母の嘆き
‥ ◇ ‥ ◇ ‥
母が私に愛情を感じていなかったという事実は、母曰く心が冷たい私でもショックだった。読みながら悲しいような、悔しいような、頭に来るような、不思議な涙が溢れて流れて、流れた。
私は母に同情しつつ、母みたいな女にはなりたくないと強く思っていた。父に怒鳴られ攻められて、小さくなって耐える母の姿は、その境遇に酔いしれているようにも見えた。その姿は、口汚く罵る父より寧ろ、驕り高ぶってさえ見える。
母は自分で思う以上に、陰気で無知で、面白くも可笑しくも何ともない女なのに。そんな自分に気付かず、誰かを責めているその日記に、とても腹が立った。
母は上品に振る舞まっているつもりだったかも知れないが、端から見れば慇懃無礼に見えることを知っていただろうか?
「繭美ちゃんのママは、感じが悪いってうちのママが言ってた」
同じクラスの子にそう言われて、私は返す言葉が無かった。
そんな母を印象的だと彼が言ったのは、その気取った態度のせいじゃなかったのか?
さっき日記を読んでる最中、和之からメールが来た。そう言えば今日、新婚旅行から帰って来たんだ。奥さんの好みでパリに行くのだと、嫌そうな顔をしていたのを思い出す。
「繭美ちゃんが、恋いしいよう」
こんな関係は面倒臭いと突き放した癖に、勝手なもんだ。メールしようとして止めた。勝手に、恋しがっていればいいんだ。
◆十月十五日◆
調べてみたらあの周辺にコンビニは幾つかあって、私は毎日それを見て回った。一週間それを続けて彼の姿を見つけた時は、感動の余り車の中で暫し泣いた。喜びの余り涙を流したのは、生まれて初めてかもしれない。
あぁ、生まれて初めてなのは、この熱くトロトロした感情だ。息もできず、唾液が溢れんばかりに何かを欲し求めたこと。
でも幾ら求めても求めても、彼は私のものにはならない。その答えに辿り着いてしまうと、私のたった一つの喜びが消えてしまう。だから今は必死に、この妄想めいた感情にしがみつく。でも、名前だけでも知りたかった。名前があれば、妄想がより現実に近付くから。
コンビニに入ると、目に付く物を片っ端から買い物カゴに入れレジに持って行く。沢山買ったのは、会計に時間がかかるように。彼の名札から、名前をちゃんと記憶するように。
「溝呂木聡」
心の中で、何度も反芻して記憶する。なんて清々しい、頭の良さそうな名前。
「あれ、お客さん。ガソリンスタンドに来てた人ですよね?」
「え?」
平静を装うのに必死だった、足の先から震えて来る。
「あ、覚えてないですよね。僕、直ぐそこのガソリンスタンドでバイトしてて。お客さん、カボチャ色の車に乗ってた人ですよね?家はこの近くなんですか?」
「――え、ええ」
「奇遇ですよねえ」
彼が無邪気に笑うから、私は自分の下心を知られたのだと思った。恥ずかしさから買い物袋だけを掴んで、逃げるようにそこを後にする。
「お客さん!お客さん!ちょっと、待って下さい!」
その声に振り返ると、彼が凄く近くまで来ていた。私は何かを期待して、鼓動を早くする。
「お釣り、忘れてますよ」
「あっ!」
「チップにしたら、多過ぎるかなって思って」
お札を何枚も握りしめる彼の手が、ガソリンスタンドの陰気男と同じくカサカサに荒れていた。そのささくれだった指が、私の掌を引っ掻く。
「ごめんなさい……。ありがとう」
「いえ、じゃ」
体を折り曲げて、私の目を覗き込んだ彼の陽気な瞳。黒目がちなやんちゃな瞳には、私がもうなくしてしまった輝きがある。私にもその輝きが欲しい!
真夜中、鼾をかいて眠る夫の顔を見下ろすと、押さえ切れない怒りが、腹の底から溢れて来る。頭の中で何度夫を、殺しただろう……。私の輝きを殺した男。
死ね。
死ね。
死ね!
◆十月十七日◆
「また、会いましたね」
スーパーで買い物をしていると、彼と偶然に出会った。溝呂木聡君。もうこれだけ会ってるんだから、聡君と呼んでもいいだろう。聡君、聡君、聡君!心の中で、何度も叫んだ。
「近くに住んでるの?」
「はい。直ぐそこのブルーのアパートなんです」
「じゃ、ご近所さんなのね」
そのアパートは本当に近所だったから、嬉しさを隠すことができない。妄想と現実の壁が、少しずつ薄くなる。
「今日、夕飯は何にするんですか?」
「お鍋にしようと思ってるの」
「ああ、いいなあ」
「――貴方は?」
聡君のカゴの中には、焼きそばの麺、キャベツ、ピーマンが入っている。
「見ての通りです。普段はコンビニの賞味期限ギリギリの弁当とかなんですけど、今日は休みだったんで」
「お料理できるなんて、偉いわね」
「料理って言えるかどうか、分かりませんけど」
照れ臭さそうに笑う彼の後ろに、若い女が立っていた。不機嫌な表情から、聡君と何か関係がある女だと分かる。
「さーとしー、何してるの?ええ~?焼きそば? カズミは焼き肉とか食べたいんだけど~!」
女が警戒心丸出しの目で、こちらを睨むように見るから嬉しくなった。こんな若い子に、敵対心を燃やされるなんて。
「さーとーしーの、ママ?」
「違うよ。俺の母親、こんなに若くないだろ?」
気まずそうに頭を下げて去って行く、聡君の背中を見送った。彼女がいたのは、思った以上にショックだった。あの若い女のように、聡君に寄り添って歩きたい!いや、……やっぱり、この気持ちは間違っている。
分かってる。
分かってる!
◆十月二十八日◆
今日は、私の四十四回目の誕生日。夫は帰りが遅いと言うし、繭美は塾のお友達の所に泊まるという。二人とも、私の誕生日など忘れている。
せめて好きな物でも食べようと、買い物に出かけて唖然とした。食欲さえ無い。何が好きだったのかさえ、忘れてしまっている。何故ならずっと、夫や繭美の好みを中心に、生活してきたから。妻とは、母親とは、そんな生き方をすべきだと思い込んでいた。でも、こんなに彼等に自分の人生を捧げても、「誕生日おめでとう」すらない。何故なんだろう?何故、こんな人生を送らなければいけないのだろう?何をどう間違えたのだろうか。
「あっ、また会いましたね」
でも聡君だけは、こんな私に声をかけてくれる。微笑んでくれる。嬉しかった。
「あら、今日はお休み?」
「はい」
「――今日も、焼きそば?」
「レパートリーが、少ないんですよ」
苦笑いの彼がクシャクシャと縮れた髪を掻くから、思わず乱れた部分を整えてあげた。
「す、すいません。つい癖で、髪をくしゃくしゃしちゃうんです」
「あ、御免なさい。私もつい、子供みたいに扱って……」
「いえ、そんな、ありがとうございます」
二人とも気まずくなって俯き、互いのカゴを見詰め合う。
彼のカゴには、前に会った時と同じ焼そばの材料が入っていて、何だか切なくなってくる。栄養があって、美味しい料理を食べさせたい!世話を焼きたい!でもそれは、私には叶わないこと。
「――じゃ、失礼します」
去って行く彼の背中を見つめながら、叶わぬ思いを胸に隠した。
好きなワインとオリーブ、チーズにクラッカー、フィットチーネとサーモン。生ハムとクレソン。目に付いて好きだと思う物をどんどんカゴに入れる。フルーツの詰め合わせを、ケーキの代わりに買った。
レジを済ませて大きな買い物袋を何個も抱えて外に出ると、土砂降りの雨だった。聡君が空を見上げて、困った表情を浮かべている。きっと傘を持ってないんだ。
どうしたらいいか悩んだあげく、車を彼の目の前で停めた。どんなことになっても、今日の私には言い訳がある。だって誕生日だから。これは神様の、ご褒美だ。
「送って行くわよ」
自然な感じに聞こえたかしら?彼は笑顔で車に乗り込んで来たから、私に好意を持ってくれてるの?と、期待に胸を膨らませる。
「助かりました。俺、傘を持ってないんです」
「じゃ、雨の日はどうしてるの?」
「濡れて行きます。でも今日は貴女に見つけて欲しくて、あそこで待ってました」
「え?」
「あっはっははは」
笑って誤魔化して、髪をクシャクシャにする。私はまた乱れた髪を直してやって、子供みたいに扱ったことを悔やんだ。彼は嬉しそうに微笑んでいるから、私の中の母性のような、新しい何かが、疼く。
「コーヒーでも如何ですか?」
アパートの前に着くと、彼が本当に本当に普通に聞くから、思わず「うん」っと、頷いてしまった。
カンカンカンと、鉄製の古い階段を上ると、夫が学生時代暮らしていた1K風呂トイレ無しのアパートを思い出した。あの時の夫は、健気だった。裕福な家に生まれた私に釣り合わない自分を、恥じていた。いつからだろう、夫が私の上に立つようになったのは。
部屋の中は意外に片付いているから、スーパーで会った彼女の存在を思い出し居心地が悪くなった。
「私、上がっていいのかしら……、ガールフレンドが気を悪くしないかしら」
「ガールフレンド?いませんよ。ああ、スーパーの子は悪友です。カズミって言って、幼馴染みです。
俺、今時な子って、好きじゃなくて」
その言葉で呆れるほどに安堵して、部屋に上がる。すると、不思議な匂いが鼻を付いた。
「油絵?」
「はい。学生時代から何となく描いてるんです」
「そうなの……」
「この部屋、狭いから。本当はもっと、大きいのが描きたいんですけどね」
手渡されたマグカップの黄色と、白の水玉柄、色褪せたブルーのカーテンと、薄茶色の愛くるしい彼の瞳。彼の全てが愛しく愛しく感じる。それは単純に言ってしまえば、欲情しているだけかも知れないけど。そんな単純な物ではないし、そう言ってしまっては、つまらない。
「今日。私の誕生日なの」
「そうなんですか。おめでとうございます」
彼は何か閃いたように、乱暴に押し入れを開けた。取り出したのは、小さなキャンバス。それを恥ずかしそうに、手渡す。
「プレゼントです。お誕生日、おめでとうございます!なんーて。俺の絵なんか、貰って嬉しくないだろうけど」
感激した。泣きそうになった。誕生日を祝ってくれる人がいる。けれど絵心のない私は、上手く感想を言うことすらできない。上手な絵ね!では、逆に馬鹿にしているように聞こえるだろうか。
緑のテーブルクロスの上に、白いハンカチをクシャクシャにして放り投げたような絵。そうとしか見えないから、申し訳ない気持ちになって素直にそう告げた。
「 私、絵心がないから……。気を悪くしないでね」
「タイトルは、嘆き、ですから。そんなとこです。その人は涙を拭ったハンカチを、テーブルに投げ捨てんだ。その解釈で、間違ってませんよ」
その言葉にほっとして、絵を胸に抱きしめる。
「嘆き……」
嘆き、嘆き……、私の嘆きを彼にぶちまけたくなった。夫のこと、繭美のこと、自分のこと。女の自分を、洗いざらい全部。
けれど、どうやって切り出して良いか分からない。でも我慢していた感情は、どんどん涙を伴って溢れて来た。それに驚いたのは私だけで、聡君は落ち着いている。やはり、私はここに来てはいけなかった。いい年して何をしてるのだろう。激しい後悔に苛まれて、逃げるように玄関に向かった。
「どうしたんですか!」
聡君が驚くほど冷静な声で言うから、私はハッとして振り返える。彼の年齢に似合わないその落ち着いた態度が、私を益々不安にさせた。
「本当にどうしたんですか?俺達まだ、互いの名前さえ名乗り合ってないのに……」
「そんな必要ないわよ」
そう言い捨てて帰って来てしまった。
帰宅して、雨に濡れたまま貪るようにチーズやクラッカーを音を立てて噛み砕き、サーモンや生ハムを咥えては引きちぎる。そして彼に言えなかった思いと一緒に、ワインで流し込んだ。けれど幾ら食べても、幾ら飲んでも、お腹は一杯にならず全く酔わない。
そのままテーブルに突っ伏して眠りこけて、目を覚ますと深夜一時を回っていた。部屋の中はシーンと静まり返っていて、ああ私は一人なんだなあと思ったら涙が止まらなかった。これからずーっとこの孤独を抱えて、生きるのは嫌!
この生活を捨てて、何処かに逃げたい!
――消えたい、逃げたい!
…◇ ‥ ◇ ‥
玄関の飾ってあったのは、彼の絵だったのか。金箔の豪華な額に入れてあったから、不審に思った父がしつこく聞いていた。
「お友達の息子さんの絵よ」
素っ気なく答えた母の頬が紅く上気していたのは、怒りの為ではなかったようだ。そうだ。明日、父の家に行って、あの絵をここに持って来よう。
母が聡に恋心を抱いていたという事実は、私をとても気恥ずかしくさせた。と、同時に、ホッとする自分もいた。何故なら私は、母が不幸のどん底で死んだと思っていたから。
母は死の直前まで恋に身を焦がしていて、――それは私には理解できない感情。まだ知らない感情だ。冷たい心の私でも、感じることができるのだろうか?