母の呪縛4
体力が回復し退院が決まった頃、和之からの素っ気ないメールが来ていた。
「傷は順調に治ってるって、カズミちゃんに聞いたよ。本当にごめん。全部の全部ごめん。俺はあいつとやり直すよ。あいつとの関係だけじゃなく、俺の人生を。繭美ちゃんも元気で。ごめんね。和之」
こんなに謝った和之は初めてだ。やっと和之も、自分の人生に折り合いを付けることにしたんだろう。
和之の奥さんは、父のお陰か情状酌量により執行猶予が付いた。今は病院で治療を受け、症状は落ち着いているのだとか。全てはカズミからの情報だ。頼めば聡のことも教えてくれるだろうけど、私には受け止める勇気がなかった。
三ヶ月後、松葉杖なしで漸くあるけるようになった頃、やっと退院することができた。けれど、まだ二階に上がることが難しい私には、両親が寝室として使っていた一階の日当たりの良い部屋が用意されていた。
リクライニングの高価なベッド以外は、母が選んだインテリアがそのまま残されていた。ピンクのレース編みのベッドカバーは母のお手製で、子供の頃はこの上にダイブしていたことを思い出す。
「素敵なベッドカバーだったから。しまっておくのは、もったいないでしょ?」
祥子さんは、優しく微笑んだ。
「ここの部屋を片付けてて、他にもいい物を見つけたのよ」
両手に抱えられた、数冊の可愛らしい日記帳。表紙には「繭美の育児日記」と書かれている。
「繭美さんのママが書いた物よ。少しだけ見せて貰ったんだけど、素晴らしくて感動したわ。……繭美さんは、素敵なママを持ったわね」
受け取った両手がフルフルと震えた。
「是非、読んであげて。」
表紙はブルーのベルベットで、それは日に焼けて色が褪せていた。でもその柔らかな手触りが、昔の優しかった母を思い出させる。
一ページ目を捲ると、母の踊る字が飛び込んできた。まだ二十四歳の母は、ハートマークや、ニコニコマーク、時にはイラスト入りで私の成長を綴っていた。
『今日、退院して繭美ちゃんと帰宅。帰った途端に、くしゃみを一つ。パパと、熱は?風邪か?アレルギーか?と大パニック!でも熱も無いし、お鼻がもぞもぞしただけかしら?』
『繭美ちゃんが、今日初めてオナラをしました!凄く可愛い~!この子って、何て可愛いいの~!こんな可愛い子は、他にはいないと思う。』
『繭美ちゃんは、良く笑う。その笑顔を見ると、みんなが笑顔になるから、赤ちゃんってやっぱり凄い。何にも喋れないし、泣いて、ミルクを飲んで寝てるだけなのに。私をこんなにも幸せにしてくれるなんて。繭美ちゃん!私をママにしてくれてありがとう!』
私をママにしてくれて、ありがとう……。その若々しく丸味のある母の字が、私の心を徐々に溶かして行くのを感じた。私はそれを、ひしと胸に抱き締める。今、ここに母が居ないことが、残念で残念でならなかった。今なら、今の私なら、母と語り合うことができる。
「そろそろ始めましょうか?」
遠慮がちに声をかける祥子さんの後ろに、不機嫌な顔をした亜矢香が居た。勿論、その表情は亜矢香なりのポーズだ。入院している時、何度も何度も花を届けに来た亜矢香。私が歩けるようになった事を、喜んでくれているのを知っていた。
「来てくれたんだ」
「お招きをお断りするのは、失礼でしょ?」
そう言って、つんと澄ました顔をする。けれど、一歩踏み出した私に、さっと手を差し出す。
「――ありがとう」
亜矢香は強い。そして寛大だ。私のせいで破談になったのに、全てを許して私を受け入れ助けてくれた。その華奢で白い指をきつく握ると、「退院できて良かったね」と独り言のように呟いた。
「――うん」
泣きそうになった。何故だろう、生死の境を彷徨ってから、全ての感覚が敏感になっている。だから……、聡が恋しくて恋しくて恋しくて堪らない。
「聡にも知らせたんですけどね……、来るって言ったんだけどねぇ」
と、祥子さんがちらし寿司をよそいながら、どうでも良いような口調で言った。
「私が居るから、来れないんじゃないのかしら」
亜矢香がシャンパングラスを持ち上げて冗談っぽく言うのを、祥子さんが慌てて取り消した。
「そうじゃないのよ、本当にどうしたのかしら?ちょっと携帯に電話してみようかしら……」
暢気に呟いた祥子さんが、受話器を持ち上げる。しかし、その顔が急に曇った。
「え?何処に居るの?空港?まぁ!え?繭美さん?」