん家、酒屋だからさ。お礼だって」
私は安堵感から、ふーっと体の力が抜けた。
「祐子さんどうしたの?あれ?シーツ捨てたの?」
「私、貴方に他に女がいるんじゃないかって……」
「え!?」
聡は大袈裟に驚いて見せた。
「ここまで祐子さんにして貰ってるのに、他の女を呼べると思う?」
くちづけから、少しのアルコールを感じる。
「飲んで来たの?」
「バイトの帰り、同僚と自販機で缶ビールを飲んだんだよ」
「車なのに?」
私は言われるままに、聡の知り合いが経営するオートショップで先週ジープを買ってやったのだ。
そう言えば、長い髪で清楚な感じの女がいた。確か、亜矢香……。彼女と聡が隅で親密そうに話していたことを、今更のように思い出した。
「一缶だけだよ」
聡が急に不機嫌になったので、私は慌ててキッチンに向かい料理を作り始めた。聡をこんな風にしてしまったのは私。
でも、 女は不思議だ。女はそれが真実だから信じるんじゃない。理屈じゃなく、信じたいから信じるんだ。