母と娘の真実2
夫から「離婚」という言葉が出るのは早かった。
「金は用意してやるから、さっさと示談にするからな」
「誰からこのことを聞かされたんですか?」
「向こうの弁護士と、母親だよ。さっき、病院に来た」
「――で、貴方は私の話を聞く前に、向こうを信じたんですね?」
夫はそれには答えず、そっぽを向いた。本当は笑い出したいんじゃないだろうか?私と離婚する理由ができて。
「繭美は渡さないからな」
「え?」
「当たり前だろう?お前みたいな頭のおかしな母親に、育てられたら可哀想だろ!」
夫は言いたいことを吐き出してしまうと、病院に戻って行った。夫が出て行くと、発作的に台所で包丁を掴む。繭美は二階だろうか?夫婦喧嘩の時には、ヘッドホンをして大音響で音楽を聴いてる筈だ。後ろからそっと忍び寄って、刺し殺そうか。そして私も死ぬ。夫に思い知らせる為には、溺愛している娘を殺すしかない。でも自殺したなら、私が単に頭のおかしい女として終わってしまうじゃないか。
そうだ!繭美だけ殺して、警察に自首しよう。殺人事件となったら、警察だって真剣に捜査するだろう。そうすれば、聡と本当に関係があったことが分かるだろう。私が若い男をつけ回していた訳ではないことが分かるだろう。女としてのプライドを傷つけられるくらいなら、私は殺人犯になる!
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
「繭美?どうしたの怖い顔して」
私は母の日記の切れ端を握りしめて、リビングで放心状態だった。聡が濡れた手で頬に触れて、初めて彼が帰宅したことに気付いたのだ。
「――ううん、ちょっと。翻訳の仕事で行き詰まってて」
「そっか。俺のブロークンな英語で良ければ、手伝うけど?」
「う、うん。ありがとう」
元の形に折り畳んだそれを、分厚い辞書の間に挟んだ。
「どうしたの、濡れて」
「雨が降って来たんだ。傘なくて」
「電話をくれたら、迎えに行ったのに」
「こんな夜中に君に迎えに来て貰いたくないよ。もしもの事があったら、嫌だ」
そして、台所のコーヒーカップに気付く。
「――誰か来たの?」
「叔父さん。近くまで来たから、寄ったんだって」
「そっか」
お風呂場へ向かう、聡の背中を見つめた。聡は私を愛している。私も聡を愛してる。この日記は、心を病んだ母の妄想なんだ。そう、思い込もうとした。けれど、そうすればするほど、母が思い込んだ妄想の一部に自分がなりそうで、怖かった。
聡は早々とシャワーを浴びて、寝室に消えて行く。明日も早いんだ、なんて独り言を言いながら私の表情を盗み見る。気のせいだろうか?少し、不思議そうに首を傾げた。
「お休み――」
母の日記は、まだ辞書の間にある。このまま読まずに、燃やしてしまおうか。心を病んだ母の妄想であると答えが出ていた。それを信じていた。
怖いのは、新たな事実を知ることではなかった。一度信じた何かを、疑うことだ。
◆一月十日◆
一月三日から、母の所で過ごしていていた。繭美も誘ったが、友達と約束があると言う。普段の夫なら、新年早々、実家に帰ることを許さなかっただろう。しかし、今回ばかりは状況が状況だ。
「分かった。ゆっくりして来ればいい」
本当は、永久に帰って来るなとでも言いたいだろう。
夫は聡の弁護士と話しをつけて、既に示談を取り交わしている。
「あの子に、二度と近付くなよ」
どんな条件なのかは知らないが、鬼のような形相で命令された。聡をストーカーしていない証拠はないか?マンションの契約書は?お金は私が出したが、契約者は聡だ。車も、しかり。しかし、聡のアルバイトの給料で、マンションへ引っ越し、車を買うことは難しい。
調べれば、調べればきっと分かる筈だ。
「――あんた、心の病気なんだって?」
「え?」
母の言葉は、私に衝撃を与えた。私がストーカーをしたということを、少しも疑わないこの人達に証拠を突きつけたって、どうしようもないことなのだろうか。それに、考えて見れば、四十四歳の女と二十二歳の男だ。私が若い男を追い回していたということが、周りが信じたい事実なのだろう。
「人様に迷惑を掛けるようなことして!全く、あんたって子は……。離婚なんて絶対駄目ですからね!繭美がいるんだから!」
夫は母へも嘘の情報を流していた。
「私、病気じゃないよ」
「あんた、高校の時にもおかしなことしたじゃない」
「あれは!お父さんが亡くなって、色々あって気が滅入って」
「私が見付けるのが遅かったら、あんたは、あんたは……」
母が泣きじゃくるので、私は左手首の傷を隠した。この傷がある以上、母は私の言うことを信じてくれない。そう思った。
「――彼、離婚したいんだって」
「何ですって!そんなことは私が許しませんよ!あの歯科医院だって、誰のお陰で建てることができたと思ってるのよ!うちのお金のお陰じゃない!」
「あの人、他に女の人がいるの。だから、私、私……」
母の膝に縋ると、萎びた手が頭を撫でてくれる。
「貴女の心が壊れてしまったのは、あの男のせいよ。ね、貴女は何も悪くない。お母さんが、ちゃんとしてあげるから。ね?」
でも母はいつも私の味方だった。けれど……、私は繭美にこんな風に接したことがない。あの子が泣いていても、優しく背中を撫でてやったこともない。